第34話 『Träumerei』で 黄昏てる場合じゃない (3)
文字数 2,162文字
「シンスケさん… モモコちゃんの年賀状見た?」
彼女が元の姓に戻ったことを、月森夫婦が知ったのは、モモコが結婚して四度目の新年を迎えた時であった。三日に彼女から届いた賀状を手に、シンスケは妻の言葉に複雑な表情を浮かべた。
「モモちゃんから何か聞いてたか?」
シンスケの問いかけに、キョウコはこう答えた。
「ご主人と、あまりうまくいってないことは薄々ね……、去年の夏ごろ電話で話した時に……」「お歳暮のお礼で連絡した時は、元気そうだったから安心はしてたんだけど……」
結婚してからのモモコは、季節が変わる頃には必ずトロイメライに顔を出してくれていた。
年ごとに成長をみせる息子の亮を伴い、妻のキョウコと一時間以上も話し込むこともあった。
モモコがトロイメライを訪ねてくるのは、
決まってそんな想いの募る季節であった。
モモコの夫は、海上保安庁第八管区に勤務をしていた。
そのため、結婚当初から単身赴任をしていた。
── 海上保安庁は十一の管区に分かれていて、第八管区は、京都府の舞鶴に本部が置かれ
福井県、京都府、兵庫県北部、鳥取県、島根県の日本海沿岸を管轄している。
同一地での勤務は二年から、長くても五年で転勤が多いため、海上保安官の多くは単身赴任であった。緊急の出動も多く、一端海上勤務に就くと何日も連絡が取れないのは当たり前で、職業柄秘密保持の観点からも、仕事については家族にも語ることは禁じられていた。
妻のキョウコによると、
「モモコちゃん、亮君が生まれてから子育てで随分と悩んだみたい。旦那さんは単身赴任だし、
月森夫婦には子供がなかった。
二人が大学生の頃、キョウコはシンスケの子を身ごもった。が、この世に生を受けることはなかった。そして、結婚後はキョウコの病のこともあり、出産には耐えられない。──とのことで子供のことは諦めたのである。
「男は鈍感だ! ホントに。オレがそうだったように……」
シンスケは、そう呟いて妻をみた。彼女は微笑みながら、
「モモコちゃんに連絡とってみる。葉書の住所を見ると実家に戻ってるみたいだから」
キョウコはそう言うと、テーブルの上にあった年賀状を集め、
トントンと角を揃え整えると、彼女から届いた賀状を一番上にして輪ゴムで束ねた。
モモコがトロイメライを訪ねて来たのは、その年の梅の蕾が開こうかという季節であった。
彼女はやはり藤川の姓にもどっていた。
「主人の性格とか人間性に不満があったわけじゃないんです。ただ、彼が単身赴任で、夫婦で過ごせる時間もほとんどなくて……」
おまけにモモコの夫は、真面目を絵にかいたような人物で、自分の仕事の事は勿論のこと、
自身のことも、ほとんど話さない人であったらしい。
キョウコは、モモコの話を頷きながら聞いていた。
「海上保安庁という
でも、一人でいると、子育てを含めて気持ちが詰まってきちゃって……」
そう話した途端に、彼女の瞳から涙が溢れだした。
いつも明るく快活で、ボーイッシュなモモコの嗚咽する姿を見るのは、
月森夫婦にとっても初めてであった。
「モモコちゃん、頑張ったね……」
キョウコは彼女にそれだけを言うと一緒に泣いた。
「……亮くん、おじさんと近くの公園に遊びに行こうぜ!」
シンスケはモモコの服の袖を掴んで立ち竦んでいる息子の一方の手を握り、近くにある公園に連れ出した。公園のブランコに亮を座らせ後ろから押す。
── そういえば、父の膝に抱かれて、ブランコに乗っている写真があったな。
セピア色に褪せた写真だ。オレと父にもこういう時間があったんだ……。
母が死んでからは、ほとんど会話をしなくなった父の顔が、
突然フラッシュバックのように浮かびあがった。
(オレにも子どもがいたら、こうやって公園で遊ぶんだろうか?)
生まれてこなかった我が子のこと──。
さらに、妻のキョウコへの悔恨の念で、胸が締め付けられていた。
──モモコがトロイメライを訪れたその日の夜であった。
「亮くんは人見知りかなあ? 三歳にしては、表情が乏しいような気がするんだが」
シンスケは夕食後に妻が入れてくれた珈琲を口にしながら、テーブル越しの妻に話しかけた。
「人見知りというのは、確か生後6か月から8か月ごろに、はっきりと表れるようになるそうよ。大学の心理学の講義で聞いた記憶だけど」
──「人見知り」は見慣れていて信頼のおける母親や父親のイメージが、子どもの心に刻まれたことを意味する。もし、生後、半年以後に「人見知り」が表れない赤ちゃんは、逆に情緒の発達がおくれていて、母親や父親との間の情緒的な結びつきができていないと思われる ──
「ただ、私たちには何とも……ね」
クールだ。
まるで、タフな私立探偵の恋人で、心理カウンセラーのスーザンみたいだ。
シンスケは妻のその言葉に伏し目がちに頷いた。
モモコが息子の亮を抱えて、今後のことで悩んでいることを知り、
「亮くんは、この住宅地にある保育園に通わせばいいじゃない」
キョウコのこの一言で、
彼女は再びトロイメライで働き始めたのであった。