第44話 夢の終わりは、やっぱりHard Boiled (3)
文字数 1,917文字
シンスケにはもう一つ気になることがあった。石田と行った喫茶店のことである。
「『あんずとなし』という喫茶店なんだ。石田君が案内してくれたその店の珈琲が、とてもうまいんだよ」
「そんなにおいしい珈琲なら、是非一飲んでみたいです!」
モモコにしては珍しく、シンスケの言葉に目を輝かせて反応した。
カランコロン──。 ドアベルがノスタルジックな音色を響かせた。「あんずとなし」の古い木製のドアが内側に開き、男女が二人店に入って来た。月森シンスケと藤川モモコである。
店の女主人は、シンスケに向かって柔和な笑顔をみせた。
「いらっしゃいませ。お久しぶりですね」
店主の老婦人に声を掛けられたシンスケは、少し恥ずかしそうに笑いながら、
二人は
あの「トーネットの曲げ木の椅子」のあるカウンター席だ。
「素晴らしい眺め!」 モモコが口を開いた。
「だろう!──」 そう言って笑ったシンスケに、
女性店主が水の入ったグラスを運んできて、話しかけた。
「今日は、奥様とお二人でいらしてくれたんですね」
「お二人とも珈琲で良かったかしら?」
女性店主は迷うことなくそう言った。
楽しそうに頷いたモモコを見て、女性店主は、シンスケが説明する間もなく奥のカウンターに引き上げていった。
(まあ、いいか。説明するのも面倒か……)
シンスケがそんなことを思っていると、
暫くして、口縁に碧釉の流れたカップに、たっぷり入った珈琲が運ばれてきた。
「丁度良かったわ。この前、石田さんとお見えになった時にお忘れ物なさったでしょう?」
彼女は薄桃色のハンカチに包まれた物を、シンスケの前に置いた。
「リング。この前、石田さんといらした時、カウンターに置きっぱなしになってましたよ」
シンスケには女店主の言っている意味が分からない。
「夕方ね、店を閉める時に気が付いたの」
ハンカチを開くと、包まれていたのはシルバーリングであった。
「不思議だけど……。あの日は、この席に座ったのは二人しかいなかったから。連絡したかったんだけど、連絡先が分からなくて……」
「ご連絡するのに、名刺でも貰っておけばよかったわ」
彼女はそう言うと、奥のカウンターに戻っていった。
(えっ!? 確か名刺渡したよな……。それで、馮炳文が店に、……)
リングを手に取ってみるとすぐに分かった。リングの内側に文字が刻まれている。
『杏』とShin ──
「ええ、っ な、何っ!?どういうことだぁ ○!※□◇#△!」
シンスケは、思わず言葉を失っていた。まさに呆然自失というのに近い。
消えていたリングが何んでここに!?
その様子を知ってか知らずか、
「へえーっ 杏とShin──か」
そう呟くと、モモコは嬉しそうにシンスケに話しかけた。
「私の名前はモモコですけど、漢字で書くと李子。母は、リコって呼び名にしたかったらしいですけど、父親が日本人ぽくないってことでモモコに──」
「社長の森介がシンスケというのと同じかな?」
李子(モモコ)は続けてこう言った。
「社長、知ってます? 『李子』って『あんず』のことなんですよ!」
シンスケは再び言葉を失っていた。笑っているモモコを横目にしたとき、
「ふふっ 全部すんだね。…… 」
そっと耳元で嬉しそうに囁くような声が聞こえた。
えっ!? いまの…… 確かにキョウコの声……。
「確かに彼女の微笑んだ時の声だった……」
そう呟くと、シンスケは思わず、珈琲を
珈琲豆の焼けた匂いが鼻孔を抜け、酸味が舌の裏側に染みこんできた。
シンスケは店からの帰り際に、女性店主に聞きたかったことを尋ねてみた。
すると、
「私に甥はおりません。姉の名前は『杏梨』で、シンリィと言いました。とても優しい姉で、二人きりの姉妹でした。好きな人がいたようですが……。十九歳で亡くなりました。姉は家族のために犠牲になりました」
彼女は多くを語らず、それだけを答えてくれた。
ようやく…… 厦門の夢が終わったのか──。
そう思った瞬間、シンスケの胸に切なさが込み上げてきた。酷く涙脆い。
(きっと、マーロウやスペンサーも歳老いると涙脆くなるはずさ……)
帰り道、車の窓越しに沈む夕陽が瞬くように射しこんできた。
このシチュエーションならコンバーチブルは最高なんだろうな──。
ハンドルを握るシンスケの隣で、モモコのショートカットの髪が揺れる。キラキラと。
揺れるたびにキラキラと。ルビー色に輝いてた。
まるで、あの時の厦門のパームビーチの黄昏のように──。