第43話 夢の終わりは、やっぱりHard Boiled (2)
文字数 3,535文字
トロイメライには、藤川モモコの元気な声が響いている。彼女のお蔭で店の経営も順調で、
若い男女のスタッフが増えた。
「藤川主任、社長って昔からおしゃれなんですか?」
若い女性スタッフの問いかけに、
「昔はもっとピシッとしてたわよ。最近は、『TARO・A』なんかの服も着るようになったけど、それまでは、オフでもオックスフォードシャツと綿パンに紺ブレだったから」
そんな二人の会話を耳にしながら、シンスケは商談室で一人珈琲を飲んでいた。
勿論豆は、エチオピアだ。ゆっくりと珈琲を飲み終わると、シンスケは忙しくスタッフに指示するモモコに声を掛けた。
「モモちゃん、ちょっといいか?」
藤川モモコを商談室に呼ぶと、
「今週の木曜日って、空いてない? 空いてたら、付き合ってほしい所があるんだ」
「木曜日ですか。ええ、大丈夫です。特に予定はないですから」
「……ウフ、それって、デートのお誘いですか?」
嬉しそうにモモコは、綺麗なショートカットの髪を耳元で掻き上げた。
彼女も確か四十歳に近いはずだ。
息子の亮クンも元気なんだろうか。ふと彼女の息子のことが頭に浮かんだ。
「ところで、モモちゃん、最近、亮くんと会ってないけど、元気なんだろ?」
シンスケがそう話すと、
「ええ、元気にしてますよ。時間があると、児童養護施設に行ってます」
モモコの返事に、シンスケが不思議そうな顔をすると、
「そこの子供たちと勉強をしてるんですよ」
モモコは少し嬉しそうに、息子の話をしてくれた。
一緒に勉強をしているのは、亮が小学校の低学年の時に、クラスに転校してきた女の子である。母子家庭で母親は夜の仕事をしていた。その為、少女は低学年の基礎的な勉強ができていなかった。それを亮が教えてやるようになり友達になったそうだ。
「亮にとっても初めての友達で。でも、その女の子が突然、学校に来なくなりまして──」
少女が連絡もなく学校に来なくなったのである。心配した学校の職員が、暮らしていたアパートを訪問した。そこで少女が一人で置き去りにされたことが分った。母親は少女を捨てて男と逃げたのだ。少女は二日間も食事をせずに、母親の帰りを待っていたそうだ。
結局、身寄りのない少女は、児童相談所から県内の児童養護施設に入所することになった。
「彼女が入所した児童養護施設というのが、区内の『慈愛学園』って施設だったんです」
それを知った亮は、彼女とその施設いる子供たちと一緒に遊んだり、勉強をしているそうだ。
「殆んどの休日は、そこでボランティア活動してます」
モモコの話に、シンスケは胸が熱くなった。
「すごいな。オレも亮クンの爪の垢でも煎じて飲まなきゃあいけないな」
──亮くんも今年で中学生か。好きな女の子ができてもおかしくない。
シンスケがそんなことを思っていると、
「亮はその子が好きみたい」
モモコがウインクして笑った。
──妻と二人して心配した彼女の一人息子の顔が浮かんだ。
(フン、なんだか最近は、やけに涙脆いぜ)
歳をとって、涙脆くなったマーロウやスペンサーも、カッコイイと思うんだが──。
春景の艶やかさが各地で聞かれるようになった四月の初旬であった。
シンスケはスターレッドの№205に藤川モモコを乗せて、東別院から名古屋高速に乗り、
大高線にルートを取り豊橋方面に向かった。
そして、知立バイパスを国道23号方面に抜け、西浦温泉に向かって進んでいた。
「社長、けっこう遠くへ行くんですね」
「小ちゃな車ですまん。西浦まで付き合ってほしいんだ。車で一時間半ほどかな」
モモコに答えると、シンスケは車のCDデッキのスイッチを押した。すると軽快なテナーサックスが流れだした。
「この曲、社長が二階でよく聞いてる曲ですよね」 そう言って、
「ON A SLOW BOAT TO CHINA」が流れだすと、モモコは窓ガラスを人差し指でタップしながらリズムを取っている。
「ところでさぁ最近、連絡がないんだけど、三邑興業の会長。店に連絡あったかい?」
「三邑興業の社長!? それって誰です?」
まったく知らない、といった様子のモモコの不思議そうな顔に戸惑いながらシンスケは続けた。
「ええっ!? 映画や演劇の公演なんかを主催している会社の会長で
「……ほら、モモちゃんに『企業四季報』でリサーチしてもらっただろ」
「う〜ん!? 私の知る限りそんな企業も名前の人も、顧客リストにはありませんよ」
藤川モモコは言い切った。
「社長、奥様が亡くなってから、色んなことが重なって、他の記憶と、混同してるんじゃありません?」
心配そうにハンドルを握るシンスケの横顔を見つめてくる。
「いやいや、黒塗りのでかいセダンに乗ってきただろ。黒服の美人秘書を連れたさぁ。
五十代で中国人らしい特徴のある喋りの……」
「知りません。トロイメライには一度も来たことはありませんよ」
シンスケの話を遮るように、彼女は断言した。
混乱しているシンスケの耳に、セロニアス・モンクの「MEMORIES OF TOU」が流れてきた。
まるで心を見透かしたような、独特の不協和音と打楽器的なピアノソロ。
途中で休憩しなければ耐えられそうにもない混乱が彼を襲っていた……。
一時間ほど走っただろうか──。
車は大きく右折すると、細い斜面の道を高台に向かって登り始めた。
丁度、ピアノ・トリオの演奏が車の中で流れ出した。
「とってもいい曲──」モモコが呟いた。「IN A SENTIMENTAL MOOD」だ。
「トミー・フラナガン。日本でも好きな人が多いよ。素晴らしいピアニストだ」
そんな会話をしながら、スターレッドの№205は、西浦海岸を一望できる高台に向かっていった。終点の高台は森林に囲まれていた。
林の脇に設けられている門は、以前来た時のままだ。その門を静かにくぐると、アプローチの先に、コンクリート製の建物が見えてきた。高台は変わらず自然公園のようになっていて、その一角に建造物があった。
「へーっ。素敵な公園ですね。社長は来たことあるんですか?」
「うん。ここが車の中で話した馮炳文会長の別宅だよ」
「社長、まだ言ってるんですか? あの建物の正面プレートには『陶磁器研究センター』って書いてありますけど──」
シンスケは無言のまま、暫くその建物を凝視していた。
暫くして一人で車を降りると、正面玄関の階段を登り、銀色のアルミ製の観音開きの扉を開けた。そして吹き抜けのエントランスホールにある事務室を訪ねた。
「失礼ですが、ここはいつごろ建てられたものなのですか? それと、この建物は個人の所有なのでしょうか?」
受付にいた女性職員は、シンスケの質問ににこやかに応対してくれた。
「このセンターが完成したのが1961年、昭和36年です。それ以来、県が管理・運営に携わっております」
「と言うと、当初から県が設立したものですか?」
「はい。当初から、愛知県と陶磁器組合との共同で設立されました。管理運営は、現在は陶磁器組合が代行して行っておりますが」
その回答に言葉もなく頷くと、シンスケは、モモコの待つ公園のベンチへと向かった。
なんだか足元がふらついて、雲の中を歩いているような錯覚に陥っていた。
シンスケの心には、未だに釈然としない
彼は、何故「リートフェルト」に
何故「堀口捨巳」に、そして、どうしてあの映画監督なのだ?
その時、「ピンク理容室」で「Barber chair」に座って聞いた父の話と、「BAR・モダン」での父森一との会話を思い出した。
愛する人を守れなかったことへの自己否定の結果か!?
その結果が非対称の直線と日本人の情念という陰性の解体にむかったのか?
──カッコよく言えば、そういう……
それが父のモダニズムで、リートフェルトや堀口捨巳がその答えなのか……。
「父親はツキモリ・シン」
と言い切った馮炳文は影も形もなく、消えてしまっていた。
ただ一つ確かなことは、君はオレの息子として現れた……
それは、父の言葉を伝えるためにか?
そして、オレが父の息子であったということを、分からせるためにか?──
藤川モモコはベンチに座り、眼下に展がる温泉街の海岸の景色を眺めていた。
彼女の肩に背後からそっと触れると、モモコは嬉しそうにシンスケを見た。
「社長、用は済みました?」
「ああ、……そうだね。遠くまで付き合ってもらって。 ──ありがとう」
少し疲れた表情でモモコの隣に座り、
シンスケは高台の頂上にある公園から展がる太平洋の穏やかな蒼い海を眺めた。