第25話 夷修羅偽史伝
文字数 4,509文字
そう訊ねられて考え込んでしまった。
蔵人に剣の探索を依頼したのは、剣身の龍と三辰 紋をこの目で確かめたかったからだ。しかし今の話によれば、蔵人もそれを見ることは叶わなかった。なにしろこの霊符は絶対に剥がせないのだから。
「うーん。なかを検 められないとなると、困りましたねえ」
「藍那、もしあなたがこれを引き取れないのであれば、私が今日にでも《大尊 》に詣でてこれを納め、永代供養してもらうつもりです。たとえ封魔の霊符を貼っていたとしても、油断は禁物。こっちに累が及ぶのは勘弁願いますのでね」
《大尊》とは華羅人街にある喇嘛 教寺院である。もし納められてしまえば、二度と目にする機会はないだろう。
はてどうしたものか――。
藍那が困っていると、夫をたしなめるように花蓮が口を開いた。
「まあまあ狼 よ、そう答えを急かすでない。藍那だって期待が外れてしまったのじゃ、もう少し考えさせてやらんか」
そして藍那を見据え、続ける。
「藍那よ、儂は以前、おぬしに件 の剣について書かれたものをどこかで読んだことがあると言ったな」
「はい」
「あれから陦蘭 にいろいろ助力してもらって、ようやく探し当てた。これじゃ」
卓上を滑らせながら傍らの書物を藍那の方へと押し出した。上下を返しよくよく眺めれば、革の装丁がところどころ傷んでいる。どうやらかなり古いものらしい。
表紙を飾る金文字は羅典語だ。おそるおそる表紙を繰ると、裏表紙の真ん中に逆さまになった五芒星が焼き印されてある。
思わず顔を上げると花蓮が言った。
「それは正十字教会による禁書の印じゃ。原本は散逸してしまったが、わずかに残った写本のほとんどが焚書の憂き目に遭った。それが残っているのが奇跡のようなものだと言ってよい」
「これは何処に?」
「陦蘭の書庫にあった。奴が羅典から持参した数少ない蔵書の一つじゃ。題名は羅典語で『夷修羅 偽史伝』という」
「夷修羅……」
動揺を顔に出さないのがやっとだった。紫園が夷修羅人であることは杏奈 と杷萬 、藍那の三人だけの秘密だ。
「今から二百五十年ほど前の古い本で、昔栄えた夷修羅人の王国《慧焔都 》の成り立ちから滅亡までを書いておる歴史書じゃ。もっともただの歴史書ではない、題名どおり、偽の歴史書じゃ」
「偽……つまり嘘ということですか?」
「それはじゃな……、かような事情があってのことなのじゃ」
***
この本の作者は不明である。しかし書き手の《私》は羅典領内のある街で、収税吏をしていた。
ある夏の午後、税を取り立てるため貧民街へと足を運んだ。しかしあまりの暑さに目眩を覚え、通りの木陰で休んでいた。そこに知らない老人が話しかけてくる。
聞けば、貧しく税が納められないので、自分が知っている夷修羅の歴史を話すという。この老人はかつて羅典に滅ぼされた《慧焔都 》の神官で、神官にしか伝えられない歴史の真実を知っているというのだ。
興味をひかれた《私》は、老人を通りの端にある寂れた飯屋に連れて行き、持参していた紙とペンで彼の言葉を綴っていった。
老人の言葉は一日では終わらなかった。翌日も貧民街へ足を向け、飯屋で落ち合った老人の話を聞いて書き留める。そんなことがひと月ほど続き、ようやく《私》は老人の言葉を全て記録し終えた。
その後老人は忽然と姿を消す。《私》が彼の所在を訊ねたところ、貧民街の住人たちは老人のことを一切知らず、そんな老人など見たこともないという。飯屋の主人に訊ねても同様だった。
のちに《私》は謎の老人からの聞き書きを、一冊の本としてまとめ上げる。それがこの本、『夷修羅偽史伝』というわけだ。
前書きによればその老人が本当にいたのかも分からず、彼が《慧焔都 》の神官だったのかも怪しい。だから全ては虚偽かも知れぬ。よってこの本を偽史伝とした――とある。
「だがそれこそが大いなる虚構よ。すべてを虚偽といいくるめ、支配者からの弾圧を逃れるための方便じゃ」
「ではその老人こそが、この本の作者だったと?」
「それは分からんが、おそらく夷修羅人……それもかなりの知識と教養を備えた人物であったことは間違いないじゃろうな。
この本がまとめられたのは、《慧焔都 》が神聖帝国の支配下に置かれてまだ日が浅かった頃のようじゃ。当然あらゆる活動への監視は厳しく、こういった歴史書をだすのは御法度。見つかれば牢獄行きよ」
花蓮は古びた表紙を開き、頁 を繰った。
「まあ、そうはいっても最初の方は神話の世界、毒にも薬にもならん話じゃ。だが千年王国の始祖、六星王荒弩 が《慧焔都》を建国する辺りは、実に面白い。手に汗握る冒険譚で、これだけでも読む価値はある」
六星王荒弩。
その名は藍那も聞き覚えがあった。千年王国《慧焔都》を建国した人物で、最高の武人と賞された傑物である。
貧しい羊飼いの家に生まれながら、類いまれな才気と力に恵まれていた。
それまで互いに反目し合っていた十二氏族をまとめ、嘉南 の地を支配していた蛮族を蹴散らして夷修羅人の国を初めて造り上げた。
しかし、なにしろ千年以上昔の話だ。彼がたとえ実在したとはいえ、伝承がどこまで本当なのかは怪しいものだ。なにしろ敵の矢を受けて死んだのに、神の力で三日後に生き返ったなど絶対嘘に決まっている。
「六星王荒弩 が玉座についたとき、己の印を神官に作らせた。それが太陽、月、六つの星の三辰 を、雌雄の龍が囲むという絵図だったらしい」
「それは……」
「荒弩 はこれを王の印として、他の誰にも使うことを禁じた。そして後に、己の手で二振りの剣を鍛え上げたのだが……」
言葉を切った花蓮はさらに頁をくって、何かを探す。
「ああ、ここじゃ。ここにはこう書かれておる。
――二振りの剣は雄剣と雌剣。雄剣の剣身には雌雄の龍と三辰紋、すなわち太陽と月、そして六つの星。剣の銘を龍三辰 という。雌剣は雄剣よりも小ぶりの作りであり、剣身には一匹の龍と七星。その銘は……」
「天星羅 ……」
花蓮と藍那の声が重なり合った。
藍那は腰に佩いた天星羅にそっと触れ、額に浮いた汗を手のひらでぬぐう。正直なところ、こんな話が出てくるとは夢にも思っていなかった。
探されている剣とこの天星羅について、なにかしらのつながりがあるのではないか。そう考え、蔵人に探索を願ったのは真実が知りたかったからだ。雌雄剣の可能性だって充分想定していたはず……。
だが、いざ蓋を開けてみるとどうだろう。
花蓮の話が……もとい、その『夷修羅偽史伝』が正しいとすれば、この天星羅は六星王荒弩 の手によるもの。ばあやの昔話で聞かされた伝説の英傑が残した片割れということだ。
それがどのような経緯を経て母のもとにあったのか。いや、そもそも母は、いったい何者なのか――。
震える指先で椀を手に取り、ぬるくなった茶を口に含んだ。
「私は……」
声がかすれ、もう一口茶を含む。
「私はなにも母から聞いておりませんでした。この剣の由来のことは、なにも」
「御母堂は、おぬしが十四の歳に亡くなったとか」
「銘だけは聞いておりました。ですが、もともと昔のことをなに一つ話さない人でしたし……」
「そうであったか。おぬしの流儀についてはどうなのじゃ」
「双極剣は母が母の父、すなわち私の祖父から教えられたと言っておりました。祖父はおそらくその父から、代々伝えられてきたのだと思います。双極剣の套路には、あきらかに双剣を前提としたものがあります。ですが……」
左手で天星羅を腰から抜き、卓上の剣と並べて置いた。こうしてみると天星羅の華奢な作りがよく分かる。
「千年王国が滅んで二百年あまり。なぜ雌剣の天星羅だけが、母に伝えられたのでしょう。本来なら雌雄 剣は一対であるべきものではありませんか」
「さよう。慧焔都 陥落と王国の滅亡――それがこの呪われた剣の忌まわしき始まりじゃ」
神聖帝国が滑石海 を渡り、千年王国に侵攻したのは二百五十年前。激戦の果てに慧焔都は陥落する。
『夷修羅偽史伝』には羅典兵と夷修羅兵たちの血で血を洗う激戦が詳細に描かれており、これを書いたものが実際にそれを見たのではないかと花蓮は言った。
「龍三辰 と天星羅。この二振りは六星王の死後は聖遺物とされ、神殿にて厳重に封印されてあった。しかし帝国との攻防戦の果てに慧焔都は陥落、混乱の極みのなか、当時の王であった袮鷺 がこの双剣の封印を解いてしまったのじゃ」
袮鷺 は千年王国最後の王で、愚王の名が高かった。
城壁を破られたことを知った彼は神殿に後宮の女子どもを集め、護衛の兵たちに外から扉を閉めさせる。そして封印を破り鞘をぬいた龍三辰 を高々と掲げ、契約の神にこう宣言した。
――余 は余とここにいる者たちの血を、この剣に捧げる。そしてこの剣がこれからも多くの人間の血を吸い、力を増し、いつか王国再興の道を切り開くであろう。
それからは阿鼻叫喚の地獄絵図であった。妃たちやそれに使える女官、下働きの女までが殺され、次には王の子ら十五人が父王の手にかけられた。
逃れようにも神殿の扉は固く閉ざされている。死体から溢れた血で石床は赤く染まり、次々と死体が折り重なっていく。それでもなお命乞いをする幼子たちを警護兵たちが押さえつけ、王の殺戮に手を貸した。
それを部屋の片隅から見ていた若い神官がいた。彼は宝物庫に急いで向かい、封印を解かれ、床に放り出されていたもう一振りをそっと拾い上げる。そして一部の者しか知らない秘密の抜け道を使い、神殿を急いで後にしたのであった。
慧焔都 が陥落した数年のち、剣は神官から王の末弟、基甸 の手に渡る。彼は帝国との戦を生きのびた武術の天才であり、六星王が編み出した双極剣のすぐれた遣い手でもあった。
帝国の追っ手を逃れるため遙か東の寒村に隠遁し、村の貧しい子どもに読み書きを教えていた彼は、神官から兄王の壮絶な最期を初めて知らされる。そして六星王の遺物が怨念によって穢されたことを嘆き、神官にこう誓った。
――王国の再建は私も何より願うこと。しかし、そのために神の教えと義に反したことが許されていいはずがない。
この天星羅と六星王の剣技を絶やさぬよう尽力いたします。そしていつか呪われた雄剣が災いをこの世に振りまくとき、この雌剣がそれを必ずや阻むでしょう。
「この剣を携え、基甸 は家族らと、さらに東の地へと赴いたそうじゃ。しかし、そこでこの記録は終わっておる」
蔵人に剣の探索を依頼したのは、剣身の龍と
「うーん。なかを
「藍那、もしあなたがこれを引き取れないのであれば、私が今日にでも《
《大尊》とは華羅人街にある
はてどうしたものか――。
藍那が困っていると、夫をたしなめるように花蓮が口を開いた。
「まあまあ
そして藍那を見据え、続ける。
「藍那よ、儂は以前、おぬしに
「はい」
「あれから
卓上を滑らせながら傍らの書物を藍那の方へと押し出した。上下を返しよくよく眺めれば、革の装丁がところどころ傷んでいる。どうやらかなり古いものらしい。
表紙を飾る金文字は羅典語だ。おそるおそる表紙を繰ると、裏表紙の真ん中に逆さまになった五芒星が焼き印されてある。
思わず顔を上げると花蓮が言った。
「それは正十字教会による禁書の印じゃ。原本は散逸してしまったが、わずかに残った写本のほとんどが焚書の憂き目に遭った。それが残っているのが奇跡のようなものだと言ってよい」
「これは何処に?」
「陦蘭の書庫にあった。奴が羅典から持参した数少ない蔵書の一つじゃ。題名は羅典語で『
「夷修羅……」
動揺を顔に出さないのがやっとだった。紫園が夷修羅人であることは
「今から二百五十年ほど前の古い本で、昔栄えた夷修羅人の王国《
「偽……つまり嘘ということですか?」
「それはじゃな……、かような事情があってのことなのじゃ」
***
この本の作者は不明である。しかし書き手の《私》は羅典領内のある街で、収税吏をしていた。
ある夏の午後、税を取り立てるため貧民街へと足を運んだ。しかしあまりの暑さに目眩を覚え、通りの木陰で休んでいた。そこに知らない老人が話しかけてくる。
聞けば、貧しく税が納められないので、自分が知っている夷修羅の歴史を話すという。この老人はかつて羅典に滅ぼされた《
興味をひかれた《私》は、老人を通りの端にある寂れた飯屋に連れて行き、持参していた紙とペンで彼の言葉を綴っていった。
老人の言葉は一日では終わらなかった。翌日も貧民街へ足を向け、飯屋で落ち合った老人の話を聞いて書き留める。そんなことがひと月ほど続き、ようやく《私》は老人の言葉を全て記録し終えた。
その後老人は忽然と姿を消す。《私》が彼の所在を訊ねたところ、貧民街の住人たちは老人のことを一切知らず、そんな老人など見たこともないという。飯屋の主人に訊ねても同様だった。
のちに《私》は謎の老人からの聞き書きを、一冊の本としてまとめ上げる。それがこの本、『夷修羅偽史伝』というわけだ。
前書きによればその老人が本当にいたのかも分からず、彼が《
「だがそれこそが大いなる虚構よ。すべてを虚偽といいくるめ、支配者からの弾圧を逃れるための方便じゃ」
「ではその老人こそが、この本の作者だったと?」
「それは分からんが、おそらく夷修羅人……それもかなりの知識と教養を備えた人物であったことは間違いないじゃろうな。
この本がまとめられたのは、《
花蓮は古びた表紙を開き、
「まあ、そうはいっても最初の方は神話の世界、毒にも薬にもならん話じゃ。だが千年王国の始祖、六星王
六星王荒弩。
その名は藍那も聞き覚えがあった。千年王国《慧焔都》を建国した人物で、最高の武人と賞された傑物である。
貧しい羊飼いの家に生まれながら、類いまれな才気と力に恵まれていた。
それまで互いに反目し合っていた十二氏族をまとめ、
しかし、なにしろ千年以上昔の話だ。彼がたとえ実在したとはいえ、伝承がどこまで本当なのかは怪しいものだ。なにしろ敵の矢を受けて死んだのに、神の力で三日後に生き返ったなど絶対嘘に決まっている。
「六星王
「それは……」
「
言葉を切った花蓮はさらに頁をくって、何かを探す。
「ああ、ここじゃ。ここにはこう書かれておる。
――二振りの剣は雄剣と雌剣。雄剣の剣身には雌雄の龍と三辰紋、すなわち太陽と月、そして六つの星。剣の銘を
「
花蓮と藍那の声が重なり合った。
藍那は腰に佩いた天星羅にそっと触れ、額に浮いた汗を手のひらでぬぐう。正直なところ、こんな話が出てくるとは夢にも思っていなかった。
探されている剣とこの天星羅について、なにかしらのつながりがあるのではないか。そう考え、蔵人に探索を願ったのは真実が知りたかったからだ。雌雄剣の可能性だって充分想定していたはず……。
だが、いざ蓋を開けてみるとどうだろう。
花蓮の話が……もとい、その『夷修羅偽史伝』が正しいとすれば、この天星羅は六星王
それがどのような経緯を経て母のもとにあったのか。いや、そもそも母は、いったい何者なのか――。
震える指先で椀を手に取り、ぬるくなった茶を口に含んだ。
「私は……」
声がかすれ、もう一口茶を含む。
「私はなにも母から聞いておりませんでした。この剣の由来のことは、なにも」
「御母堂は、おぬしが十四の歳に亡くなったとか」
「銘だけは聞いておりました。ですが、もともと昔のことをなに一つ話さない人でしたし……」
「そうであったか。おぬしの流儀についてはどうなのじゃ」
「双極剣は母が母の父、すなわち私の祖父から教えられたと言っておりました。祖父はおそらくその父から、代々伝えられてきたのだと思います。双極剣の套路には、あきらかに双剣を前提としたものがあります。ですが……」
左手で天星羅を腰から抜き、卓上の剣と並べて置いた。こうしてみると天星羅の華奢な作りがよく分かる。
「千年王国が滅んで二百年あまり。なぜ雌剣の天星羅だけが、母に伝えられたのでしょう。本来なら
「さよう。
神聖帝国が
『夷修羅偽史伝』には羅典兵と夷修羅兵たちの血で血を洗う激戦が詳細に描かれており、これを書いたものが実際にそれを見たのではないかと花蓮は言った。
「
城壁を破られたことを知った彼は神殿に後宮の女子どもを集め、護衛の兵たちに外から扉を閉めさせる。そして封印を破り鞘をぬいた
――
それからは阿鼻叫喚の地獄絵図であった。妃たちやそれに使える女官、下働きの女までが殺され、次には王の子ら十五人が父王の手にかけられた。
逃れようにも神殿の扉は固く閉ざされている。死体から溢れた血で石床は赤く染まり、次々と死体が折り重なっていく。それでもなお命乞いをする幼子たちを警護兵たちが押さえつけ、王の殺戮に手を貸した。
それを部屋の片隅から見ていた若い神官がいた。彼は宝物庫に急いで向かい、封印を解かれ、床に放り出されていたもう一振りをそっと拾い上げる。そして一部の者しか知らない秘密の抜け道を使い、神殿を急いで後にしたのであった。
帝国の追っ手を逃れるため遙か東の寒村に隠遁し、村の貧しい子どもに読み書きを教えていた彼は、神官から兄王の壮絶な最期を初めて知らされる。そして六星王の遺物が怨念によって穢されたことを嘆き、神官にこう誓った。
――王国の再建は私も何より願うこと。しかし、そのために神の教えと義に反したことが許されていいはずがない。
この天星羅と六星王の剣技を絶やさぬよう尽力いたします。そしていつか呪われた雄剣が災いをこの世に振りまくとき、この雌剣がそれを必ずや阻むでしょう。
「この剣を携え、