第7話 『春暁不覚』とは言うけれど 1993 卯の花月(2)
文字数 2,107文字
シンスケは、店の奥にあるパテーションで仕切られた商談室に、初老の人を案内した。
そして、改めて名刺を手渡し、丁寧に挨拶した。
「お店のォ名前はトロイメライ『Träumerei』ですかァ? ドイツ語ですかねェ。あのシューマンの『夢』と関係がァあるのですかね?」
同じことを尋ねる顧客がいると、嬉しそうに微笑んでいた妻の顔が浮かんだ。
その感傷を慌てて飲み込み、
「このように『アンティークやビンテージの家具』を扱うのが私の『夢』というか……。
── 思い入れみたいなもので、それと小さい頃、少しピアノを習っていたんで。その連想で……」 そう答え、
「そういう意味では、貴方のおっしゃる通りです」
言葉を続けたシンスケに、初老の人は優しい眼差しで肯いた。
「私の名前はァ、
男性の名前は
── 三点会!? 福珠宗海……。 沖縄!? 日本人だよな?
それを察したのか、
「
「
と、微笑みながら続けた。
「私の祖先はァ、
福珠宗海が語るところによると、
「全盛期の頃はァ、台南、台中、台北の中心地にィ 数店舗の理髪店を持っとりましたァ」
とのことらしい。
「私は、父が台南でェ理髪店を開いた頃に生まれましたァ。出身は台南のォ東石という所です」
宗海が十九歳の時、戦況が厳しくなり福珠一家は沖縄へ引き揚げてきたのである。
それまで日本の統治下で過ごした宗海は、日本語の教育を受け、『日本人』として育ったのであった。
「福珠という姓は母方のォ姓で、琉球のォ人です」
そう言うと、
福珠宗海は、福珠家とシンスケの祖父である
── 祖父の鷹三は、日本が台湾の統治下であった大正十三年(1924年)から、台北の小学及び中学校で教師として勤務していた。当時は台北駅を挟んで北と南に街が拡がっていた。
台北駅の南側に警察署が置かれ、西を流れる淡水河に向かって西門町があった。西門市場や商店街、料亭や遊郭などの歓楽街が拡がり、その西門町にある東本願寺別院に隣接した借家に月森鷹三は住んでいた。
「当時は、私の父は西門商店街でェ、理髪店をやっておりましたァ。鷹三さんはァ、月に一度は必ず店に顔を出してくれていたようです」
と、宗海が語るように、
当時、祖父の鷹三は、福珠宗海の父と非常に親しい付き合いをしていたという。
「父の話にィよるとォ、鷹三さんはァ、たいそう武道のォ修練をされてたとのことです」
とくに、剣道と柔術を基本とした古武術に秀でていたとのことであった。
ただ、シンスケには、福珠宗海の語る祖父の姿を、全く思い描くことができないでいた。
と、いうのも、シンスケの幼い頃に、祖父の鷹三は亡くなっていたからである。
加えて、父の森一は、祖父について殆んど何も語らなかった。そのため、シンスケには祖父に対する記憶や思い出が殆んど無かったのである。
福珠宗海は、祖父に関するいくつかのエピソードを話したあと、唐突に一枚の写真を、
シンスケに見せた。
「天目茶碗です。閩(びん)で創られたものです」
宗海の言葉に、明らかに戸惑いを見せたシンスケに、
「おおっ、失礼しましたァ。
「月森様ァは、この天目茶碗に何かァ 心当たりはありませんか?」
福珠宗海からの「茶碗」への問いかけが、酷く奇妙で不自然に思われた。
── 建窯とは現在の中国の福建省建陽県水吉鎮の付近にあったとされる。その窯跡は、福建省の北部である
建窯とは建州の窯という意味で、唐の時代から存在していたと考えられているが、宋代になり、建窯の近くで「茶」の栽培が盛んになった。
飲茶の流行とともに「闘茶」と呼ばれる茶の美しさを競う独自の文化が発展した。その茶を引き立てる黒釉の茶碗が人気を博したのである。それが「天目茶碗」である ──
そこまで聞いても、シンスケには、福珠宗海の真意を推し量ることができないでいた。
奇妙な沈黙が続いたあと、
「福珠さん、申しわけないですが……。私には祖父や父に関する情報がとても少ないんです。
特に祖父については、皆目、見当もつきません……」
シンスケがそう答えると、宗海はとても落胆した表情を浮かべた。
「そうですかァ……。 では、貴方のお父様かァお祖父様、あるいはご親族の方から中華民国、
いや、台湾についてェ何か聞いたことはありませんかァ?」