第24話 国姓爺異聞 ── 瀧を昇る鯉 (2)
文字数 2,775文字
李五元は、浙江省の杭州で李家の五番目の男子として生まれた。父は漁に出て、母親が市場で魚を売り生計を立てていた。五元は学問を修めたたかったが、貧しいうえに五番目であった。それならいっそ頭を丸めて僧侶にでもなれば、食うには困らない。そう思って九連山の麓にある南少林寺の門をくぐったのであった。
福建少林寺は南少林寺とも呼ばれ、寺で十年も修行すれば、俗界に戻っても食うに困ることはなかった。例えば厨房にいたものは、まちの料理屋の料理長が務まった。
その他、大工や鍛治や陶工など、寺で学んだ作業は、俗界に戻っても、十分通用するものであった。裏を返せば、寺での修行は相当に厳しいということに他ならない。
読経や禅など仏法本来の修行は勿論のことであるが、少林寺と名の付く禅寺である。
少林拳と呼ばれる武術は必須であり、昼夜問わずの荒稽古が行われていた。
「五元、何故そなたは、福建少林寺の門を叩いた?」
師の雲雪が尋ねた。
「何をしていいのか分かりません。このままでは、貧しさのために、無頼の徒として生きるより道はないと。そして最後には人を殺めると……」
と、虚ろな目で応えた五元に、
「そなたは躰が弱い。先ず、丹を練らなければならん」
そう言うと、五元に「立禅」を命じた。
立禅とは字のごとく「立ったままの禅」である。足を肩幅より少し内側に開き少し膝を曲げる。両手を真上に上げると、そこで脱力する。脱力した両手を真っすぐに正面真まで引き上げ、そのまま大きな亀を抱えたような姿勢で瞑想をする。その時、躰の中心線を意識し、ただ只管立ち続けるのである。
半年ほど経った頃、五元の傍らに立った雲雪は、
「五元よ。『無』になれたか」
唐突に問うと、五元の顔を見て笑いだした。
「足の痛み、腰の痛み、腕の痛みでそれどころではないであろう。今晩の食事のことを考えてもよい。何か気を紛らわすこと。何でもよい。その内、足の痛みでそれどころではなくなる。そして、それを越えれば意識が無くなる。それを繰り返せばよい」
五元はわけが分からず、何度も気を失いその場に倒れこんだ。その度に、兄弟子に水を浴びせられ強引に引き起こされるのである。それでも、一年ほど過ぎると二時間は立てるようになった。そして立禅を始めて三年が過ぎた秋であった。
突然、恍惚感に襲われ、大地からのエネルギーが足を伝わり躰を駆け巡った。頭の天辺から肛門に抜けて一本の光の柱が貫き、躰の軸が定まったように感じられた。五元はその時、「宇宙」を感じていた。真に達磨の教えの通り、「石の上にも三年」であった。
それからの五元は、少林寺に伝わる拳技を、乾いた砂が水を吸い込む如くに吸収していった。特に立禅によってなされた躰の軸の確立は、「内家拳」と呼ばれる身体の内的気功を駆使する拳法の習得を可能にし、五元の拳を想像以上に威力を発揮させるものにした。
中でも
さらに五年を過ぎる頃になると五元は、福建少林寺でも五本の指に数えられほどの実力を身につけるに至っていた。
「五元よ。私にお前が最も得意とする穿打を打ち込んでみよ」
突然、師である雲雪が、五元を前にしていった。五元は戸惑っていた。いくら師匠と言えども、高齢だ。俺の穿打をまともに受けては怪我をする。
その五元の意図を読みとったのか、
「五元、この老人の躰を心配せずともよい。お前の未熟な少林拳でこの雲雪を倒すことなど到底無理じゃ。さあ遠慮はいらん」
雲雪の言葉に、五元も腹を決めた。穿打を放つ構えを取った。対峙している雲雪は躰のどこにも緊張や弛緩したところがない。あくまでも自然躰であった。
少しづつ五元は間合い詰めていった。そして穿打を放つ間合いに入った瞬間、雲雪の
拳が雲雪の急所にのめり込んだと思った瞬間に、まるでつきたての餅を叩いたように、柔らかく包まれ弾き飛ばされた。穿打は雲雪によって弾き飛ばされ、逆に五元には左胸部に強烈な痛みが波紋のように拡がり、その場に蹲った。
少林寺での武術の修練は千仏殿の庭や本堂で行われていた。千仏殿は少林寺の境内の最も奥にある建物で、五百羅漢が
五元は「
老師の放った技は何であったのだろう……。
池に浮かぶ蓮の華を見つめていると、蛙であろうか。
ポチャリという音とともに、小さな波紋が拡がった。
「波紋!」 老師の打った拳は、「これか!」
躰に拡がった衝撃はまさに波紋であった。この衝撃を右胸に受けていたら、心臓に大きな損傷があったかも知れない。
それ以来、五元は拳によって空気を震わす方法を工夫し、そして
「五元よ。見事に工夫した。いよいよ寺を離れる時が来たようだ」
師の雲雪は破顔した。そして、それまでの柔和な眼が一変し、急に険しくなると、
「五元。お前に頼みがある。俗界に戻れ。そして台湾の陳永華殿の元に行ってほしい」
「俗界に戻れ!」
この雲雪の一言が、五元の運命を大きく変えることになる。
五元は「震打」を習得した時期に、このまま僧侶として生きるか? を迷っていた。
俗界に戻り、自分を試してみたい。その迷いを見透かしたような雲雪の命令であった。
五元の福建少林寺での厳しい修行も九年が過ぎようとしていた。
福建少林寺は嵩山少林寺と同様に、僧侶としての修行満願期間は十二年であった。それを満たさず寺を退山するためには、厳しい試験が課されることになる。禅・仏法の教理・経典の習得は勿論であったが、最難関は武術試験であった。少林寺有数の武芸者の数人と立ち合い、勝ち抜かなければならなかったのである。これが正式な退山の方法であった。
しかし、寺を勝手に離れた者(逃亡者)に対しては、厳しい制裁が科された。その制裁とは、少林寺の武術組織が逃亡者をどこまでも追求し、命を絶つということを意味していた。
当然、五元の退山についても同様の扱いで試験がなされた。これは、雲雪から五元に対する密命であったからだ。あくまでも五元の任意による退山でなければならなかった。
そして五元は、少林寺の課題をすべて超克して退山を許されたのである。まさに仏の妙ともいえる配剤であろうか。永暦三十三年(一六七九年)に五元は雲雪の書状を携え、風雲急を告げる台湾へと向かうべく九連山を後にした。