第30話 厦門の黄昏は悩ましい (1)
文字数 2,199文字
そして、沖縄で福珠宗海から聞いた話を沈思していた。
流石に歳極でも午前零時を過ぎる頃になると、店舗のある住宅地も、森にいる様な静寂が辺りを支配していた。ただ、受験生あるいは学生のいる二階の窓から漏れる明かりだけが、人の気配を感じさせていた。
そして、彼らの不安や溜息の入り混じった感情を漂わせるように、小さな明かり取りの窓から
蒼白い月の光が、雲の流れで見え隠れしていた……
──
シンスケが突然、我に返ったのは、夜の歓楽街の赤や黄色の電飾の光が、窓から差し込む
古ぼけた部屋の一室であった。
「窓からは月明りが……!?」
恐る〱、古ぼけた木製の白い扉の擦れて鈍く光る真鍮のドアノブを捻った。
そして、思い切って足を踏み出した。
掌に不快な軋みとガタツキが伝わると同時に、自分が建物の踊り場に出たことが分かった。
シンスケは、都会の烏の声にも似た
目に飛び込んできたのは、ケバケバしく点滅する光の残像で、そこは歓楽街の表通りであった。
クラブ「黒猫:Black Cat」。店の前に止まった黒塗りの大きなセダンからは、タキシードとドレス姿の男女が腕を組んで降りてくる。まるで上海を舞台にでもした映画のワンシーンだ。
シンスケは誘われるように、そこに次々と集う正装をした男女の姿に見入っていた。
しばらくして我に返った彼は、慌てて自らの身なりをチェックした。
金ボタンの紺のブレザーに薄いブルーのボタンダウンのシャツ。タイは赤と緑のレジメン。
パンツはグレーのスラックス、そして足元は黒のウイングチップである。
一応、合格だ。顧客と会う時の定番である。
ブレザーの内ポケットを探ると革財布と名刺入れが入っている。
所持金を見ると一万円札が三枚と五千円と千円、合計三万七千円と小銭が少し。
手持ちは余り多くはないが、カードがあるから大丈夫か──。
そんなことを思っていると、左腕にやわらかい感触が伝わってきた。
ツンとした香水の匂いが鼻腔の粘膜を刺激し、思わず眉間に皺を寄せた。
シンスケの傍らには赤い
「ねえ、誰かと待ち合わせ?」
そう囁く女の真っ赤なルージュの唇が上に伸びると、何か植物の葉のような形状を思わせた。
それは嫌な感覚ではなく、寧ろ魅惑的な曲線を描いていた。女は白い歯を覗かせた。
アジア系の美人である。
気が付くと、「黒猫」の向かいにある店の個室に彼女と二人で座っていた。
店内では明らかに中国語と英語が飛び交っている。
「君は、日本語が喋れるのか?」
そう尋ねると、
「貴方は日本人ね。私の父は日本人で、母は中国人。だから日本語は大丈夫」
流暢とはいえないが、心地よい日本語が女の口から流れてきた。
シンスケの隣で腕を絡ませて座った
彼女をみて男を手玉に取り、海にも山にも住んだという蛇とも思われず、シンスケは少し安心した。どこか少女のような幼さが残っている横顔に話かけた。
「君は、いつもあんな風にお客を店に引っ張ってくるのか?」
「正直に言うと、オレはこの街に来たのは初めてなんだ」
彼女はシンスケの質問には答えずに、
「貴方は何飲む? ウイスキーでいい?」
彼女は運ばれてきたウイスキーグラスの一方をシンスケに手渡すと、
自らのグラスをカチンと勢いよく合わせ口に運んだ。
「おおっ!」思わずシンスケの声が出たほど、クイッと音がするような飲み方をした。
が、案の定そのあと咽込んだ。
彼女は、その様子をみて笑っているシンスケの胸を平手で叩くと、
「一度、カッコつけて飲んでみたかったの」
そう言って笑いだした。
それを機に二人は初めて出会ったとは思えないほどに打ち解けた。
彼女に連れてこられた店の名は「シャムン」と言うらしい。
厦門の
彼女の名前は、陳シンリィ。母方の姓を名乗っていた。
「君はシンリィっていうのか、いい名前だ。オレはツキモリ、シンだ。シンと呼んでくれ」
シンスケは妻が亡くなって以来、久しぶりにシンリィと名乗る女性に、オンナを感じて
戸惑っていた。──明らかに惹かれている。
時間が経つのを忘れて、出されるままにウイスキーを煽っていた。
「もう、そろそろ帰りましょう。シンさんお金ある?」
そういうシンリィに、シンスケはブレザーの内ポケットから財布を出すと、彼女に手渡した。
革の長財布を開いて中身を確認した彼女は怪訝そうに、
「お金には、日本銀行券…… 千円と壱万円て!? あるけど!?」
「確か…… 三万円程入っていたと思うが、なんならカードで支払っておいてくれ!」
「Ⅴカードか、Massカードもあったと思う」
思っているよりも足に来ている。
シンスケは立ち上がろうとして、思わずソファーの下に座り込んだ。
「ちょっと待ってて、
しばらくすると彼女は、店のマネージャーと思しき中国人の男性を連れて戻ってきた。
そこからシンスケの意識は、くぐもった白い
途端に斑模様の感覚を残し記憶は遠退いた。