第5-1話 薬売りの優しさ

文字数 2,514文字

犬の吠える声がする。それもとても近くで--。

エルはその声が現実のものであると気づいて、慌てて飛び起きた。目の前では猟犬のような脚の長い犬がこちらに吠えていた。下手に動けば噛み殺されるかもしれないと思い、エルは固まったまま苦笑いを浮かべて、その犬を見続けた。

「ジョフ、どうしたんだ?急に」

そう言って木々の合間を縫って駆けつけたのは、後ろに木箱を背負った、黒髪をてっぺんで団子状に結った浅黒の青年だった。青年はエルを見ると驚いた顔を浮かべて、叫んだ。

「おいおい、こんなところでどうした!?大丈夫か!?」

エルは犬を驚かせぬようにゆっくりと頷く。

「どうしたんだ?血塗(ちまみ)れだし、それに顔面も青いな。何があった?」

急いで駆け寄ってきた青年は、エルの眼球を見開いてみたり、口を大きく開けさせてみたり、出血箇所などの確認を勝手に始めた。エルは気圧され、なすがままにされることにした。その目は悪い人ではなさそうだったから。

「随分と鼻血を出したんだな。これは自分の血なんだろ?」

鼻腔に固まり付着したままの鼻血を見て、青年は聞いた。

「ほとんど覚えてないですが…多分」
「やれやれ、一体なにがあったんだ?見慣れない服だし、どこか遠くから来たのか?もしかして、昨夜のあの大きな"地震"に関係あったりするのか?」

エルはなんと言うべきか見つからず、口をつぐんだ。青年はそんなエルの顔を察して、「なに、無理に聞き出そうとは思わんさ」と笑いかけた。

「俺は薬売りのカンタ。よろしくな」
「僕はエルです。エル・スタ…エル・スタンタンです」
「なんだ、変な字名(あざな)しているな」

カンタは目を線にして笑った。カンタは、エルが字名を隠そうとしたことに気付いており、その隠し事のあまりの下手さがおかしかった。

「ところで、エル。どうやらお前は昨日から水分も食事もまともに取っとらんだろ。目や口腔に脱水の兆候が出ているぞ。さ、飯でも食おう。滋養強壮に効く薬草をたっぷり入れてやる」

そういうと、カンタは薬草と米を煮立てた粥を作り、エルにゆっくり食べさせた。そして、少し休憩してからエルを連れ立って近くの村で休むことにした。

「この近くには、グリーンモールという小さな町があるんだ。俺の恋人もそこに居てな。エルもそれだけ出血したんだ。しっかりとちゃんとしたところで休まないかんぞ。宿賃はあるか?どうだ、一緒にエルザの家に泊まるか?夜はうるさいかもしれんがな」

カンタは含みのある悪戯な笑みを浮かべてエルに聞いた。エルは少し頬を紅くしながら、「結構です」と答えた。

「俺はこんな仕事しているから、月に一度しか帰れなくてな。それほど会えないから、正直エルザがどう思ってくれてるか分からなくてな、今まで結婚という話はしたことがなかった。でも、今回帰ったら結婚しようと言ってみるつもりだ」

カンタとの道中は昨日のことがまるで嘘に思えるくらい平和だった。ジョフも懐いて、カンタもエルのことを気に入ってくれ、よく揶揄(からか)った。

「あっ、そうそう。エル、お前は何も知らないようだから忠告しておくぞ。町に入ったら何も喋らない方がいい。お前はどうも変な訛りがある。この国では、情報は"売れる"から、お前がもし何かの事件の渦中にいるなら、すぐに売られる可能性があるぞ」
「訛ってますか?」
「ああ」
「そっか。気付かなかったな…。」

エルは染み込んだリュゼ訛りがあることに困惑しながらも、どこか暖かなものを感じた。

「ところで、情報が"売れる"っていうのはどういうことですか?」
「スタテンド王国独自の第二通貨、"ビート"というのがあってな。本当にそのまま売れるんだよ」
「情報が、ですか?」
「ああ、言葉のままだよ。例えば、お前が国に追われている人なら、それを国の情報集約所に伝えれば単純に"ビート"が貰えるのさ。ただデマの可能性もあるから、基本的には信頼できる売却人からしか買い取らん。だから、初めての持ち込みの場合なんかは、二束三文か門前払いさ。その"ビート"は、国への有益な情報をもたらしたときに支給されるから、国からはお礼と言う感じだろうな、"ビート"で色んなモノが買える。"ビート"で買えるのは、"役職"を初めとして、国が所持する備品、装備品なんかだ。極め付けは、まだ過去一人しかいないが、城を買った奴なんかもいるらしいぞ」
「すごい仕組みですね」
「いけ好かないよな、流石獅子王だよ」
「獅子王…」

エルは胸が苦しくなるのを感じて、話題を変えた。

「カンタさんは、僕のこと売らないんですか?」
「まあな。俺はこの仕組みが好きじゃない。常に知らない他人同士、お互いを監視するような感じになっちまって、息苦しいんだ。俺は自由に生きたいからな」
「立派ですね」
「ははっ、どこがさ。ただ子供なだけだ」
「楽な方に逃げずに、抵抗し続ける意志があるじゃないですか。立派ですよ」
「そうか?なら、そう思ってくれていい。悪い気はしないしな。さ、もう少しで着くぞ」

カンタがそういうと、エルたちの歩いてきた獣道が街道に繋がり、道が開けた。首を左右に振り、グリーンモールはどちらか窺うエルの横で、カンタは突然走り出した。

カンタが立ち止まった先は、ひらけた土地があり、そこに町一つ入るような大穴が穿たれていた。周辺には砕けたレンガなどの町の営みを感じさせる残留物があり、大穴の岩肌は溶岩がドロドロに冷えて固まったかのような異様な風貌をしていた。

「こ…ここに、グリーンモールがあったんだ」

カンタは、口を震わせながら、現実を受け入れることも出来ずに、呆然と立ち尽くした。そして、探し物がみつからないかと、僅かな希望を持って--いや、突き付けられた絶望をなんとか否定したくて、穴の外縁に沿って走り出した。

「エルザ…、エルザっ!」

そう掠れた声を絞り出しながら走る。涙が浮かび始めた目を左右に振って走る。土に埋もれた残骸を掘り返しながら走る。そして、あまりに長く延びる外縁を回り切ることもできずに、膝をついた。

土を握りしめて震えるカンタに、エルが追いつき、側によった。

「こ、ここに…、ここにグリーンモールが…エルザがいたんだ!」

咽び叫ぶカンタを、エルは茫然と見ることしかできなかった。
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