第32話 『Träumerei』で黄昏てる場合じゃない (1)

文字数 1,432文字

 自らが命名した「トロイメライ」という店の響きが、近頃とても空虚に聞こえる。
これも、キョウコを亡くした後遺症か──。 身体の疲れがハードボイルドだ!

月森シンスケは、最近の理解を超えた出来事に、思考停止に陥りかけていた。
余程、疲れた表情で仕事をしていたのであろう。営業終了時間が間際に迫った頃であった。

「社長? ドラッグストアでドリンクでも買ってきましょうか?……」
藤川モモコが声をかけてきた。

返事をする代わりにシンスケは、最近立て続けに見た夢のことを、思い切ってモモコに話をしてみることにした。

「ええっ!? 気が付くと、『Barber chair』でタイムトリップしていたってことですか?」
妻が亡くなってからは、何かと相談できる相手は彼女しかいなかった。

「夢にしては、余りにもリアルすぎるんだ。ほら、タイムマシンか何かで。過去にタイムスリップするっていう── あのSF小説の定番のヤツ──」
モモコは真顔で話しを聞いていた。
彼女は悪戯(いたずら)や人を担ぐために、このような話をするシンスケではないことを知っていた。

「つまり、福珠さんが店においでになった前後から、その不思議な体験は始まった……」
まるでミステリー小説の探偵のように、彼女は冷静に一つひとつを確認した。

「当時のお祖父様や、お父様を知る方は他にいらっしゃらないんですか?」

そう言われても……?? 
まるでマーロウかスペンサーみたいだ。

祖父や父の青春時代を、知っていそうな人物を思い浮かべることができない。

叔母が一人いるにはいるが、父とは随分歳の離れた妹であった。元々、親族同士が疎遠であった。それゆえシンスケには、昔話を聞く人がまったく思い当たらないでいた。

「叔母に聞いても分からないと思う……」 
とても寂しいことだな……。私立探偵への依頼人の気持ちが少し分かった。

 木芽月(このめづき)である。夕方も五時を過ぎると、店舗の前にある外灯が、住宅街の中にある三角形の積木のような建物を影絵のように特徴づける。
藤川モモコは先ほどまで仕事をしていたその建物を振り返った。

彼女は、シンスケの「夢」での話を聞き、ある決意をしていた。
それは、自らのこれまでの消極的な生き方を変えてみよう。そう思い定めていた。

福珠宗海がトロイメライを訪ねて来て以来、シンスケの身に起こったタイムスリップとしか思いようのない出来事を信じない訳ではなかった。が、少なくとも彼が精神的な疲労のピークにあることだけは分かった。

社長とキョウコさんのお蔭で、私も息子も救われたんだ── 
彼女の離婚が成立して六年が過ぎようとしていた。

「今日から社長の食事は私に任せてください!」
モモコのこの突然の宣言に、シンスケが面をくらったのは言うまでもない。

「先日のお話を信じない訳じゃありません。ただ、社長は精神的に相当疲れています。それは間違いありません。キョウコさんが亡くなられてからは、朝は珈琲だけ。昼と夜は殆んど、コンビニのパンかのり弁でしょ。それじゃ身体がダメなっちゃいますよ!」
 モモコの口調は、トロイメライに勤めだした頃を感じさせた。

何か言おうとするシンスケに対し、
「社長のお話は兎も角も、食事をちゃんとしてもらってから一緒に考えましょう!」

「じゃあ、話は信じてもらえるの?」 
シンスケが思わず尋ねると、

「はい! 社長は、冗談でもそんな変な嘘をつく人ではありませんから」
「それは私が一番知っています!」
そう言うと、モモコは花柄のハンカチで包んだ、手作りの弁当を差し出した。


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登場人物紹介

月森シンスケ 1945年生まれ。名古屋で輸入家具店を営む。趣味はモダンJazz鑑賞。探偵小説を愛する。特に、レイモンド・チャンドラーのフィリップマーローと、ロバート・B・パーカーのスペンサーが大好き。

月森キョウコ 1949年生まれ。月森シンスケの愛妻。趣味は音楽鑑賞 浜田省吾の大ファン。1991年、急性再生不良性貧血症にて急逝する。42歳であった。

藤川モモコ 1957年生まれ。トロイメライの主任スタッフ。1983年結婚するも4年後に離婚。子ども一人。

福珠宗海 1923年生まれ。台湾生まれで、沖縄在住。福珠流唐手十代目総師。

福珠 華 1945年生まれ。沖縄県の糸満で育つ。福珠宗海の養女で、息子健心の許嫁。

石田貴史 1959年生まれ。特定郵便局長。月森夫婦の友人。

松木 幸 1947年生まれ。伊賀で桃幸窯を開き活動している陶芸家。曜変天目茶碗に魅せられる。

杏梨(シンリィ) 1916年 福建省で生まれる。厦門で月森シンスケの恋人になる。

月森鷹三 1902年生まれ。シンスケの祖父。台湾で教師を務めていた。終戦後、名古屋で鉄工所を営む。

月森森一 1927年生まれ。シンスケの父。鷹三の後、鉄工所を継ぐが、1970年43歳で急逝。

李五元 福建生まれ。南少林寺にて修行する。陳近南の娘を守り、琉球に逃れる。沖縄に、李少林拳を伝える。それが後に、福珠流唐手となる。

陳李娘 陳近南(永華)の娘。鄭成功の孫である鄭克蔵の妻。鄭家の内紛で命を狙われる。夫の克蔵は惨殺されるが、李娘は、李五元により助けられ琉球に逃れる。その後、鄭成功の弟である田川七左衛門の庇護により、克蔵の子を産み、その後、その血統は福珠家により守り続けられる。

田川雪姫 1916年生まれ。台湾で生まれ育つ。鄭成功の直系の女性。福珠家、月森家と親密な関わりを持つ。大東亜戦争の沖縄戦により亡くなる。29歳であった。

馮炳文(ふうへいぶん) 1934年 厦門で生まれる!? 父親は馮正如、母は陳杏梨。三邑興業会長。

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