第47話 エピローグ
文字数 3,243文字
祖父が始めた町工場を父の森一が継いで、日本が高度成長期の真っただ中にいた頃だ。
工場近くの商店街には、小学校で同級生の肉屋があった。
「山本屋」という大きな看板が軒の廂の上にかけられていて、日曜日になると息子の正太が、
店先でコロッケやメンチカツを揚げる手伝いをしていた。前にある八百屋では
確か母に連れられて、飲んで酔いつぶれた父を迎えに行った飲み屋がこの近くにあったな。
夕暮れ時になっても休日の商店街は人で溢れていた。
今日は何日だろう? 二十日頃だろうか──。
「人が多いな……。二十日だったら給料が出たばかりだな」
シンスケは
言うまでもないが、このBARには「私立探偵」はいない。
── 懐かしさに惹かれて入ってみた。
「いらっしゃい。お一人? カウンターへどうぞ」
美人ママ? が嬉しそうに手招きをした。シンスケはカウンターに座ると
「お客さん、初めてね。この辺の方? どちらから?」
年増の美人ママは、赤いルージュの唇を顔いっぱいにして矢継ぎ早に質問する。
「取引先との営業で大須から来たんだ。今日は休みで明日帰る予定」
── 夢の中での会話に随分と慣れてきたじゃないか。
シンスケは、昔住んでいた町の商店街にあるスナックにいることを自覚していた。
(オイオイ、こんなことに慣れてどうするんだよ)
そう思っていると、二人連れの男女が入ってきた。
「ママ、こんばんは。この人頼むね!」
女性はそう言うと、男を一人残して店を出て行った。
一人残された男は、この早い時間帯にも関わらずかなり酔っていた。
「シンちゃん、飲み過ぎよ。早いうちからこんな酔っぱらうなんて」
美人ママはそう言うと、グラスに水を注ぎカウンター越しに男の前に置いた。
シンスケはカウンターの端に座る男の横顔を覗き見た。
(やっぱりそうだ!父の森一だ!)
店に飾ってあるカレンダーを見ると1969年の11月20日らしい。
日曜日か。カレンダーに黒いマジックで引かれた斜線でそう推測した。
その時、店に「アカシアの雨がやむとき」が有線放送から流れ出した。
「
カウンターの端でうつ伏せになっていた森一が、突然起き上がると歌いだした。
──父の歌声ってこんなんだったんだ。結構うまいじゃないか。
「うまいなァ!」
思わず森一の歌を褒めると、森一は美人ママに、
「ママ! 彼に
そう言うと、シンスケの隣に移ってきた。
「ありがとうございます。遠慮なく戴きます」
森一の横顔に頭を下げたシンスケに、
「こちらこそ、すいません。酔っぱらいの下手な歌を聴かせてちゃって……」
森一は嬉しそうに笑いながらシンスケに
「小松と申します。よろしくお願いします」
「ああっ、こちらこそ、月森です」 そう言ってグラスを合わせた。
──親父もまだ三十代の前半か。若いな。今のオレよりも随分と若い……。
すると美人ママが
「なんだかお二人とも気が合いそうね。なんか雰囲気が似てるぅ」
と、合いの手を入れた。
「そうですか。ところで月森さん、音楽でもやっていたんですか?」
父に一度聞いてみたかったことをシンスケは尋ねてみた。
「いえいえ、ギターなら少し。歌は讃美歌を…… 小さい頃よく歌いました」
「へーっ。 讃美歌を!?」
シンスケは驚いて、
「失礼ですが、クリスチャンですか?」
と思わず聞くと、
「いえ、いえ、違います。実は好きだった女性がクリスチャンでして、彼女にくっついては
いつも歌ってました……」
森一は少し切なそうにそう答えた。
「こう見えても、私、幼い頃ピアノを習ってまして、ジャズピアノなら少しばかり弾けます」
シンスケは小さい頃からピアノを習っていたので音感はいい。
「へーっ、すごい! でも分るわ。服装がピッチリと決まってるもの!」
美人ママが場を盛り上げる。
「ピアノかあ。うちの息子もピアノやっててね。女の子みたいに綺麗な手をしてるんだ」
「でも、最近はあんまり話をしてくれないんだよ……。」
曇った表情で話す森一に、俄かに後ろめたさを感じて、シンスケは慌てて話題を変えた。
その後、二人の話は盛り上がり映画の話にまで及んだ。
シンスケが理髪店の親爺から聞いた映画の話に振ったのだ。
「最近の映画では、市川昆の『炎上』がいいね」
森一は、市川昆の『炎上』が好きだと言った。映画の中に写り込む日本的な陰影とその空間を幾何学模様的に処理する手法が、とてもモダニズム的だと。
「三島の絢爛たる美に対する文章を解体して、よくあんな風に映像化したなぁ」
「……そこに惹かれるんだ」
そう語った森一に、
「それなら、『リートフェルト』と『
それを興味深く聞いていた森一は、
「ボクは、日本が昔からある
ねっとり
とした情念が好きじゃないんだ」「それで世界と戦にもなったし、好きな女とも別れることになった……」
と、まるで自らに聞かせるように、唐突に言葉を漏らした。
その後、店が立て込んできた。シンスケは酔った森一を送ると言って、二人は店を出た。
──帰り道は、十分承知している。我が家である。明かりの消えた工場の並ぶ道路を二人して千鳥足で歩きながら、
「小松さんは、奥さんと子供は?」と、
森一は、シンスケに聞いてきた。
「妻は、五年前に病で亡くなりました。子供はいません」
そう答えると、
「悪いこと聞いたね。実はさぁオレも好きな人を亡くしてね。初恋の人……」
「いやいや、家内は本当によくできたヤツでね。はい、感謝してるんです」
森一は、酔って細くなった目を
「従業員にロクに給料も払えない。不甲斐ない亭主で苦労かけてる……」
そんな話をしていると、自宅の前まで来ていた。
「コマツさん、家に寄っていってくれ! 何なら泊ってくれても一向にかまわないよ」
シンスケの腕をつかんだ。そうして、
「コマツさん、いい人がいたら所帯を持ちなよ。オレもさ、女房がいるから、何とか生きられてんだ……」
そう言う森一の手を、シンスケは両の掌で包むように、そして強く握りかえした。
家が見えなくなる角まで来てシンスケは振り返った。するとまだそこには森一が立っていた。
シンスケの姿が見えなくなるまで見送っていたのだ。玄関にある外灯が遠くで手を上げる森一を照らしていた。シンスケが振り返ったのを見て、森一は、左足を曳きずるように二、三歩踏み出すと、シンスケに向かい手を振った。
──やっぱり、父さんだったんだ。母に引き会わせたのは……。
「チャンドラーの『The Long Goodbye』じゃないんだぜ……」
その瞬間、涙腺が崩壊した。
「うっ、うっ、」やるせなさで胸を塞がれ言葉が漏れだした。
──親父ってこんな感じだったんだ……。
父の森一とこんなに話したのは初めてであった。
静かな音楽が流れていた。
暫くして聞きなれたFM放送のDJの声が聞こえてきた。
眼が覚めると「ピンク」の「Barber chair」に凭れていた。
「あんまりよく眠てたんで、起こさなかったよ」
そう言って「ピンク」の親爺は、シンスケに蒸しタオルを手渡した。
シンスケの頬は涙の後であろうか、カサカサに乾いていた。
「戦争さえなければ、彼女も生きていたのに……」 か……。
父の声と微笑む妻の顔が交差した。シンスケは、ふたたび涙で零れそうになる瞳に、
渡してもらった蒸しタオルを強く押し付けた。そうして蹲ったまま動けずにいた。