第1-3話 放課後の静寂の中で

文字数 1,943文字

エルは、学舎の窓枠を飛び越えて、窓枠の下の壁に身を隠した。着地の衝撃で、マルオーイに打たれた箇所がズキリと痛み、声は出さずに顔を顰める。

マルオーイとの勝負はなんとか一勝できたものの、体力の消耗は激しく、二戦目に臨めば勝てないことは明らかだった。だから、マルオーイが復帰する前に逃げ出したのだ。

マルオーイは、兵長の家系だけあって、膂力においても導術においてもエルに勝るが、致命的に単細胞で、観察や戦術観に劣っていた。数年に亘り勝負をしてきたエルは、マルオーイの戦闘の癖を知り抜き、大体の勝負はエルの勝利に終わらすことができている。それがマルオーイをよりエルへの対抗心を煽ることになっているのだが、エルはそれに気づくまでの洞察力はなく、平素は勝つことだけを目指していた。

しかし、簡単に勝てたのは昔の話で、近年では二人の体格差がより顕著になり、導師長の血筋も混ざっていることから導術にも才をみせ始めたマルオーイは、エルを勝ち辛くした。

遅れて到着したマルオーイの叫ぶ声が教室に響き、エルは思わず口を押さえた。

「エル、どこだ!?まだオレはやれるぞ!出てこい」

早くいなくなれと願う傍ら、教室内の会話に耳を澄ませる。誰もいないと思い、飛び込んだ教室には、まだシュスが残っており、口裏を合わせるよう願い出る暇もなく、ただただ隠れてしまった。シュスは上手くやってくれただろうか?どうかなんとか匿ってくれ、と目を閉じて願う。

もう一戦をやる体力も根気も、最早エルの中には残っていない。何時間にも感じられるような数十秒が経過したとき、不意に頭上から「行ったよ」と落ち着いた声が届いた。エルは驚いて、猫のように俊敏に頭上を見る。

窓から上半身を覗かせていたのは、シュスだった。その顔は、ただ事務的に伝言しただけというような、無感情なものをしていた。エルが痛みで上腕を押さえながら、「ありがとう」と感謝を述べると、シュスは機械的に「どういたしまして」と答えて、「痛むのかい?」とさして興味なさそうに聞いた。

「まあね」
「そう。打撲?擦り傷?」
「打たれたところだから打撲だと思う」
「そう。なら、これを使うといい」

そう言って、窓枠を飛び越えたシュスが一輪の花をもぎ取り、その葉をエルに差し出した。エルはポカンと口を開けて、シュスを見つめた。

「これは、サヤガミ。葉液には、鎮痛成分が含まれているから、葉を噛んですり潰してから、吐き出して、それを打撲箇所に塗るといい」
「へえ、そうなんだ!シュスすごいな!」

とエルは目を輝かせて、葉を受け取る。そして、それを噛んだ瞬間、シュスが思い出したように「あっ待って。凄く苦いよ」と遅れて伝えた。エルは思わずえずいて、口の中の葉を勢い良く吐き捨てた。唾を何度も吐き捨てるエルを見て、無表情なシュスの顔に笑みが浮かんだ。シュスは口元に握った手を当てて、「ごめん、遅かった」と笑った。

エルは初めてみたかもしれないシュスの笑顔に、ある種の興奮を覚えて、「すげえ苦い」と舌を出しながら一緒に笑った。それから、二人は少し話した。

シュスは学舎一の成績を誇り、武術も学術も優れていた。しかし、友達を作ろうとはあまりせず、自分の世界を持っているようなどこか隔世的なところがあり、いつも一人で本を読んでいた。

いつもナナイやマルオーイの相手をしなくてはいけないエルは、羨望に近い、どこか興味を持ちながらも、ずっと話しかけられずに過ごしてきていた。

そんな折、マルオーイによる不思議な縁で、話すことができた。エルはそれが嬉しかった。シュスは語る。

「僕は、この村を出て世界を見たい。そのために、この村で唯一下界に降りることが許される"調査役"になる。だから、勉強も武術も一番を目指しているんだ」

エルは、目を輝かせたシュスの持つ確かな目標と未来を垣間見て、その胸に『自分はどうなのか』という漠然とした焦燥が去来した。

シュスと別れ、同じ場所で一人、壁に寄りかかるエルは、先の感傷を改めて見つめ直す。

ナナイとは多分好き合っていて、このまま行けば結婚するだろう。子供が産まれ、ジェロのように白髪の老人になって、子供たちに看取られ、この村で死ぬ。

…本当に?

ナナイと過ごすことはとても楽しいし、とても心が暖かくなる。だけれど、ナナイと共に歳をとり、この村で死にゆく自分が想像出来ない。いや、ナナイは関係なく、"この村では平和に暮らしていく"ということが想像出来ないのだ。

なぜ?

自分の心にそう問いかけても返答はなかった。無くなった記憶に何かあるのかもしれないと思いながらも、シュスの「この村を出て世界を見たい」という台詞が頭の中にこだまして、自覚してしまった心の中の"違和感"に、エルは宛てもない生きづらさを感じるようになった。
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