第6話 『春暁不覚』とは言うけれど 1993 卯の花月(1)
文字数 1,555文字
東風に舞う
季節が巡るのは早いな ──。
そう呟くと、掌の中の薄桃色の
シンスケは夜露で湿った公園の芝生を、いつもより速く通り抜けようとした。その時である。ガーデンベンチに佇む初老の男性に意識が向いた。
男性の座るベンチの隣には、大きな黒いリュックが置かれている。リュックの表面は、日に焼けて、所どころ染みのように紫色に変色していた。さらにリュックの中央だけが凹んでいた。
(リュックを枕にでもして、一晩過ごしたのか……)
シンスケが、そう思いながら男性の前を通り過ぎようとしたときである。
「失礼ですがァ、ツキモリ様ではないですかねェ?」
唐突に声を掛けられた。彼はその声に驚きながら振り返った。
「あっ、はい!? そうですが……」
ベンチに腰掛けていた初老の男性は、膝に手を置くと躰を支えるでもなく立ち上がった。
「ふわり」と──。
まったくの重力も感じさせず、
その所作は、「ふわり」という形容がピタリと
「うん。やはりィ そうですかァ。よーう似ております。……」
初老の男性はそう呟くと、
「突然でェ 申し訳ありません。貴方を待ってェおりました」
シンスケの戸惑いを包むように、柔和な眼差しとゆっくりとした口調で話しかけてきた。
「私は、貴方のォ お祖父様の
初老の人はそう言うと、自らを名乗った。
「私はァ、
その言葉には、独特のイントネーションが感じられた。
福珠と名乗る男性が口にした「鷹三」と「森一」とは、紛れもなく祖父と父の名前であった。思いもよらぬことに、シンスケは困惑を隠せないでいた。
ただ、男性の言葉に、ある誘惑にも似た不思議な好奇心に抗えずにいた。
──これも探偵小説好きの
「兎に角、ここじゃあ何ですから──。私の店へ」
そう伝えると、公園から歩いて十分ほどの、シンスケの
「ほお〜っ 想像以上に良ィ店ですねェ〜」
余程、想像とは違っていたのであろう。口にして気が付いたのか、
「あっとォ! 大変失礼なァこと言いましたねェ」
慌てたようすで、
「日本語はァ 難しいですよォねェ」
初老の人は、短く刈り上げた白髪の頭を搔きながら笑った。
── 1970年 ──
月森シンスケが、大学を卒業して三年ほど勤めた頃であった。突然、シンスケは祖父からの鉄工所を引き継ぐこととなった。一人息子であったシンスケだが、会社を継ぐ気は毛頭無かった。ところが、父の
引き継いだ会社の経営状態は、想像以上に厳しいものであった。シンスケは、抱えていたそれまでの負債を清算するため、会社の資産をすべて処分することを決めた。祖父の代からの鉄工所を閉めることを決断したのである。それにより従業員には、僅かではあるが退職金も支払うことができた。シンスケは会社を清算したあと、予ねてよりの夢であった輸入家具の店を開業した。
── 店の名前は「Träumerei」トロイメライ。 夢という意味だ。
店舗は、会社が順調であった祖父の時代に入手した250坪ほどの土地に建てた。その土地の周辺は、日本経済の発展とともに、高級住宅地へと変貌していた。お蔭で近隣に住む高級志向の高齢者などが、店を訪れるようになった。そのようにして、「Träumerei」は、質の良い欧州家具を扱う店として、秘かな人気店となっていった。