第9話 『春暁不覚』とは言うけれど 1993 卯の花月(4)
文字数 2,334文字
シンスケは店の二階にある「Barber Chair」で、また眠り込んでしまったらしい。
「── 茶碗とロザリオを見つけてから不思議なことが多い」
シンスケは独り言ちした。
そう──、それらは、シンスケの目の前に忽然と現れた。
── 偶然なのか、それとも必然なのか。
とりわけ、黒い茶碗を目にした時のシンスケは、自分でも情けない陳腐・凡庸な形容であるが、 「宇宙がある──」そうとしか表現することができなかった。
「これが宗海さんの言った天目茶碗か……」
真に、彼がシンスケに話した「天目茶碗」であった。
微かな響きに吸い込まれるように。黒く輝く器の見込みには鮮やかに白銀、いや、碧く輝くいくつものリングが浮かぶ。恣意的なそれでいて、計算されたように配置されたリングの造形の美しさ──。 人が意図して
祖父から母に、そして父が残した古い李朝箪笥の ──まるで時が来るのを待っていたかのように、その
シンスケは、ぼんやりとした意識の中で、茶碗の入った墨のような流し文様の共箱を見つけた時のことを思いだしていた。そして今も気が付くと、シンスケの両の掌にはしっかりと黒い茶碗が抱みこまれ膝の上に置かれていた。
「変な
そう呟くと、茶碗を共箱に収めた。
意識をハッキリとさせるために給湯室に向かった。洗面器に水を流しこみ、掌で掬い上げると勢いよく顔を洗った。微かに右の頬骨と顎のあたりが痛む。頬の肌も少しザラついている気がする。鏡に映る自ら顔を確認しながら、左瞼の上に残る擦り傷を見た瞬間である。
── 夢での光景がフラッシュバックした。
そうだ! 鷹三に、思わず妻の旧姓を名乗った時である。
── 1931年 台北 ──
月森鷹三は師範学校を卒業すると自ら希望して、当時日本統治下にあった台湾の小学校に赴任した。日本は台湾に対する教育をとても重視していた。鷹三は教育者として台湾の未来に希望を抱いていた。新しい国創りの一翼を担うという責任感と気概に溢れ、台湾に来たのであった。
「お身体は大丈夫そうですね!」
快活で明るい声が響き、男の子の手を引いた女学生が部屋に入ってきた。
「どうも貴方は中共の連中から、帝国陸軍の仲間だと思われたようです」
そう言って、流れるような所作で鷹三の横に腰を下ろし、シンスケにお辞儀をした。
彼女の手を握りしめている男の子は四、五歳くらいだろうか──。
恥ずかしいのか彼女の腰のあたりに纏わりついて離れようとしない。
「森(シン)! お姉ちゃんが大変だろう! お父さんの所に来なさい!」
その声にシンスケは、固まったように「シン」と呼ばれた男の子を凝視していた。
(ええっ…… と、父さんなのか!? この少年が!?)
鷹三の声に驚いたと思ったのか、彼女はとびっきりの輝くような笑顔をシンスケにみせた。
美人である。大きな瞳と整った眉、そしてクッキリとした目鼻立ち。髪を後ろにキリッと束ね、前髪を少しおろしている。
「彼女は
そう言って、鷹三が彼女を紹介すると、
「初めまして、田川雪姫です。先生のできの悪い教え子です!」
雪姫は、指先に桜貝を嵌め込んだような綺麗な手を口元にあて、小柄な身体を揺すりながら笑った。アジア人離れした大きな口元からは、零れるように真白い歯が覗いている。
その様子にシンスケは、二人には何か特別な信頼関係があることを感じた。
しかし…… この状況はどうしたことか。兎に角、皆目見当もつかない。
(オレは、妻を失ってから精神まで病んでしまったか!? )
それが色濃く顔に現れていたのだろう。暫くの沈黙の後で、
「コマツさん、酷い顔をしているぞ!」
「ヒゲも剃った方がいいね。今から床やに行かないか? 丁度ボクも、髪の毛を短くしてもらおうと思ってたんだ」
鷹三に促され、気が付くと西門町にある「かなえ理髪店」の「Barber Chair」に腰を降ろしていた。一定のリズムを刻むハサミの音が心地よくシンスケの耳に響いてくる。
── シャキ、シャキ、シャキッ。 シャキ、シャキ、シャキッ。
髪の毛を整えるハサミの音の向側で、話し声が子守歌のように聞こえてきた。
大清帝国…… 総理大臣 エンセイガイ──
中華民国臨時政府 大統領には ソンブン が なるらしい……。
── シンスケは、夢を思い出しながら、溜息交じりに何度も独り言ちした。
「それにしても、やけにリアルな夢だったな……」
科学的、理論的では無いが、「夢は何かの啓示である」と言う。
「何にしても、忘れないうちにメモしておこう」
急いで「夢」の中の記憶を声に出して順を追った。
机にあるメモ用紙と側にあったペンで、一つずつ辿りながら書き留めていく。
「台湾日△新聞、昭和六年…… 十二月? だったか……」
「確か、『英国はシナの味方か?』とか書いてたな。それと長谷川ナントカ……」
「祖父の ようぞう と、ふくさん、そうだ、あの後ろ姿。足を曳ずりながら歩く人影。それを追いかけたんだ。 そして、ユキという女学生」
「祖父は若い頃、台湾で教師をしていた……」
月森シンスケは、ブルーブラックのインクで綴った断片的な文字を追っていた。
「なあ、オレに何をさせようとしてるんだ……」
(はあっ、何のインスピレーションも浮かばないか……)
そう自問自答して、シンスケは吐息をはいた。
ただ、この状況に身を任せることで、妻への感傷のループから、
──ひと時でも離れることができるかもしれない。
そんな気がしていた。