第27話 天国(heaven)と名付けた男 (1)
文字数 2,694文字
観音開きの大きなガラス張りの店のドアが、運転手によって開かれると、
黒髪を後ろに束ねた女性が入ってきた。
──相変わらずスタイルが良い。
「社長の月森様にお取次ぎをお願いします。三邑会の
店の奥でその姿を見ていた月森シンスケは、少し肩を
「おっ、出番だぜ。歌舞伎のラスボス登場前のシーンみたいだ」
「間違いなくオレが登場したら『
シンスケの冗談に、
「ぷうっ」 傍らにいた藤川モモコは珍しく吹きだすと、慌てて口を手で押えた。
「モモちゃん、
軽い口調で彼女に言うと、迎えに来た黒のセダンの後部座席へと乗り込んだ。
馮炳文がトロイメライを訪れてから一か月ほどが過ぎた頃である。彼からの突然の招きであった。シンスケを乗せた黒のセダンは東に向かって走り出した。
(いったいどこに向かうのだろうか──)
気持ちを見透かしたかのように助手席の女性秘書が、シャープに整った顔立ちを後部座席にむけた。──やっぱり美形だ。
「会長は西浦の別宅でお持ちになっております。時間にして一時間少しばかり、ご辛抱ください」
それだけを言うと、背筋をピンと伸ばし正面を向き直った。
おおっ。塩対応で美人! 探偵小説にでてきそうだ。
──007の美人秘書はすこぶる愛想がいいいんだけどね。
そんなシンスケの妄想を裏切ることなく、彼女は馮炳文の別宅に到着するまで終始無言であった。(う〜ん……。本当に反社の事務所にでも連れていかれてる気分だ)
そう思うと、彼らの一挙一動が、アメリカ映画の私立探偵に絡む脇役俳優に見えてしまう。こんな時、ボガードならBorsalino《ボルサリーノ》(中折れ帽)を目深にかぶりトレンチコートの襟を立てシートに
シンスケは、思わず咳ばらいを一つすると、
車は大容量のエンジンが静かに音をたてて加速していく。実にいい乗り心地だ。
シンスケを乗せた黒のセダンは、東別院から名古屋高速に乗ると、スピードを上げ大高線にルートを取り豊橋方面に向かった。知立バイパスを国道23号方面出口から幡豆方面に向かい、平坂街道と呼ばれる幾つかの町工場が並ぶ県道を、西浦温泉に向かって進んでいた。
店を出たのが10時半頃であった。腕時計の短針は、ブルーの文字盤の11を指し、長針は6を少し回っていた。
「もう、そろそろかな──」 誰に言うとでもなくシンスケが呟くと
「あと、十分ほどで到着します。もう少しですので、ご辛抱ください」
最初の事務的な声色とは明らかに違う。とても親近感のある話し方だ。女性秘書は後部座先のシンスケに振り向くと、艶のある赤い唇の口角を上げるとコクリと頭を下げた。
──やはり美形だ。あんな風に笑われると、周りの男性が放ってはおかないだろうな。それで塩対応なのか。
そんなことを考えていると、シンスケの身体は強く座席に押し付けられた。目の前に映った「観光センター」の看板の文字が右から左に流れていった。
車は大きく右折すると細い斜面の道を登っていく。そのまま西浦の海岸を一望できる高台に向かっていった。山頂の高台は木々に囲まれている。
黒いセダンは林の脇に設けられた門を静かにくぐっていった。
手入れされたヤブツバキやアラカシなどの雑木が、両側に配置されたアプローチの先に、
コンクリート製の建物が眼に飛び込んできた。
高台は自然公園のようになっていて、その一角に建造物があった。コンクリートの建物には、
大きな厚みを持たせた屋根が水平に広がっていた。
美術館や大学の建物、あるいは大都市にある文化センターのような鉄筋コンクリート造りの建物のようである。が、非常に特徴的な形状をしていた。
太い鉄骨の支柱が壁から浮き出ていて、大きな障子の桟のようだ。縦のラインと横のラインが強調されている。長い水平な二階の屋上からは、猫の耳のような突起物が覗いている。
車は建物の正面の路面からゆっくりと左回りに回旋するように、正面玄関へのスロープを上がり、正面ドアの前に横付けされた。
車から降りたシンスケは、足元が小口のタイル張りになっていてるのに気が付き、
「ほーっ、綺麗なものだ。こんな小口のタイルを玄関アプローチに敷き詰めているんだ」
シンスケは、思わず感嘆を声にした。
さらに上部に目をやると、玄関の廂は屋根のそれよりも大きくせり出している。
そして玄関を中心としてベランダや窓、手すりまでもが非対称の直線で構成されていた。
シンスケはそれを見て、馮炳文が「リートフェルトの椅子」が好きだといった理由が何となく分かった気がした。
(この建物は、「堀口捨巳」の建築物なのか──? あるいは……)
直感的にそんな気がした。
江戸時代の藩邸の門を思わせるような観音開きの大きな扉は、銀色のアルミ製らしく、以外にも軽々と開閉ができた。吹き抜けのエントランスホールを挟んだ両サイドには事務室と応接室があった。シンスケはエントランスホールの南側にある応接室に案内された。
応接室は黒い絨毯が敷かれ、赤のモケットの布地のソファが置かれていた。天井は日本間のような市松張りがされていて縦と横は非対称になっている。応接室の奥には茶室が設えられていた。茶室には比較的大きな天窓があり、茶室としてはとても明るい印象を受ける。
シンスケが応接室のソファの赤いモケットの布地を掌で撫でながら、スプリング状態を興味深く確認している時であった。
「流石にご商売ですねェ。あっ、失礼、私の
「あっ、いえ、とんでもない。お招き戴きまして有難う御座います。それにしても、実に興味深い別宅ですね」
「あっと、失礼な表現でしたか──」
シンスケの言葉に馮炳文は笑いながら、
「いえいえ、貴方をこちらに御呼びしたのは、この別宅を見て戴きたかったからなのですよ」
と、シンスケを茶室に案内した。
「う〜ん。 この天窓は自然光ではないんだ。蛍光灯なんですね」
天井にある大きな市松の障子から射しこむ明かりが、天窓からの自然光でなく蛍光灯であることに気が付き、馮に伝えると、
「はっはっ、非常に興味深い茶室でしょう。この建物のコンセプトは、非対称の直線とモダニズムと和様式の融合なのです」
「ひょっとして、堀口捨巳? ……ですか!?」
「ほぼ、あたりです。と言うのも、彼の設計図を基に建てたものなのです」