第31話 厦門の黄昏は悩ましい (2)
文字数 3,515文字
顔を
「飲みすぎたようだ…… オイオイ、夢でも二日酔いをするのか!?」
そう思った時、小さなベッドに、自分が一人で寝ていないことに気が付いた。
シンスケの裸の胸に、
ショートカットの乱れた黒髪と、白くふっくらとした女性の横顔が埋められていた。
キョウコか──。 無意識にその黒髪に指を絡ませ、女の身体を抱きしめた。
それで気が付いたのか、彼女はシンスケの頬にそっと唇を押しあてると、
改めて彼の瞳を覗き込んだ。
「眼が覚めた? 昨日は酷い状態で、ここまで連れてくるのが大変だったのよ」
そう言って、微笑んだ顔が、キョウコではないことに初めて気が付いた。
彼は、ベッド以外は何もない小さな部屋の柱がむき出しになった天井を見つめていた。
── まだ夢は続いているのか!? シンスケの眼は大きく見開いたままであった。
暫くするとシンリィは、シンスケを
やはり夢ではないらしい。──ええい! もう好きにしろ!
二人してベッドの周辺に脱ぎ散らかした下着やシャツを探して、彼女は笑いながらシンスケに渡す。その化粧を落としたシンリィの容姿とキョウコが重なった。
本当によく似ている……。
昨夜初めて声を掛けられた彼女と、何故すぐに店に入ったのかが、その時初めて分かった。
二人して部屋からの階段を降りる。そこは、中山路から思明西路に抜ける細い路地裏。
そこにある古い二階建てのビル。そのビルの一部屋に、シンリィは住んでいた。
「中山路をまっすぐに西に向かうと船着き場あるの。そこから船に乗ると十分か、十五分くらいかな。街全体が整備されていて、きれいな公園なのよ」
シンリィはシンスケに腕を絡ませると、思明西路から大中路を中山路に抜け、
その広い路をまっすぐに西に向かっていった。
キョウコをなくして以来、終ぞ無かった腕から伝わる柔らかい女性の胸の感触。
シンスケは、シンリィとキョウコの横顔が重なり、
困惑をしながらも言葉にできない心地よさに包まれていた。
シンリィは笑いながら、時折身振り手振りを交え、そのたびに、シンスケの瞳を見つめ、
昨夜の出来事を話してくれた。
彼女の話によると、支払いのために持って行ったシンスケの革財布の中身は、すべて偽札であると決めつけられた。
怒った店のマネージャーは、酔い潰れたシンスケのブレザーや、ズボンのポケットの中身をまさぐったらしい。その時に出てきた一枚の名刺で、取り敢えず留置所行きは免れたらしい。
「『三点会』、福珠、ふくしゅ何とか、と書いてあるぜ」
名刺を見てそう言った店のマネージャーが、三点会のメンバーだったら不味いからと、
「『取り敢えず、腕にしている時計でも貰っとけ!』とか言ってね」
彼女の言葉で、シンスケは腕に愛用の時計が無いことに気が付いた。
ケースはシルバーで、文字盤はグリーン。
クリスタルガラスが嵌め込まれた日本の「精密舎」の自動巻き時計である。
さらに裏面はスケルトンになっていて、シルバーのチエーンにはSGの文字が刻まれている。
妻からプレゼントされたものであった。
「高そうな時計だったから、あれを売れば飲み代は、チィフゥ(ペイ)できたんじゃないかな」
「大切なモノだったの?」
「ああ──。 とても」
シンスケはそれだけ言うと、突然思い出したように慌ててブレザーの内ポケットを探った。
上から抑えると、小さな感触が掌に伝わってくる。
(よかった──)
リングは無事のようだ。
徐にブレザーの内ポケットにある、二重に細工された隠しポケットから、シルバーリングを取り出した。妻と揃いで薬指にしていたシルバーリングであった。
二人が付き合いだしたころ、シンスケが妻のキョウコに贈ったものであった。
キョウコは亡くなるまでこの銀色のリングをしていた。そのリングをシンリィに見せながら、
自らの左手にあるリングを外すと彼女に見せた。
「オレが愛した人が贈ってくれたリングだ」
そう言い、小さな方の指輪の内側に刻まれている文字を見せた。
「杏(Shin)。妻の名前だ」
そして、自らの指輪の内側に彫られた文字をみせた。そこには
「Shin!? 森(シン)」
声に出し、驚きを隠せないでいるシンリィに、シンスケは妻のことを話した。
キョウコの頬を見ると、杏(あんず)を連想する。
そう言って、シンスケは妻の頬によくキスをした。するとキョウコは、
「杏の花言葉は『偽りのない心』。そして、私の名前の杏子(キョウコ)の杏は、
中国語でシンと発音するのよ。貴方のシンと同じ!」
彼女の言葉で、お互いの指輪に「杏(Shin)」と「森(Shin)」という字を入れた。
「亡くなった妻のキョウコは…… 君によく似ている。本当に」
シンスケは唐突にシンリィの左手の薬指に、杏(Shin)の文字が刻まれたリングを嵌めた。
そして森(Shin)のリングを自らの指に戻すと、まるで夢でも見ているようなシンリィを突然抱きしめた。
「うれしい……。私には年の離れた妹がいるのよ。あの子に見せたい……」
そう言って身体を委ねたシンリィの言葉に、
── このまま、この街にいたい。彼女と。
シンスケは堪らずに、シンリィの髪の匂いを胸一杯に吸い込んだ。
その日、鼓浪嶼(コロンス島)で夕暮れまで過ごした二人は、彼女の部屋に戻る途中で夕食を取った。升平路を東に大中路を抜け、思明西路の途中の細い路地にあるシンリィ部屋に向かう。その通りは、日本では見られない街並みが続いていた。
街路の両側には歩道が設けられ、その歩道を建物の一部が覆っている。つまり、日本家屋でいう所の、軒の下に歩道がある──。軒と違うのは歩道の上が建物になっていることである。
「日本では、見たことの無い街並みだね。これって『
そう呟いたシンスケに、
「路にせり出した二階以上の部屋の部分を一階の柱で支えているの。結果的に、
歩道の上に家が建ってる。シンさん建物に詳しいの?」
そう言ってシンリィが問いかけた。
「いや、大学の『
その答えに、シンリィはシンスケの顔をまじまじと見つめながら、
「シンさんって頭いいんだ!」
彼女はシンスケに抱きつくと、頬に唇を押しあてた。
彼女の行きつけの店で食事を済ませると、
シンスケは、
「これを金に換えてくれないか。君に奢ってもらうのは心苦しい」
と、自らの薬指にあるリングを外してシンリィの掌にのせた。
「ダメ!絶対に! シンさんと私は、この指輪で繋がれてるの!」
そう言って愛おしそうにシンスケを見つめると、
「シンリィは
自らの細い指に光っているリングを見せた。そして、ペアのリングをシンスケの薬指に押し込んだ。
「杏梨!? シンリィか──」 夢の中では何でもシンクロするんだ。
笑ってしまうな。
騎楼の街並みに繋がる血管のように細い路地を入り、二人して杏梨の部屋に戻ると、
小さなベットで、シンスケと杏梨はお互いを求め合った。
彼女はシンスケの胸に、杏のような頬を埋めながら呟いた。
「明日の夕方は、私が蚵仔煎(アオジェン)を作って食べさせてあげる」
「アオジェン!? って?」
シンスケが聞き直すと、
「牡蠣の玉子包、故郷の
とても美味しそうな牡蠣があったの」
「昨日話した妹がね、大好きだったのよ」
彼女はそう答えた。
シンリィは家族のために、厦門で今のような仕事をしているらしい。
それ以上のことは聞いても話さなかった。
杏梨の素肌は少し日に焼けて、重ね合わせた肌は海に近い地域を連想させた。
杏梨は福建の生まれといったが……。
そんなことを思いながらシンスケの意識は怠惰にゆっくりと流れていく。
彼女は両腕をシンスケの首に絡ませると、胸に埋めていた杏梨の顔が、シンスケの眼の前に現れた。その瞬間、唇が押しあてられた。杏梨の裸体から伝わる温もりと髪の香りが、シンスケの鼻孔を擽るように眉間の奥に抜けていった。
ほんとに、ネオハードボイルドな夢だな……
その瞬間、シンスケの意識は遠のいていった──。
── そう、啄木の「一握の砂」にある歌。ほら、『東海の小島の磯の白砂に──』
あんな風に、足元の波が砂に吸い込まれるように引いていくんだ……。
そして綺麗な金属が重なる微かな音がする──。ハードな夢も文学的な余韻で終わるんだ。
シンスケは後に、「Barber chair」で、夢から現実に引き戻される感覚について、
藤川モモコにそのように語った。