第5-7話 昏い世界に浸る

文字数 1,288文字

 このまま消えて無くなりたい。そんな夜道を歩いた事をエルは思い出していた。数年前のあの日は、初めてリュゼでのチーム対抗の実戦練習で、エルは総大将を務めた。相手の総大将は、ナナイ。エルは、導術の巧みなナナイに負けた。総大将戦のチームの白熱した空気、期待をかける目、そして負けた後の冷めた目。エルはその責める様な自陣の目や雰囲気に耐え切れず、一人森の中へと逃げ込んだ。その夜の、空腹に耐え切れず、惨めな森からの帰路。そのときと同じだ、とエルはどこか他人事の様にぼーっと考えていた。

「ごめん、ジェロ。僕は何も出来ない…」
 エルは(うずくま)って泣いた。本当は何千人の人を一瞬で消してしまう様な恐ろしい竜を、それを手にした兄を止めたい。それなのに、たった数百人の戦場ですら止める事が出来やしないのだ。何も出来ないじゃないか。エルは、リュゼでの自分の努力を恥じた。もっと頑張っていたら、あの時ああしていたら、この時こう考えられていたら。そんな無いものねだりをしながら。


 頭を強く荒く撫でられた。

「馬鹿野郎。どこほっつき歩いてやがった」

 エルが顔を上げると、優しい笑顔を浮かべたジェロがいた。そう、あの日はそうやってジェロが迎えに来てくれた。しかし、今は…。いない。誰もこの頭を乱暴に撫でて迎えに来てくれる人はいない。

「ナナイに負けた。みんな期待してくれていたのに。それがなんだか堪えられなくて」
「カッカッカッ、なんだそんな事か」
「そんな事じゃないよ!僕にとっては大きな話だ!」
「ああ、そうだな。だが、誰もが経験してる。ワシもな」
「ジェロも?」
「ああ。何回も負けて…。そして、沢山の命を犠牲にもした」
「戦争した事あるの?」
「ああ。昔の話だが」
「そうなんだ…」
「ワシもおめえも史書の"英雄"なんかじゃねえ、生身の人間さ。そんな都合良く勝ち続けるなんて出来ねえだろう」
「そうなの?」
「ああ、おめえみてえな絵本ばっかり読んでるガキに分からんかもしれんがな!カッカッカッ」
「もう絵本なんて読んでないよ!最近読んでいるのは…」
「おめえが読んでる子供じみた本なんて興味ねえよ、カッカッカッ」

 ふと、この時のジェロはもしかしたら、現代の本--ファハマが持ち込んでくれる下界での現代語で書かれた本--を読めなかったのではないかと思いつく。ジェロはずっと僕に千年生きてきた事を隠していた。あの時は「馬鹿にするな」と怒ったけれど、今はそんなジェロの幼稚な誤魔化しも愛おしく思えて、エルは笑った。

 記憶の中のジェロがエルに語り掛ける。
「放牧していた羊を、狼群に食われた日があった。火計を企み、雨の降る日もあった。大軍で奇襲に遭い、壊滅された日もあった。落武者狩りから逃げる日もあった。全て昏き道のりだった。だが…」
「ワシは諦めなかった。心中の灯を信じた。そして今、全てを為してここに居る」

 エルの胸に柔らかな風が吹く。一度は消えたと思われた、燻っていた灯火が風を受けて姿を見せる。胸の灯火に暖められた血が、冷え切った身体に巡り始めて、徐々に身体全体に熱が伝播して行くのが分かる。
 もう一度立ち上がれる。エルはそう思った。
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