第26話 国姓爺異聞 ── 瀧を昇る鯉 (4)

文字数 1,562文字

 五元は、嵐の中を日本に向かう船上にいた。五元が陳氏の館の中にある簡素な一室で過ごすようになってから十日ほど過ぎた頃である。
事態は急変した。時の延平郡王(えんぺいぐんおう)であった鄭経(ていけい)が急逝したのである。
鄭経が亡くなったのは、奇しくも、父の国姓爺と呼ばれた鄭成功と同じ年齢であった。

 鄭成功が存命であった頃から、鄭一族は内紛があったが、鄭経が国姓爺成功の後を継ぎ、延平郡王となると、鄭経の能力と人望もあり何とか纏まってはいた。
 
 鄭経は長子の克蔵(かつぞう)監国(かんこく)に指名し、指導役の陳永華の娘を夫人とした。しかし、鄭経が亡くなると、それまで水面下で対立していた清朝打倒の主戦派と台湾経営を重視する実務派の争いになった。そして主戦派が監国であった克蔵を惨殺し、次男の鄭克爽(ていかつそう)を擁立した。

 陳永華は最悪の事態を予想し備えていた。五海商の一人である劉福と謀り、娘の季娘を田川七左衛門のいる長崎に密航させるべく手はずを整えていたのである。そして季娘の護衛役として五元が選ばれたのであった。

 揺れる船底で五元は座禅を組んでいた。陳李娘は、下女の三佳の手を握りながら、一方の手は、揺れる船底の荷物を固定した荒縄に捕まり息絶え絶えになりながら、

もう死んだ方がましかも知れない……。ここで死んだとしても天主様からのお導きがある。

季娘は、船酔いとも悪阻ともつかぬ朦朧(もうろう)とした意識の中にいた。
一方、陳氏の手を握って懸命に励ましていた三佳は、

「お坊様は天主様の化身かしら……」 
あの夜は竜神様のように空を飛んだと思うと、襲ってきた族が次々と倒れて、地に降りた時は、悪者はすべて倒れていた。その後、姫様と私を抱えると地面を滑るように走り、塀を飛び越したのである。

そして今は、まるで湖面に浮かぶ毬のように漂っているのだ。

 五元は、監国である克蔵が惨殺された同時刻に異様な胸騒ぎがして、中庭を抜け鄭氏の部屋に向かうと、そこには黒装束の五人の賊が立っていた。

「何者か!!」 

五元の朧月夜を震わす大音声に、その瞬間、暫く時が止まった。
五人の賊は、手にした白刃を振りかぶったまま棒立ちになっていた。
五元の「気合術」であった。

 気合術とは、発する声を振動に変え、飛んでいる小鳥などを金縛り状態にする技である。
丹田から搾り上げ喉を発した振動は裂破くの気合となり、彼らの神経を麻痺させ行動を制止させたのである。

五元は叫ぶと同時に手にしていた(こん)を地面に突き刺すと、それを弓のように墝らせ大きく跳躍をした。そして空中で棍を手元に引き寄せると、脇に絞り込み目にもとまらぬ速さで五人の喉元を次々と穿った。

五元が得意とする「形意拳」にある槍術の一つであった。
元来、形意拳は槍術の理をもって考案された武術である。おそらくこの瞬間を三佳は目撃したのであろう。まさに朧月夜に龍が躍った瞬間であった。

そして今また、五元の半跏不座が船の揺れと同じように揺れて、それでいて微動だしない姿を奇跡の様に三佳は見つめていた。

 季娘を助けた五元は、下女の三佳とともに長崎に向かう予定であったが、途中寄港した「琉球」で降りた。それというのも、季娘の身体が、日本までの船旅に耐えられそうにもないと思われたからである。

 琉球は当時、薩摩藩に属し、島津氏が薩摩屋敷を設けて統治していたが、一方明朝に対しても冊封を受けているように見せかけていた。
薩摩藩としては、琉球が両国に属していた方が、貿易のメリットが享受できたのである。

 鄭家と琉球との関係は古く、船主の劉福は、琉球王の貿易上の顧問を務める鵜飼波留馬を通じて、季娘が琉球国に留まることができるように手配をした。
当然、薩摩藩にも鄭克爽を擁立した主戦派にも悟られないように、陳李娘は鄭克蔵の後を追って自害したとされた。

そして、五元という名の僧侶もまた、この世からいなくなったのである── 
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登場人物紹介

月森シンスケ 1945年生まれ。名古屋で輸入家具店を営む。趣味はモダンJazz鑑賞。探偵小説を愛する。特に、レイモンド・チャンドラーのフィリップマーローと、ロバート・B・パーカーのスペンサーが大好き。

月森キョウコ 1949年生まれ。月森シンスケの愛妻。趣味は音楽鑑賞 浜田省吾の大ファン。1991年、急性再生不良性貧血症にて急逝する。42歳であった。

藤川モモコ 1957年生まれ。トロイメライの主任スタッフ。1983年結婚するも4年後に離婚。子ども一人。

福珠宗海 1923年生まれ。台湾生まれで、沖縄在住。福珠流唐手十代目総師。

福珠 華 1945年生まれ。沖縄県の糸満で育つ。福珠宗海の養女で、息子健心の許嫁。

石田貴史 1959年生まれ。特定郵便局長。月森夫婦の友人。

松木 幸 1947年生まれ。伊賀で桃幸窯を開き活動している陶芸家。曜変天目茶碗に魅せられる。

杏梨(シンリィ) 1916年 福建省で生まれる。厦門で月森シンスケの恋人になる。

月森鷹三 1902年生まれ。シンスケの祖父。台湾で教師を務めていた。終戦後、名古屋で鉄工所を営む。

月森森一 1927年生まれ。シンスケの父。鷹三の後、鉄工所を継ぐが、1970年43歳で急逝。

李五元 福建生まれ。南少林寺にて修行する。陳近南の娘を守り、琉球に逃れる。沖縄に、李少林拳を伝える。それが後に、福珠流唐手となる。

陳李娘 陳近南(永華)の娘。鄭成功の孫である鄭克蔵の妻。鄭家の内紛で命を狙われる。夫の克蔵は惨殺されるが、李娘は、李五元により助けられ琉球に逃れる。その後、鄭成功の弟である田川七左衛門の庇護により、克蔵の子を産み、その後、その血統は福珠家により守り続けられる。

田川雪姫 1916年生まれ。台湾で生まれ育つ。鄭成功の直系の女性。福珠家、月森家と親密な関わりを持つ。大東亜戦争の沖縄戦により亡くなる。29歳であった。

馮炳文(ふうへいぶん) 1934年 厦門で生まれる!? 父親は馮正如、母は陳杏梨。三邑興業会長。

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