第35話 土と炎に魅せられる (1)
文字数 2,096文字
父親の言葉を思い出していた。
── 「コウよ。『曜変天目』には魔力がある。私は台湾で一度『曜変』を見たことがある」
曜変天目を創り出すには、大量の鉄分を必要とされると聞いた。その大量の鉄分を必要とする釉薬は人間の『血』だという。しかも人間の血を大量に混ぜた釉薬を茶碗に施し、登り窯で焼成するのだ」 ──
その大量の血を混ぜた釉薬の掛かった茶碗から極めて稀に『曜変天目』が出る。
其れゆえ、失敗した茶碗はすべて破棄され、現存している『曜変天目茶碗』と呼ばれるのは、
世界に三つしか存在しない。
しかもそのすべてが、日本に伝わっている。伝えたのは宋代の禅宗の僧侶だ。茶碗には魔の力があり、卓越した法力を授かった僧侶しか、扱うことができなかったと伝えられている。
勿論、現在に至るまで「稲葉天目」に比肩する作品は生み出されていない。
事件は、月森シンスケがトロイメライを留守にしている間に起こった。
「社長、店に泥棒が入りました。昨日の夜のことです」
このように藤川モモコの電話の声が、沖縄にいたシンスケにもたらされた。
彼は福珠宗海の頼みにより、再び沖縄に来ていた。
「モモちゃん、泥棒に入られたっていう割には、やけに冷静だね」
電話口でのモモコの冷静さを
「実は、店の商品には何も被害がなかったのもそうなんですが、
今、犯人が警察署にいるらしいんですよ」
「へーえっ、驚いたな。じゃあ犯人はもう捕まったってことかい!?」
シンスケは、店が泥棒に入られたよりもそのことに驚いた。
モモコの説明によると、
昨日の夜の十時頃に店に侵入しようとした男は、店の警報システムが作動した後、
すぐに駆けつけた警官により逮捕された。
店の裏口のドアを壊した時点で、警報サイレンと緊急を知らせる音声が鳴る。
それに驚き、普通はすぐに逃げるはずであるが、男は、警察が駆け付けるまで、
まるで催眠術でも掛けられたように、ちょっと呆けた状態でドアの前に立っていた。
──らしい。
「取り敢えず、警察署に連絡してみて下さい」
藤川モモコにそう促され、早々に教えられた警察の担当部署に電話を入れて驚いた。
何と店に入ろうとした男は、松木幸であった。
それを聞いて、
「石田君、忙しいと思うけど、すぐにでも警察署にいる松木さんに会ってくれないか?」
すぐさまシンスケは、石田貴文に連絡を入れた。
そして釈放してもらう手続きを頼み、勿論詳しい事情も彼に聞いてもらうことにした。
石田は状況を詳しく知るために、すぐさま藤川モモコに連絡を取った。
「被害状況はどうでしょうか? 何か盗まれていませんか?」
「ええ、特に商品に被害は。ただ裏口のドアが壊されただけで──」
石田の問いに、モモコは続けて、
「警備会社の人が駆け付けた時には、男性が夢でも見ているような虚ろな目をして
ドアの前に立っていたそうです」
と説明を付け加えた。
「いったい、松木さんに何があったのだろう!? 」
そんなモモコとの電話の後、取る物も取り敢えず、石田は名古屋にクルマを走らせた。
松木のいる警察署に到着すると、既に、シンスケの代理として詳しい事情を説明してもらえることに話が通っていた。
「我々の質問にも『はい』『いいえ』と返事をするだけで、『気が付くと店の裏口のドアを壊していた』としか話しません」
担当官は石田にそのように説明した。
その松木の様子を石田から伝えられたシンスケが、
「──被害届は出さない」ということで、松本 幸は二日後に釈放されることになった。
石田の話によると、最初会った時の松木は、
──まだ夢から醒めてないのか?
というような状態で、
「兎に角、薄ボンヤリとした様子でした」
「変な話ですが……。何か、幽体離脱でもしたような感じで……」 と、
石田は松木の様子をシンスケに語った。
そして唐突にこう言った。
「ひょっとして、松木さんは『天目茶碗』を見たかったんじゃないですかね? とくに根拠はないんですけどね……」
「う〜ん。君もそう思うか? 『天目茶碗』を見たあとの松木さん、ちょっと変だったよな?」
シンスケは石田に問い返した。
「そうです。確かにちょっと変でした。でも…… いくら父親が、天目に生涯を捧げたからといったってねぇ──」
『天目茶碗』を見た途端に、何かに憑かれたように見つめていた松木の様子を、二人は思いだしていた。
── 確かに松木さんは『天目茶碗』を見て、何かに取り憑かれたような状態になっていた。
それが陶芸家の、いや父親の執念ともいうべき念であったとしたら。
「ちょっと気になりますね。松木さんが店に入ろうとしたのは、曜変天目を見るためだったかもしれない。だとすると、──」
仮に松木が『天目茶碗』を見ようとして店に侵入しようとしたならば、
「それは陶芸家としての父親の執念が、松木幸をトロイメライに向かわせたとか!?」
石田の呟いた言葉に、シンスケは敏感に反応した。
これまでの自らに起こっている幻夢ともいうべき出来事が、何らかの因縁で