第28話 天国(heaven)と名付けた男 (2)
文字数 2,206文字
昼食は真っ白な皿に盛られたオムライスが用意されていた。白磁の皿に綺麗なラクビ―型に形成されたチキンライスは、見事な黄色の薄焼き卵で包まれている。その黄色とケチャップの赤とのコントラストが白磁皿と、このキッチンにも見事に調和していた。
「貴方の希望も聞かず、私の好みで申しわけありません。私はオムライスが好きなものですから」と、馮炳文は口元に付いたケチャップを白いナプキンで拭った。そして自らの生い立ちを話し始めた。
彼の父親の
「
と、馮炳文は冷たく言い放った。
炳文の母親もその中の一人であった。彼女は、炳文に溺愛に近い愛情を注いだ。それに引き換え、父親である馮正如は息子に対して厳しかった。ただ、炳文は幼いころから頭がよく、同年代の子供に比べ格段に優れていた。
「そのため、親父の正如も自分の子の中で、最も見込みがあると思ったんでしょう」
五歳を過ぎると私塾に通わされた。広州には私塾として有名な「陳氏書院」があるが、中国における私塾とはいわゆる族塾を指すのが一般的である。
一族とは姓を同じくする男系親族を指し、その一族が有力になるためには一族の子弟を教育し、科挙に合格させ官僚を生み出すことであった。そして、その官僚を通じて一族や地方の利害を政治に反映させることは一族にも大きな利益をもたらしたのである。馮正如は一族をさらに大きくするために、息子の炳文に期待したのであった。幼い頃から教育を強制したのはそのためであった。
「中華では、子弟を一族のために利用しようとするのは当たり前なのです。そのため一族は支援を惜しまないです」
馮炳文は複雑な表情で語った。
彼は馮正如に対し、嫌悪感を募らせながら成長した。ただ、高圧的で粗暴な父親の意向に対して、心ならずも従っていたのは、母の存在があったからであった。
炳文が八歳になるころ突然、馮正如一家は渡米することになる。
「馮正如、あっ親父ですが、彼が関わっていた港湾関係の仕事で、
そのころ、日本とアメリカの対立が激しくなり、大東亜戦争が始まろうとしていた。馮正如一家が逃げ込んだのは旧金山(サンフランシスコ)であった。
当時、アメリカに在住する唐人の数は十数万人といわれていたが、そのほとんどが広東人であった。広州出身の仲間を頼ってアメリカの唐人コミニティに逃げ込んだのであった。ただ、旧金山でも唐人は出身地でグループを組織し対立をするようになり、グループ間の諍いが激しくなっていた。結局、馮正如は堅気になることもなく、三邑グループというヤクザ組織の親分となっていく。
「私には、ラッキーでしたよ。渡米できたことは」
シンスケに生い立ちを語る炳文は、漸く笑顔を見せた。
父を嫌っていた炳文は語学を習得し、大学では経済学を学んだ。幸いにして炳文は語学の才に恵まれ、すぐに英語をマスターした。そして将来は自分で会社を経営したいと思うようになった。彼がアメリカにきて一番驚き、そして興味を持ったのが娯楽産業であった。将来は娯楽産業で成功したいと思うようになっていた。彼がカトリック教徒になったのはその頃であった。
成長するに従って炳文は、父親の馮正如との共通点をまったく見いだせずにいた。
「親父は今でいう学歴コンプレックスで、私に教育をさせたのだよ。それは私を利用し馮家を大きくしたかっただけだよ。そんな親父も抗争で死んだけどね」
「私は馮正如の子ではないのか!! 目の前の世界が大きく変わったよ。勿論バラ色にね!」
自分の身体から馮正如の血を一滴残らず絞り出したい。そう思い続けてきた彼は、
母の話を聞いた瞬間、驚きよりも嬉しさの余り、そのことを声に出して喜んだ。
馮炳文は母の忌の際の言葉をシンスケに伝えた。
「私の父親は日本人だそうです。名前は『ツキモリ・シン』といいます。私にも鄭成功と同じように日本人の血が流れているんですよ」
それが最愛の息子に伝えた母の内容であった。
馮炳文は父に抱き続けていた嫌悪と違和感を、漸く理解ができた。
ただ、炳文は母が残した指輪を手に、溜息をつく日々が続いた。
「母の最後の言葉から三年が過ぎたころです。私は十五歳になっていました。その歳に私は自分の意思で洗礼を受けたのです」
──『Nicolas Jaspar=聖なる碧玉』というクリスチャンネームを授けてもらった。
それは、鄭成功の父である鄭芝龍の洗礼名であった。
炳文は自ら望んでそれを洗礼名として、
「私は生まれ変わりたかったのですよ」 と、静かに呟いた。
そうして眉を額に寄せると、
「なんだか自分でも可笑しくなるくらい大仰しいですが……」
「勿論、クリスチャンネームは父の正如には内緒」 と、したり顔で笑った。
平静を装ってはいたが、シンスケは完全に混乱していた。
馮炳文はそのようなシンスケの困惑ぶりを窺がうように、薄い笑いを浮かべていた。