第5話 夢が夢だとは限らない ── 1931 臺北 (2)

文字数 1,824文字

 月森シンスケは、湿気で重くなった、少し(かび)臭い掛け布団を手で払いのけた。
そして、ぼやけ(まなこ)でゆっくりと辺りを見まわした。
そこは、いかにも宿舎の一室と思われる六畳間であった。部屋には小さな文机があり、
周りには、いたるところに本が積まれている。

 ふと、司馬遼太郎の「坂の上の雲」の一場面が頭に浮かんだ。
 ── 見舞いに訪れた秋山真之(あきやまさねゆき)
獺祭(だっさい)のごとくの部屋だが……」
と言った子規(しき)の部屋とは、まさにこのような部屋だろうか ──。

そんなことを思いながら、無意識に(とこ)から身体を起こそうとした。そのとき、全身に痛みが走り、その痛みでシンスケは我に返った。

 ── オイオイ、オレはいったいどうしたんだ!?

「突然、アタマが変にでもなったか!?」
シンスケは、今いる状況を確かめるべく言葉を口にした。

「タイムトリップ!? へっへっ そんなことありえんだろう……」
自虐的に笑ってもみた。

その声の響きは迷うことなく、自らの耳から脳に伝わってきた。
彼はしばらくの間、口角を上げたままで冷ややかに固まっていた。

「シンスケ大丈夫だ。落ち着け。深く深呼吸しろ!」
「ファィト!……」 
まるで試合前のアスリートのように自らを鼓舞してみる。

「ファイトって、なんだよ」 自らの独り言の滑稽さに、思わず笑いがでた。
すると、ようやく落ち着いてきて、文机の上に無造作に置かれた本に気がついた。

思わず本に手を伸ばす。と、その表紙には
公學校用漢文讀本(こうがくこうようかんぶんとくほん) 臺湾総督府(たいわんそうとくふ)』 と書かれている。 開いてみると、

『第一課 臺湾(たいわん)
 臺湾在我國西南之端、氣候温暖.産物甚多、而新高山高冠國内 』
という文字と、その下部には台湾の地図が描かれていた。

「台湾は我が国の南の端に在り、気候は温暖で産物ははなはだ多い──」
そこに書かれた旧漢字を声に出し、何とか読み下すことができた。

── やれやれ、まだ夢は続いているってか? 冗談じゃないぜ。そろそろ起きろ!
そう思って身体を捻った。次の瞬間である。やはり全身に痛みが走り、目の前が急に暗くなった。
 画像の悪いスクリーンに現れる砂のような点描……。
そして、(おぼろ)げに揺れる明かりが交差する。シンスケは思い切って瞼を押し上げた。

「えらく長い夢だったな。それにしてもリアルな夢だった── 」
そう独り言ちし、無意識に頬骨のあたりを撫ぜた。
頬の表面が擦りむいたようにヒリヒリして、顎の骨に少なからず痛みを感じる。

「冗談だろ!?」 ── そういえば身体の節々に痛みを感じる。 

すると、どこかで聞き覚えのあるような声がした。
部屋の外から人が近づく足音が聞こえ、(きし)む音とともに引き戸が開けられた。

「おーっ、ようやく気が付いたかい!」 
その声に、シンスケは起き上がろうとした。が、うまく身体が動かない。
身体の節々に痛みがあり、思うようにならなかった。

「あっ、そのまま、そのまま。無理して起きなくてもいいから」
角刈り頭と太い眉。鼻筋の通った精悍な顔立ちの男性が、目に飛び込んできた。

その途端に、
「あーっ!」 シンスケは唸るような声を絞り出した。
と、同時にバネの効いた『起きあがり小法師』のように、寝ていた布団から跳ね起きた。
そして、空中を足で蹴るような仕草をすると、そのまま後ずさりをした。
彼は驚きのあまり、痛みすら忘れていた。

「安心なさい! 大丈夫ですよ! ここは学校の教員宿舎だから」
眉の太さと同様の野太く、それでいて優しく落ち着いた声の主に、シンスケの目は釘付けになっていた。

その様子を見て、
「あなたは日本人ですよね。それとも志那(しな)の人ですか?」 
子供に尋ねるように問いかけてきた。シンスケは辺りを見回しながら、

「な、名古屋生まれのジャパニーズです」
なんとも上ずったトンチンカンな日本語で、そう答えていた。

「おーっ! こんなところで名古屋生まれの人と出会うとは」
嬉しそうにそう言った男性は、まじまじとシンスケの顔を見つめながら、

「ボクは、月森鷹三(つきもりようぞう)です」
「西門町壽中学校の教師をしています。生まれは三河の安城なんですよ」
そう名乗り、自己紹介をした。

男性の、あまりに期待通りの自己紹介に、シンスケは暫く言葉が見つからずにいた。
ポカンとしたシンスケの表情に、意識がまだ朦朧(もうろう)としていると思ったのか、

「大丈夫ですか? まだ頭が痛みますか!?」 
と、月森鷹三は、心配そうな眼差しを向けてきた。

「あっ、ありがとう、ございます」
「こまつ…… 小松、 コマツ・シンスケです」 
シンスケは、咄嗟に妻の旧姓を口にしていた。

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登場人物紹介

月森シンスケ 1945年生まれ。名古屋で輸入家具店を営む。趣味はモダンJazz鑑賞。探偵小説を愛する。特に、レイモンド・チャンドラーのフィリップマーローと、ロバート・B・パーカーのスペンサーが大好き。

月森キョウコ 1949年生まれ。月森シンスケの愛妻。趣味は音楽鑑賞 浜田省吾の大ファン。1991年、急性再生不良性貧血症にて急逝する。42歳であった。

藤川モモコ 1957年生まれ。トロイメライの主任スタッフ。1983年結婚するも4年後に離婚。子ども一人。

福珠宗海 1923年生まれ。台湾生まれで、沖縄在住。福珠流唐手十代目総師。

福珠 華 1945年生まれ。沖縄県の糸満で育つ。福珠宗海の養女で、息子健心の許嫁。

石田貴史 1959年生まれ。特定郵便局長。月森夫婦の友人。

松木 幸 1947年生まれ。伊賀で桃幸窯を開き活動している陶芸家。曜変天目茶碗に魅せられる。

杏梨(シンリィ) 1916年 福建省で生まれる。厦門で月森シンスケの恋人になる。

月森鷹三 1902年生まれ。シンスケの祖父。台湾で教師を務めていた。終戦後、名古屋で鉄工所を営む。

月森森一 1927年生まれ。シンスケの父。鷹三の後、鉄工所を継ぐが、1970年43歳で急逝。

李五元 福建生まれ。南少林寺にて修行する。陳近南の娘を守り、琉球に逃れる。沖縄に、李少林拳を伝える。それが後に、福珠流唐手となる。

陳李娘 陳近南(永華)の娘。鄭成功の孫である鄭克蔵の妻。鄭家の内紛で命を狙われる。夫の克蔵は惨殺されるが、李娘は、李五元により助けられ琉球に逃れる。その後、鄭成功の弟である田川七左衛門の庇護により、克蔵の子を産み、その後、その血統は福珠家により守り続けられる。

田川雪姫 1916年生まれ。台湾で生まれ育つ。鄭成功の直系の女性。福珠家、月森家と親密な関わりを持つ。大東亜戦争の沖縄戦により亡くなる。29歳であった。

馮炳文(ふうへいぶん) 1934年 厦門で生まれる!? 父親は馮正如、母は陳杏梨。三邑興業会長。

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