第2-13話 逃亡の始まり

文字数 1,621文字

カン、カン、カンと警鐘が鳴り響く。エルはその直前に、胸をすっと通り抜けた何か風のようなものを感じて、母のことを思い出していた。そして、なんとなく窓外を見遣ったとき、窓から音が流れ込み始めたのだった。

エルがなぜ鳴っているのかとぼんやりと思う一方で、ユーハはその音を察して急いで一度待機室の戸の鍵を閉めた。戸に背を合わせながら、エルに告げる。

「緊急事態を知らせる鐘です」
「緊急事態?」
「音の周期からして最大級の事態です。もしかしたら、王の身に何かあったか…」
「父上に!?」

エルは椅子から飛び起きて、顔を青くした。ユーハは背負った戸の向こうの音に神経を尖らせながらも、室内を一瞥し、いざ逃亡しなくてはならないという場合を考えた。他国の刺客の可能性を真っ先に思い浮かべて。

「まだ分かりません。私が様子を窺ってみます。エル様は椅子の裏に身を隠し、剣を抜いておいてください。それから、窓外から逃げられそうかも見ておいてください」

そう言って、ユーハはゆっくりと少しだけ戸を開いて、耳を澄ました。城内を慌ただしく駆け回る人の足音が尋常ではないほどの喧騒を生み出している。ユーハはその足音の主が叫ぶ怒声の一端を聞き驚愕した。


「国王、王妃殺害!主犯、エル第二王子!クーデターだ!唆した教育係のユーハ含めて生捕りにせよ!」


戸を閉じてエルを見る。警鐘の意味を知らぬエルがユーハに疑問の顔を向けるのに、ユーハはすぐに答えられなかった。何も言えずに生唾を飲む。汗が吹き出して止まらない。なんの間違いか。

ユーハは混乱しながらも、状況のまずさを噛み締める。

この部屋にいては危ない。この状況下ではいくら弁明しようと誤解が解けるわけがない。一度安全なところに身を置き、状況が落ち着いたところで、誤解を解くべく動くべきか。

ユーハの頭には、エルの唯一の肉親であるオルナの顔が過ぎった。彼なら現場を見れば、エル様がやったわけではない、と直ぐに見抜くだろう。それに普段あれだけ嫌っていようとも、流石にこの状況であればエル様のことも匿ってくれよう。

そのとき、強く戸が叩かれた。中堅兵士が「出てこい!」と戸を打ちつける。暗部経由で時間毎のエルの所在地を知るオルナ派の兵士だった。その怒号を聞きつけ、オルナ派に唆され賞金に目のくらんだ平兵士たちもこぞって集い始め、戸が大きく(たわ)み始めた。

早すぎる。エルの居場所の特定速度が尋常ではない。エルのタイムスケジュールを知っている者がいる。政府内部に--いや、王族の警護者の中枢に近い位置に内通者がいるのか。

ユーハは思考したのも一瞬、それを無意識下に押し込めて、戸を注視しながらエルを背に隠して後退り、窓際に寄る。今は犯人を考えるべきときではない。何も分からず恐怖に震えているエルをどうにか逃さねば。ユーハは、窓際まで寄り切ると窓から上体を出して、逃亡経路になりそうかを見回した。

迎賓のため主宰側のエルは、城内でも高層階に待機部屋を設けられていた。石造りの城の八階。飛び降りることは不可能で、石積みの隙間はあるが、大人の足を引っ掛けて地上まで降りていくことはできそうになかった。

いや、あるいは自分が下敷きになれば、エル様だけは無事に地上に降りられるか?ユーハはいい手を閃いたと一瞬喜んだ。しかし、その後はどうする。地上も慌ただしく駆け回る兵が右往左往しており、エル一人ではどうしようもなく思えた。混乱し過ぎているとユーハは自省した。

ユーハはチラリとエルを見る。エルはユーハの顔を、今にも泣き出しそうな顔で見つめて、ユーハの裾を震えながら握っていた。ユーハはその姿に憐れみを感じ、涙を堪えた。やはり今生の別れとなろうとも、自分が下敷きに。

そのとき、息の荒い聞き馴染みのない声がユーハの耳朶を打った。

「やめとけ。子供一人じゃ、この状況をやり切れん」

ユーハが右を見ると、そこには同じように窓から上体を乗り出した、汗だくの姿で肩で息する壮年の兵士の姿があった。
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