第2-8話 まつりの準備

文字数 1,691文字

祭りも近づき、街には気の早い出店がチラホラと見え始めていた。飴を溶かす甘く香ばしい匂いが漂う。それに誘われた美しい蝶がヒラヒラと舞っている。化粧してない練習中の道化や、路上のテーブルで酒盛り中の男たち。ガヤガヤと色んな音が飛んでくる。

「ジイヤ!祭りって感じになってきたね!」
そんな光景を見て、目を輝かせているのは黒髪の王子エルである。今日は庶民の格好をしている。

「これ、走るな。エル坊!こっちに来なさい!」
そう叱りつけるは、エルに剣術を教える白髪の老人ユーハ。

「失礼ながら。目立てば、この変装も見破られる可能性があります。折角のお忍びの時間、目立たぬ様にお願いします。」
エルに駆け寄って手を握り寄せた後で、ユーハは小声で耳打ちする。

「わかった!」
大きな声で答えるエルに、ユーハは笑顔でため息をつく。はしゃいでいる王子を呆れつつも微笑ましく思っている。

今日は、あまり元気のないエルを励ますため、城下街に来ていた。このことは国王などには内緒であり、街にいる兵士たちにも悟られぬよう、今は祖父と孫という設定で変装している。

エルの祖父と共に育ち、エルの父のときから教育係を務める重臣は、こういった王族ならではの気分転換の方法を熟知していた。

「エル坊、どこか行きたいところはあるか?」
「パンドルームってお店知ってる?」
貰ったお小遣いを握り締め、少し高揚した顔で聞く。

「あぁ、聞いたことあるな。菓子パンが売りのお店だったか。」
「そうだよ。なんか名前忘れちゃったけどおいしいパンあるんだって。この前、母上がとても嬉しそうに話してくれたんだ。」

普段の数倍大きな身振り手振りをするエルを見て、ユーハも楽しくなってくる。

「ならば、よし、連れてってやろう。しかし、少し並ぶぞ?」
「やったー!いくらでも待つよ。」

跳ねて喜ぶエル。そして、その横を微笑みを浮かべてユーハは歩く。街には祭りならではの装飾がなされて、歩いているだけでも楽しいものとなった。

二人はパン屋の行列に並んで、店では母上の言っていたパンがどれかと議論しながら、それっぽいパンを手当たり次第買った。そして、紙袋一杯のパンを抱えて、エルとユーハは街の雰囲気を味わいながら次の目的地へと向かう。

エルは、道すがらパンをぎっしり詰めた袋を覗いていた。そして、迷いながらユーハに訊ねる。

「ねぇ、ジイヤ。このパン、母上に持って帰っちゃダメかな?」
「だめだろうなぁ。」
「どうしても?」
「いや、どうしてもということはないが。ただ、ワシはお父様に叱られよう。ワシの首から上がなくなるかもしれん。」

そう言ってユーハは首にギロチンを模した手を当てて、悪戯なニヤリ顔を浮かべる。王子の身に何か危険が起これば、国の一大事である以上、何らかの処罰を受けることになるだろう。しかし、今は冗談のつもりで言っている。エルはパンを見つめていてその顔には気づかなかった。

「それはだめだね。でも、母上誰にも言わないと思うよ。」
「いい夫婦には隠し事はないぞ。」
「そうかなぁ。」
「そうさ。大人になれば分かるかのぅ。」
「母上、喜ぶと思ったんだけどなぁ。」
「ならば、別のことで母上を喜ばせれば良い。」
「別のことって?」
「勉強だ。」
エルは不満まみれの苦い顔を浮かべる。ユーハはそれを見て笑う。

王族の子は、大人になり公務で露出が増えれば、自然と市民も顔を覚えて、街を散策する事など二度と出来ない。これまで王族の人生を隣で見てきたから知っている。だからこそ、今しか味わうことの出来ない市民の暮らしを存分に感じて楽しんで欲しい。
そんな思いをユーハは持っている。そのため、一年に数度、お目付役をしている王族の子を内緒で街に連れ出していた。


ふと、エルが路上にある何かに気づく。それが落とし物だと認識したエルは、子供らしく何も考えずに駆け出した。ユーハもそんなエルに反応して、すぐさまエルを追い越し、落とし物を拾わぬ様にエルの前に手を出して制止する。ユーハは路上のものを見遣る。そして、露骨に訝しんだ顔をする。


そこにあったのは、洗濯物と思しき、ビショビショに濡れいるが泥に塗れて汚い大人用のシャツだった。
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