第1話 プロローグ
文字数 3,024文字
激しい揺れで男は床に転がった。続けさまに爆発音が響き咄嗟に両手で頭を覆った。あたりは土煙のような埃が舞い、壊れた椅子に、赤や黄色や青のガラス破片が散らばっている。
──爆発音が少しづつ遠ざかっていく。
「間違いなくこの教会いるはずだ!」 男は意を決して起き上がった。
恐る々周りを見渡すと、教会の礼拝堂に並んでいた長椅子は、統一性もなく様々な方向に散らばって、割れたステンドグラスの隙間から月の光が差し込んでいた。
「誰かァ〜! いないかァ〜!! いたら返事をしろ〜!!」
四方を見渡し必死に声を掛けた。喉の奥がひりついて、心臓が早鐘のように高鳴っている。
「ドドドドドォ……ドーン !!」
腹の底で共鳴するような爆音とともに、激しい揺れが再び襲ってきた。急に動悸が激しくなり、脇に冷たい汗が流れる。男は、一気に背中が凍りつくような死の恐怖を感じて固まった。
「空襲だァ!」 耳を
ああっ、もうだめだ──。
そう思って目をつむり覚悟した。その瞬間である。後方で凄まじい爆発音がしたと思うと、まるで巨大な生き物の舌が、軽々と身体を掴み投げ捨てるかのように、男は後方に跳ね飛ばされた。
──まるで映画のワンシーンだ。
男は宙を泳ぐように叩きつけられ、地面を転がっていた。地面が近づいてきた瞬間に、咄嗟に両手で頭を庇っていた。転がりながら意識は遠のいていた。
暫くして彼は、
「うっ、……。」
鋭い痛みに思わず言葉が反応した。痛みをこらえながら手足に力を入れると何とか動く。
どうやら…… 生きているらしい。
痛みに顔を歪めながら、身体を起こすと辺りを見回した。そして、近くに転がっていた棒切れを支えにして何とか立ち上がった。
すると誰かの声が耳に届いた。慌ててあたりを見渡す。
床の上にはステンドグラスのガラス片が一面に散乱して、マリア像がひしゃげていた。
マリア様の頭と胴体が離れている……。
こんなに酷い光景は初めてだ。壊れた頭の部分には、はっきりと顔の陰影が見て取れた。
さらに倒れた椅子の向側に、黒ずんだ血の跡のようなものが拡がっている。
ひどく痛む足を曳ずりながら、近づいたときである。
微かに声が聞こえた。女性の声だ……。
「どこだ!? ひょっとして! 生きてるのか!?」
そう叫ぶと、
男は痛みを堪えて、目を大きく見開くと、祭壇の奥を覗きこんだ。
見ると祭壇の脚元に人が倒れている。微かだが動いたように感じた。その祭壇の床には、赤黒い血だまりができていた。
「大丈夫かァ〜!!」
大声で叫ぶと、急いでその人のもとへ駆け寄ろうとした。が、思うように身体が動かない。
薄明りの中で、うつ伏せで何かを抱えるようにして女性が倒れ込んでいた。
間違いなく彼女だ! 男は直感した。
「まってろー!! 今助けるからぁーっ!」
できうる限りの声で叫んだ。
負傷した足を引きずりながら、
赤子の産着は彼女の脇腹からの出血により、赤く染まっていた。苦痛で歪む女性の表情が、男の声に反応すると、薄目を開け、驚いたような表情をみせた。
「ああっ! マリアさま……。 最後に奇跡を与えて下さったのですね……」
女性の震える手が渾身の力を振り絞り、ゆっくりと男の汚れた頬に近づいた。
「やっと… やっと、やっと会えましたね……」 そう言った。
彼女がさらに何かを言いたげな気配を察し、男は女性の口元に自らの耳を近づけた。
すると彼女は羽音が微かに響くように囁いた。
「愛しい人……。 こどもを、おねがい…… します」
男は涙と鮮血に染まった蒼白の頬に、自らの頬を押しつけ優しく髪をなでた。
「すまない。本当にすまなかった……」 だだ、その言葉を繰り返した。
いつ死んでもおかしくない状況だ。そんな中、女性はまだ懸命に何かをせがむように手を動かす。男の頬に触れていた彼女の手が力なく落ちた。しかし床に落ちた細く綺麗な指が、まだ何かを探している。
「ロザリオか!」
そう直感すると、彼女の側に落ちていたロザリオを咄嗟に掴み、手に握らせた。
「ああっ、……」
声にならない言葉を発したかと思うと、彼女はゆっくり瞼を閉じた。
光を失った女性の瞳が、薄く開いたまま止まっている。
その薄い瞼を男が優しくなでると、彼女の人生は永遠に閉じた。
男は彼女を抱いたまま、時が止まったかのように動かなかった。
そして、果てしなく続くかと思われたこの闇の世界に、男の慟哭だけが響ていた。
どのくらい時が過ぎたのだろうか……。
雲から覗く陽の光と傾いた屋根の軒に影が射したことで、夜の惨事から一夜が明けたことだけは分った。気が付くと、瓦礫と家屋の焼け焦げた匂いが充満する街の中にいた。
「漸く……、夜が明けたのか──」
力なく呟いた男は、
泣き疲れたのか。赤ん坊は、
どこに向かっているのか……。 彼は、誰かの意思でもあるかのように、
どのくらい歩いたのか──。目の前には大きな
男は傷ついた左足を曳ずりながら、山門をくぐると、寺院の中に足を踏み入れた。風雨に耐えて、長く久しい古刹であったはずだ。周辺の建物の半分以上が崩壊していたが、奇跡的に本堂は無事であった。その本堂の中から灯明が洩れている。その明かりをみて男は安堵した。
──寺には人が残っている!
「誰かいませんかぁ!! 誰かぁ! お願いです!」
本堂に向けて力の限りの声を上げた。
「誰かぁーっ! どなたかぁーっ! いませんか!」
そう言うと、正面の格子戸に手をかけた。すると、中にいた者が引いたのか、すんなりと戸が開いた。男の目に飛び込んできたのは、燭台の明かりに照らされた金剛不動明王であった。
「気を確かに! しっかりしなさい!」
声に混じって、微かに水泡の弾けるような白濁音が耳元で揺れた。
すると男の意識は碧く深い海にゆっくりと沈んでいった。
── 耳の奥で
着陸時のドスンという振動音と身体にかかる飛行機の重力圧で、月森シンスケは目が覚めた。
友人の葬儀に出席した帰路であった。降り立った小牧空港のエプロン照明塔の光が、小雨の風に流れる様子を映し出していた。
──不思議な夢だった……。
「また、親しい人が逝ってしまった……」 虚無感と喪失感。
彼は、鉛を曳くような足取りで、改札口に向かって歩き出した。