第6話 『春暁不覚』とは言うけれど 1993 卯の花月(1)

文字数 1,555文字

 月森シンスケはこの日も、妻とよく散歩した公園を抜け店に向かっていた。
東風に舞う(こぼ)れ桜が一ひら頬に張り付いた。頬に手をやり、花片を丁寧に掌にとって眺めた。

 季節が巡るのは早いな ──。
そう呟くと、掌の中の薄桃色の花唇(かしん)を、穏やかな風の流れに(ゆだ)ねた。(あたかも)も清流に稚魚を放流するかのような仕草で。そうして、自らの思考をReセットさせた。

 シンスケは夜露で湿った公園の芝生を、いつもより速く通り抜けようとした。その時である。ガーデンベンチに佇む初老の男性に意識が向いた。

 男性の座るベンチの隣には、大きな黒いリュックが置かれている。リュックの表面は、日に焼けて、所どころ染みのように紫色に変色していた。さらにリュックの中央だけが凹んでいた。

(リュックを枕にでもして、一晩過ごしたのか……)
シンスケが、そう思いながら男性の前を通り過ぎようとしたときである。

「失礼ですがァ、ツキモリ様ではないですかねェ?」 
唐突に声を掛けられた。彼はその声に驚きながら振り返った。

「あっ、はい!? そうですが……」
ベンチに腰掛けていた初老の男性は、膝に手を置くと躰を支えるでもなく立ち上がった。
「ふわり」と──。
まったくの重力も感じさせず、(あたかも)も風に舞い上がる落葉のように。
その所作は、「ふわり」という形容がピタリと(はま)っていた。

「うん。やはりィ そうですかァ。よーう似ております。……」 
初老の男性はそう呟くと、

「突然でェ 申し訳ありません。貴方を待ってェおりました」
シンスケの戸惑いを包むように、柔和な眼差しとゆっくりとした口調で話しかけてきた。

「私は、貴方のォ お祖父様の鷹三(ようぞう)様と、お父様の森一(しんいち)様のことを、よーゥ知る者です」
初老の人はそう言うと、自らを名乗った。

「私はァ、福珠(ふくしゅ)とォ申します」
その言葉には、独特のイントネーションが感じられた。

 福珠と名乗る男性が口にした「鷹三」と「森一」とは、紛れもなく祖父と父の名前であった。思いもよらぬことに、シンスケは困惑を隠せないでいた。
ただ、男性の言葉に、ある誘惑にも似た不思議な好奇心に抗えずにいた。

──これも探偵小説好きの(さが)だろうか

「兎に角、ここじゃあ何ですから──。私の店へ」 
そう伝えると、公園から歩いて十分ほどの、シンスケの店舗(みせ)に初老の人を案内をした。

「ほお〜っ 想像以上に良ィ店ですねェ〜」
余程、想像とは違っていたのであろう。口にして気が付いたのか、

「あっとォ! 大変失礼なァこと言いましたねェ」 
慌てたようすで、

「日本語はァ 難しいですよォねェ」
初老の人は、短く刈り上げた白髪の頭を搔きながら笑った。

  ── 1970年 ──
 月森シンスケが、大学を卒業して三年ほど勤めた頃であった。突然、シンスケは祖父からの鉄工所を引き継ぐこととなった。一人息子であったシンスケだが、会社を継ぐ気は毛頭無かった。ところが、父の森一(しんいち)が、四十三歳の若さで急逝したのである。

 引き継いだ会社の経営状態は、想像以上に厳しいものであった。シンスケは、抱えていたそれまでの負債を清算するため、会社の資産をすべて処分することを決めた。祖父の代からの鉄工所を閉めることを決断したのである。それにより従業員には、僅かではあるが退職金も支払うことができた。シンスケは会社を清算したあと、予ねてよりの夢であった輸入家具の店を開業した。

 ── 店の名前は「Träumerei」トロイメライ。 夢という意味だ。
 店舗は、会社が順調であった祖父の時代に入手した250坪ほどの土地に建てた。その土地の周辺は、日本経済の発展とともに、高級住宅地へと変貌していた。お蔭で近隣に住む高級志向の高齢者などが、店を訪れるようになった。そのようにして、「Träumerei」は、質の良い欧州家具を扱う店として、秘かな人気店となっていった。


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登場人物紹介

月森シンスケ 1945年生まれ。名古屋で輸入家具店を営む。趣味はモダンJazz鑑賞。探偵小説を愛する。特に、レイモンド・チャンドラーのフィリップマーローと、ロバート・B・パーカーのスペンサーが大好き。

月森キョウコ 1949年生まれ。月森シンスケの愛妻。趣味は音楽鑑賞 浜田省吾の大ファン。1991年、急性再生不良性貧血症にて急逝する。42歳であった。

藤川モモコ 1957年生まれ。トロイメライの主任スタッフ。1983年結婚するも4年後に離婚。子ども一人。

福珠宗海 1923年生まれ。台湾生まれで、沖縄在住。福珠流唐手十代目総師。

福珠 華 1945年生まれ。沖縄県の糸満で育つ。福珠宗海の養女で、息子健心の許嫁。

石田貴史 1959年生まれ。特定郵便局長。月森夫婦の友人。

松木 幸 1947年生まれ。伊賀で桃幸窯を開き活動している陶芸家。曜変天目茶碗に魅せられる。

杏梨(シンリィ) 1916年 福建省で生まれる。厦門で月森シンスケの恋人になる。

月森鷹三 1902年生まれ。シンスケの祖父。台湾で教師を務めていた。終戦後、名古屋で鉄工所を営む。

月森森一 1927年生まれ。シンスケの父。鷹三の後、鉄工所を継ぐが、1970年43歳で急逝。

李五元 福建生まれ。南少林寺にて修行する。陳近南の娘を守り、琉球に逃れる。沖縄に、李少林拳を伝える。それが後に、福珠流唐手となる。

陳李娘 陳近南(永華)の娘。鄭成功の孫である鄭克蔵の妻。鄭家の内紛で命を狙われる。夫の克蔵は惨殺されるが、李娘は、李五元により助けられ琉球に逃れる。その後、鄭成功の弟である田川七左衛門の庇護により、克蔵の子を産み、その後、その血統は福珠家により守り続けられる。

田川雪姫 1916年生まれ。台湾で生まれ育つ。鄭成功の直系の女性。福珠家、月森家と親密な関わりを持つ。大東亜戦争の沖縄戦により亡くなる。29歳であった。

馮炳文(ふうへいぶん) 1934年 厦門で生まれる!? 父親は馮正如、母は陳杏梨。三邑興業会長。

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