第1-1話 平穏な日々

文字数 2,068文字

眼下に、大河のような茜差す雲海が流れる。朝を迎える空気は一層冷えて、吐き出す息を白くした。

吹き荒ぶ強風に黒髪を乱されながら、少年は崖っぷちから数歩下がったところに立っていた。黒炭のように深く、艶のある黒色(こくしょく)の目を閉じて、一呼吸置き、精神統一を済ませてから両手を眼前に掲げる。掌は人の頭を包み込むような形を成し、その掌が作り出す、当初(くう)であったその空間には、一瞬にして(もや)のような白色した冷気が起こり、より白濁した雲に代わり、そして拳大(こぶしだい)の氷塊となりて、地面に落ちた。

少年は落ちた氷塊を不服そうに見下しながらも、一息吐いて、額の冷えた汗を拭った。

---還朝歴(オーバードセンチュリー)1019年。

ここは、誰も知らない村『リュゼ』。名も無い山の山頂付近にある狭い平地に家が点在するだけの寒村で、外縁を崖に囲まれているため人流がなく、地図にも載っていない数奇な村。

標高を勘案すれば、通常人など住める環境ではないだろうが、ここは地熱の影響か平野における春先程度の気温が一年中保たれ、耐寒野菜を中心とした農作と"釣り"--崖下に餌を垂らし、鳥を釣る--を主たる食糧源として生活が営まれていた。


エル・スタテンドは、この村では『導術』と呼ばれる術の練習を、毎朝の習慣としており、今朝も導術により氷塊を作り出していた。

エルの目標は、瞬間的に人の頭大(あたまだい)の氷塊を作ることであるが、導術は集中力は勿論のこと、身体の中の熱量(エネルギー)を伝導させるような特異な体術が必要であり、未熟なエルは手から全身へと上手く伝導出来ずに、手に熱量が滞留するため、手が焼けるように熱くなり、目標のスケールに至る前に我慢の限界が来てしまっていた。

エルは、口を一文字に結び、鼻でため息を吐いた。

リュゼ唯一の転入者であるエルは、齢七歳にして初めてリュゼで導術を知ったところだが、導術が日常生活に溶け込んでいるこの村の人々は、拳大の氷塊程度なら七歳になる頃には皆作れていた。学舎(まなびや)でも、最早それだけで一つの単元とはなり得なくなってしまったものの、導術は闘技の授業の一環として当然に組み込まれており、現在十七歳になるエルにとっては、焦燥を感じずにはいられない状況だった。

熱くなった手を冷やすために、なるべく地面から手を離して、風の中で掌をぶらぶらと振り回しながら、目を閉じて、もう一度身体の中の熱量を伝導させるイメージを呼び起こす。

「波。波のイメージ。水面に出来た波紋を意識して。身体が水であるように思い込む。徐々に波紋が手から全身へと巡っていくイメージを持つんだ。」

手が程よく冷えたところで、肺の空気を全て吐き出して、また両手を掲げた。

「波。波だ。」

そう言って、目を開き、また氷塊を錬成した。当然一朝一夕でどうこうなるものではなく、先ほどと同じ程度の大きさをした氷塊が、地面に先住していた氷塊とぶつかり、こつんと音を立てて転がった。

「カッカッカッ。まだまだ、チン毛も生えないガキのようじゃねえか。」

不満気にため息を吐いたエルの後方から、伸ばした白髪を後ろに束ねた皺枯(しわが)れた老人が愉快そうにやって来た。エルは威嚇するように顔を顰めた。ジェロと呼ばれる老人は、老人と言っても、白髪と皺をぼかせば、その挙動は壮年と見違えるほど精細で力強く、歳を感じさせない若さがあった。彼はこの村で村長を務めると同時に、エルの保護者となっており、平素衣食住を同じくしている。

ジェロは嫌がるエルの肩に手を回し、空の向こうを見ながら話した。

「赤子も最初は歩けねえが、ほっといてもいつの間にか歩き方を覚えやがる」
「なんの話だよ」
「赤子は言葉なんて知らねえのさ」
「はあ?」

ジェロの脈絡のない話に合点が行かず、むすっとしたままジェロを睨んだが、その後に続く言葉はなかった。エルはまた一つため息を吐いて、空の向こうを見遣る。

このジジイの話は回りくどいが何かしら助言をしようとしたに違いない、とエルは知っている。二人の間には、十年という時がもたらした信頼関係が存在していた。
ジェロは親を亡くし、この村に逃げ込んできたエルを迎え入れ、血縁も由縁もない他人のエルに親と同等の愛情を注いでくれた。エルはこの村に来る以前の記憶を無くしているが、時折悪夢にうなされ、錯乱して泣き叫ぶときがあった。そんな折も、ジェロは優しく抱きかかえ、傷付けられようとも、決して怒ることはしなかった。そのようにして育まれた二人の関係は、エルが思春期ということもあって、普段は憎まれ口を叩き合うことが多いが、芯の部分では信頼しあった、親子のような関係となっていた。

ジェロが不意にエルの背中を音が出る程の勢いで叩いた。痛みに驚くエルに、ジェロは高笑いしながら告げる。

「辛気臭い顔するな!さっ、やるぞ」

そうして二人は、日課である釣りの準備を始める。準備が未了のエルの背中をジェロが蹴り飛ばして、エルがいつもどおりの恨み節を叫びながら、崖下に落ちてゆく。

リュゼでの"釣り"--人を餌にして肉食鳥獣を捕獲する珍妙な行為が、今朝もまた行われ、エルの叫びが、(にわとり)さながら目覚まし代わりに、住民に朝を告げるのだった。
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