第23話 国姓爺異聞 ── 瀧を昇る鯉 (1)
文字数 1,528文字
その際に母のマツが自害して果てたことを、兄である
「母上が自害をされたと……」
幼い頃より厳しい母上であったが、流石に田川家の一人娘である。
次男の次郎左衛門は唇をかみしめた。
明に渡った兄の
が、それは母の「田川マツ一人に限る」というものであった。
母のマツは、
「この機会を逃せば二度と
「次郎左衛門、そなたも十六、田川家の跡継ぎとして、また鄭家との日本に置ける商いの窓口として、長崎に逗留する
息子の次郎左衛門に向かって声を震わしながら、しかし、毅然として言い切った。
次郎左衛門は、その母の姿を思い悲嘆に暮れた。
母の言葉通りに、田川家の後を継いだ田川次郎左衛門こと、七左衛門は、海商王とも言われた鄭芝龍の息子として、日本に置ける
その後、母マツと父の芝龍が亡くなり、実質的に「明朝」は滅亡したが、兄の鄭成功は尚も「
「七左衛門様、
側用人の言葉に、にわかに胸騒ぎがした。
近南とは
陳近南こと陳永華は永歴十年(1656年)に、鄭成功と政治について語る機会を得た。
その折に、陳永華が述べた見識や分析に感嘆し、
── まるで、諸葛孔明のようだ。 「永華は
と、評したと言われている。
以来、「
「兄上に何かあったか……」 七左衛門は俄かに嫌な予感がした。
田川七左衛門は、陳永華からの文を懐に収め、同時に送られてきた木箱を抱えると、
「私が呼ぶまで誰も案内に立ってはならん」
側用人にそう申し渡すと、ひとり奥の部屋に消えた。
「やはり、兄上は亡くなられたか……」
力なく吐いた息に、七左衛門は、今朝の朱に染まった朝焼けの空を、龍の如くの雲が流れ去るのを思い出していた。
『吾有何面目見先帝於地下成!』
(我は何の面目あって地下で先帝にまみえんか!)
このように言い残して倒れたと書かれていた。
「兄はこの碗で茶を飲むと息絶えたのか……」
七左衛門は、そう独り言ちすると、
碗の中に拡がる黒い泡を縁取る蒼白の
「まるで宇宙のような── 」
そう呟くと、飽きることなく眺めていた。
──
「兄はこの茶碗の宇宙に魅入られ、そしてその中に帰っていったか……。英雄しか持つべきことが許されぬ茶碗であろう」
誰に言うでもなく、いや強いて言うならば、己に言い聞かせるように呟くと、手にしていた茶碗を
「これより一切、この碗を手にすることはあるまい」
自ら封印を行い、それを書庫の奥深くに仕舞い込んだ。