第4話 夢が夢だとは限らない ── 1931 臺北 (1)

文字数 2,747文字

 ── 最近はコンビニのレジ袋くらいしか、見たことがないよな。
そう思いながら、風に(あお)られて浮遊する眼の前の新聞紙を、反射的につかみ取った。

英國(えいこく)志那(しな)の味方か?』
新聞にはこのような見出しの文字が、大きく踊っていた。

臺灣日日新聞(たいわんにちにちしんぶん) ── 昭和六年十二月五日』
國際聯盟(こくさいれんめい)は遂に、高壓(こうあつ)手段に訴へて日本に向って経済封鎖の(きょ)に出るかも知れない。之に伴って國際聯盟は崩潰し、昭和七年に入って世界大動乱の幕は切って落とされるかも知れない。……云々(うんぬん)。 折から上海で開催中の太平 洋會議(たいへいようかいぎ)の席上、英國代表が『日本は自衛權(じえいけん)發動(はつどう)と言ふが、ピストルを突きつけて自ら自衛權といふは可笑しいではないか』と我代表に迫ったとの報に接した──。

臺灣日日新聞(たいわんにちにちしんぶん)』と刷られた紙面の内容もさることながら、発行された日付を目にして男は固まっていた。

「昭和六年十二月五日……。」
「えっ!? しょっ、しょうわ六年…… 十二月!?」 
思わず口にすると慌てて彼はあたりを見回した。

 男の名前は月森シンスケ。1945年生まれの彼は、気が付くと見知らぬ赤煉瓦(あかれんが)の重厚な建物の前に立っていた。眼の前にある壁面は、大理石の白い帯を(まと)っている。丸の内からの東京駅のような佇まいだ。彼は何度も目を擦りながら、あたりを見回した。

「ここはどこだ!?」 
東京駅に似た建物だが、明らかに違う場所だ。日本か!? 

足元に眼をやると石畳が広がっている。そして、建物の入り口と思われる石柱門には、日本国旗が飾られていた。行き交う人々の日本語に混って、他のアジアの言語も聞こえてくる。 

 間違いなく日本のどこかの駅舎であろう……。
眼の前に見えるのは、おそらく駅のロータリーである。ロータリーの中央は、石柱で囲まれ小さな公園になっている。そこには大きな台座があり、椅子に座り、足を組んだ人物像があった。

 近づくと座像の台座には、
鐵道部長工學博士(てつどうぶちょうこうがくはくし)長谷川謹介(はせがわきんすけ)』の銘が刻まれていた。

月森シンスケの思考は停止したまま、その台座の文字をなぞるように見つめていた。
すると、微かに柔らかい暖色の光を感じて時の経過に我に返った。

 ── ガス燈の明かりだ。
「えっ!? ガス燈!?」
台座のある小さな広場からは、陽が沈む方角に真直ぐに道路が伸びていた。路面の両端には点々と続く橙色(だいだいいろ)の街灯がともり始めている。雲の隙間から漏れる茜色の陽の光と街燈(がいとう)で、夕暮れが、すぐそこに来ていることが分った。

── 間違いなく時間が流れている。
月森シンスケはそう感じながら再び建物を振り返ると、駅舎の正面から左右に翼を広げたように、等間隔で小さな石柱が並んでいた。

「駐車スペースであろうか……」
クラウンロゴの黒いセダンや、臙脂色(えんびいろ)の混ざった黒い車両が、数台停められていた。所謂(いわゆる)クラッシックカーである。彼は慌てて、赤煉瓦造りの駅舎の正面に戻ろうとして、人力車とすれ違った。

「えっ、普通、駅前のロータリーは、バスの発着場かタクシー乗り場だろう!?」
ここでは人力車か──!?

── どうやら、明治や大正時代をモチーフとしたテーマパークらしい。
そう考えていると、ほどなく人力車の車夫から声を掛けられた。

旦那(だんな)、何かお探しですかい?」
「北町? それとも峨眉町(がびまち)なら安くしておくよ」
シンスケはその声に、振り向き様に声を掛けた。

「ここは、何駅ですか?」
突然の問いかけに車夫は驚いたように眉を(ひそ)めると、

「珍しいお人だねぇ。旦那、駅間違えたの!?」 
「ここは臺北驛(たいほくえき)だよ。万華(ばんげ)で降りて西町へ行くつもりだったのかい? さっきも言ったけど、峨眉町(がびまち)だったら安くしとくよ!」 
と、車夫の威勢のいい声が続いた。
 
 その時である。人影が眼の前を横切った。わずかに左足を曳くような後ろ姿。薄墨色の雲の隙間から、微かに漏れる陽の光で、少し猫背な影が長く伸びていた。

── その影には記憶があった。
真直ぐに西に伸びる舗道を、影は揺れながら動いていく。まるで街灯の明かりに導かれるように人影は遠のいてった。シンスケが咄嗟に追いかけようとすると、

「ちっ、挨拶も無しかい!」 
車夫の舌打ちがシンスケの耳に聞こえてきた。

「ごめん! 今度使わせてもらうから」 
反射的に返事をした。こんな場面(とき)でも一応気を使ってしまう。営業職の悲しさだ。シンスケは車夫に一瞥すると、急いで影の後を追った。小走りになり影に近づこうとするが、一向に距離は縮まらない。それどころか、揺れる影は驚くほど速い。たまらずシンスケは走り出した。

 気がつくと、
 ── チャイナタウンで見かけたような六角、いや八角か!? 

 兎に角、多面的な煉瓦造りの大きな建物の前に立っていた。建物の入り口には大きな(ひさし)がある。その上には看板らしきものが掲げられていたが暗くて確認できない。ただ、路を隔てた街燈の灯りで、建物が赤煉瓦で造られていることは分かった。

 辺りはとっぷりと暮れはじめ、すでに薄暗い闇に包まれていた。目の前の暗い煉瓦造りの建物とは対照的に、向いの路地からは、赤や黄色の光が漏れてくる。その大仰しく瞬くネオンの路地からは、女の嬌声(きょうせい)に混じって、男たちの言い争う声が聞こえてきた。

 シンスケは、声のするネオンの通りへと入っていった。あの人影が、その路地へと曲がった気がしたのだ。恐るおそる、原色の電飾が点滅する狭路を奥へと進んで行く。すると、猥雑(わいざつ)な嬌声が耳元近くで響いた。

 ── その時である。シンスケの身体は大きく横に揺れた。
   そして、突然に人混みの中に引きずり込まれた。

ガツン!!──。
鈍い音と痛みをともなった衝撃が襲った。
その瞬間。コールタールで舗装された黒い地面が、目の前に現れた。

フィリップ・マーロウやスペンサーも、こんな不様(ぶざま)に倒れるのか?──。
ようやく夢は終わりだな……。
視界は白く遠のき、シンスケは意識を失った。

「おい! きみィ! しっかりしろ! 大丈夫か!?」 
耳元で誰かが呼ぶ声が聞こえる。
(へへっ。 夢でも殴られると痛いんだぁ……)

「オイオイ。殴られて、気ィ失いながら笑ってるヤツァ初めてだ」
「コイツ頭でも打ったか?」
耳に入る声に、シンスケは思わず口元が緩み自然に口角が上がっていた。

「二人がいてくれてよかったョ。助かったァ。ツキモリセンセイ。それにフクさんもョ」
「そうでなけりゃ、この店もめちゃくちゃだったョ」
店のオーナーらしき男の声に、

「喧嘩を止めたのは、福さんだよ」
「それにしても、福さんは相変わらず、すごかったね」 

 ── つきもりせんせい……? ふくさん!? 

「福さんの唐手(からて)は、真に神業だね」
と、男の声が聞こえてきた。

それはとても懐かしく聞き覚えがあった。
そう、小さい頃に聞いた声だ ──。

男たちの話し声は、シンスケの耳の奥で囁くように絡み合う。
そして静かに沈み込んで消えていった。

 
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登場人物紹介

月森シンスケ 1945年生まれ。名古屋で輸入家具店を営む。趣味はモダンJazz鑑賞。探偵小説を愛する。特に、レイモンド・チャンドラーのフィリップマーローと、ロバート・B・パーカーのスペンサーが大好き。

月森キョウコ 1949年生まれ。月森シンスケの愛妻。趣味は音楽鑑賞 浜田省吾の大ファン。1991年、急性再生不良性貧血症にて急逝する。42歳であった。

藤川モモコ 1957年生まれ。トロイメライの主任スタッフ。1983年結婚するも4年後に離婚。子ども一人。

福珠宗海 1923年生まれ。台湾生まれで、沖縄在住。福珠流唐手十代目総師。

福珠 華 1945年生まれ。沖縄県の糸満で育つ。福珠宗海の養女で、息子健心の許嫁。

石田貴史 1959年生まれ。特定郵便局長。月森夫婦の友人。

松木 幸 1947年生まれ。伊賀で桃幸窯を開き活動している陶芸家。曜変天目茶碗に魅せられる。

杏梨(シンリィ) 1916年 福建省で生まれる。厦門で月森シンスケの恋人になる。

月森鷹三 1902年生まれ。シンスケの祖父。台湾で教師を務めていた。終戦後、名古屋で鉄工所を営む。

月森森一 1927年生まれ。シンスケの父。鷹三の後、鉄工所を継ぐが、1970年43歳で急逝。

李五元 福建生まれ。南少林寺にて修行する。陳近南の娘を守り、琉球に逃れる。沖縄に、李少林拳を伝える。それが後に、福珠流唐手となる。

陳李娘 陳近南(永華)の娘。鄭成功の孫である鄭克蔵の妻。鄭家の内紛で命を狙われる。夫の克蔵は惨殺されるが、李娘は、李五元により助けられ琉球に逃れる。その後、鄭成功の弟である田川七左衛門の庇護により、克蔵の子を産み、その後、その血統は福珠家により守り続けられる。

田川雪姫 1916年生まれ。台湾で生まれ育つ。鄭成功の直系の女性。福珠家、月森家と親密な関わりを持つ。大東亜戦争の沖縄戦により亡くなる。29歳であった。

馮炳文(ふうへいぶん) 1934年 厦門で生まれる!? 父親は馮正如、母は陳杏梨。三邑興業会長。

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