第68話 密偵・塁(ルイ)
文字数 4,642文字
密偵は塁 という名の羅典 人で、見た目から歳は三十前後、やや小太りの、たいそう人懐こそうな男だった。
そもそも密偵は人の懐に入り、必要な情報を得る。だから彼らの多くは親しみやすい容貌で、人当たりも良かった。口が達者なうえ、それほど美形というわけでもないのに女にもてる。
この塁も多分にもれず、密偵という正体を知らなければ、大店の番頭か芝居小屋の二番人気といったところだ。羅典でも北方の出身らしく、薄い金髪に緑色の目をしていた。
船から降りてまっすぐに屋敷へと向かい、着いたのは昼過ぎだ。藍那が客間へ顔を出したときは、遅めの昼食を済ませたところで、のんびりと薄荷茶を喫していた。
円卓にはすでに慈衛堵がついている。室内には三人だけで、使用人も外へ出されていた。天星羅 を着座の型に差し直してから、乞われるままに慈衛堵の隣、塁 の斜向いへと座した。
「ああ、これは。あなたが藍那さんですね」
立ち上がり、拱手一礼してにっこりと笑う。
「お噂はかねがね、伺っております。私の知らせがお役に立てるといいのですが」
「ありがとう。私にお構いなく、どうぞお掛けになってください」
「恐縮です」
再び着席した塁をそれとなく観察した。顔も身体も丸みを帯びているが、それはあくまで人懐こさを演じるための衣装に過ぎない。密偵というからには、なんらかの武術も習得しているはずだ。しかし、巧みに隠されたその実力がどれほどのものか、推し量ることは難しい。
慈衛堵が薄荷茶を器に注ぎ、藍那にすすめる。
「塁 は私が長年信頼している密偵です。彼の報告はとても信頼できる――そう思っていただいて構いません」
藍那が無言でうなずくと、塁は口元を手巾で拭い、話し始めた。
「では報告に入りましょうか。まずは例の安慰 の姿絵ですがね」
長衣の袖口から、手品のような手付きで細く丸めた紙を引き出した。
「こちらをお検めください」
差し出されたものを慈衛堵が受け取る。軽く糊で閉じられていた部分を慎重に剥がし、開くと、彼の顔色が変わった。
「なんてことだ……やはり……」
慈衛堵が卓上に広げたそれを、藍那もまた眺めた。
薄茶の紙に筆で描かれたその人物は、まごうことなく《彼》そのもの。姿絵には目と髪にだけ、彩色が施されている。赤みがかった栗色の髪と、紫の双眸。これが《彼》でなくて、一体誰だろうか。
「紫園……」
気がつけば、そう呟いていた。ふと、濃厚な血の匂いを嗅いだ気がして、その瞬間、記憶の底から過去が鮮明によみがえる。
血しぶきを上げながら倒れた、苫栖 と圓湖 。必死に逃げてと由真に叫んだ。
そして――。
死を願うほどの苦痛と屈辱の時間。紫色 の業火と焼かれる亡者たち。
唇を歪め、《アレ》が笑った――。
「藍那さん、しっかり」
慈衛堵の声がずいぶん遠かった。耳鳴りがひどく、おまけに胸が締め付けられて息が苦しい。全身から汗が吹き出し、こみ上げてくる嘔吐を必死にこらえた。
「塁、水を」
卓に倒れかけたところを、慈衛堵が抱えて起こした。唇に硝子杯があてられ、檸檬水が流し込まれる。少しむせてから、飲み干した。
「ありがとうございます。もう大丈夫です」
大きく息を吐いて目を閉じ、開いてから姿勢を正した。塁へ頭を下げ、
「申し訳ありません、見苦しいところをお目にかけました」
と詫びる。
塁は手のひらを藍那へと向け、頭 を振った。
「いいえ、どうぞお気兼ねなく。では彼は、間違いなくあなたが探されていた男なのですね」
「はい……。理由は言えませんが」
「そうですか。だとすればいささか奇妙な、残念なご報告になるかもしれません」
藍那が怪訝な表情で塁を見返した。
「それは、一体どういうことですか」
「安慰 が慧焔都 で宣教を始めたのは、今から三 月ばかり前、年が変わって間もない頃だったそうです。それまでの彼は、見習い大工の、ごくごく普通の青年だった」
「……大工? まさか、でも……」
困惑がそのまま言葉に出た。まさか、紫園と同じ人間が二人いるというのか?
「本当の名前は芳也 。出身は為異喇 という街で育ち、大工の父親の元でずっと修行してました。歳は二十三。父の名は約瑟夫 、母の名前は真莉愛 。彼の下に弟が二人と妹が一人。家族構成はこんなところでしょうか」
視線を転じれば、慈衛堵も釈然としない表情をしている。たぶん藍那自身も同じなのだろう。まだ塁の言った事実をうまく飲み込めなかった。
敵 をようやく見つけ出したと思いきや、他人の空似だった。なんとも奇妙で残念な話だが、にわかに信じられない自分がいる。
重い空気をはらうように、薄荷茶で喉を潤した塁が話を続けた。
「為異喇 は慧焔都から北の方角、三十遥嵯歩 (※一遥嵯歩=五キロ)のところにあります。歩いていけば三日ほどで着くでしょう。比較的大きな街で、それほど田舎というわけでもない。ですが街の人間は今、とても警戒心が強くなっておりましてね。
実際、芳也 のことを探るのは苦労しました。よそ者には何も話すなって、住人たちに箝口令が敷かれているようです。なにしろ慧焔都じゃ、最要注意人物だ。あまりの人気ぶりに、神官や役人たちが頭を抱えてるって話で」
「それほどまでに、安慰 は熱狂的な支持を得ているのですか?」
藍那の問いに、塁は肩をすくめた。
「すごいですよ。彼が行く先々で人が大勢集まって、厚い壁ができる程です。奇跡の力もたいそうなものですが、説教がうまく、言葉に説得力がある。おまけにこれほどのいい男ときちゃ、ご婦人たちが放っておかないでしょう。いまや慧焔都じゅうの女性が、彼に夢中だといってもいい」
「しかし……あまりに影響力が強すぎると、総督にとっては目障りだろうな。そうでなくても、あそこは未だに独立運動の火種が燻っている」
慈衛堵の言葉に塁 がうなずいた。
「そのとおり。現に慧焔都 の夷修羅人の多くが、彼に六星王荒弩 の再来を期待しているようです。奥尔罕に虐げられている自分たちを救い出し、再び千年王国へと導いてくれるのではないかと」
あの周辺で大規模な内乱が起これば、それは必ず染料の供給に響いてくる。慈衛堵の心中は穏やかではないだろう。
「総督の旗覇 も、本音じゃ、適当な罪状で牢獄送りにしたいところですがね。なにぶん、人気がありすぎるんですよ。安易に逮捕しちゃ、暴動が起きかねません。総督の任務を無事終えて、帝都に戻って出世したい彼にしちゃ、下手なゴタゴタは起きてほしくない。だから手を出しかねているのです」
嘉南州は帝国の直轄州である。そのため州知事ではなく、帝から勅命を受けた総督が収めた。代々、中央で手腕を認められた執政官や法務官がその座につき、十年の任期を終えると帝都に戻る。戻った後は、宰相の地位が約束されていた。
聞けば旗覇 は宦官で、宦官長から執政官へ上り詰めたやり手らしい。藍那はなんとなく、晴夫 と野明 のことを思い出す。
「それだけじゃない、慧焔都はいまかなり物騒でしてね。他にも髑髏党 と呼ばれている過激派が、あちこちで暴れまわっている。そっちを抑え込むのに必死なのも、安慰 に手を出せない、もう一つの理由です。私が滞在していたひと月の間に、警邏の人間が六人も殺されました」
「六人……」
藍那は呆然と呟いた。もともと剣呑な地域だが、それにしても多すぎる。藍那の反応に、塁も暗い表情になった。
「髑髏党 の党員は皆、優れた武術の使い手で、暗殺の名手という噂です。それ以外は一切が不明で、何人いるのか、党首が誰なのかも分からない。調べようかとも思ったのですが、危険を感じたので深入りは避けました」
「実に懸命な判断だ。それでいい」
慈衛堵の言葉に、塁は頭を下げた。
「ご配慮痛み入ります。髑髏党 のことは分かりませんでしたが、警邏に根気よく聞き込みを続けているうちに、面白いことがわかりましたよ。
実は、警邏の一人が、安慰 と同郷、為異喇 の出身でしてね。名前は出さないという条件で、実に興味深いことを教えてくれました。安慰こと芳也 には、双子の兄がいたそうです」
「双子の……」
「兄……?」
慈衛堵と藍那が同時に反応した。
「奥尔罕や華羅じゃ、双子はたいてい、生まれると同時に里子に出されます。ですが夷修羅人たちは、それほど双子を忌 まないそうです。慧焔都でも何度か見ましたな。芳也にも劉哉 という、瓜二つの兄がいたとか」
耳の奥で血の沸き立つ音を聞いた。心臓の鼓動が早い。いま直ぐ駆け出したい衝動をこらえ、藍那は辛抱強く、塁の言葉に耳を傾ける。
「劉哉 は近所でも評判の暴れ者だったそうですよ。穏やかな芳也とは大違いで、いつも棒切れを振り回しては、誰かと喧嘩ばかりしていた。先程行ったとおり、育ての父親は大工でしたが、家業を継ぐ気はとうていなく、この街を出たいと常日頃ぼやいていたらしい」
「育ての父親?」
「芳也と劉哉 の母親、真莉愛 は再婚で、彼らは連れ子でした。真莉愛と兄弟が街に来たのは、まだほんの幼い頃だったようですが」
塁はそこで軽く咳をした。銚子 を手に慈衛堵が立ち上がって、塁の茶器に茶を注ぐ。一礼し、塁は言葉を続けた。
「この話をしてくれた警邏の男も、幼いときから劉哉 にはさんざんいじめられたそうです。それなのにいじめた後はまるで別人のように優しくなって、自分がつけた傷を手当したり、涙を流して謝罪したり。
かと思えば、えらくたちの悪い悪戯をする。ずいぶん振り回されたけど、どうしてか、不思議と嫌いにはなれなかった――と言ってましたね」
「その……」
藍那は大きく息を吸って吐いた。
「その劉哉 は、今はどこに?」
「十二のときに家出して、それきり行方不明だとか」
「家出? 一人で、ですか?」
塁は首を横に振った。
「彼が家を出る少し前ですが、近くの長屋に画家が住み着きましてね。警邏の男も名前は覚えてないそうで。あちこちを旅して巡っていた流れ者ですが、その絵描き、なかなかの武芸の達人で、近所の少年たちにただで剣術を教えていた。劉哉 もそのうちの一人でしたが、剣筋が飛び抜けて優れていたようです」
ですが――と、塁は若干暗い表情になった。
「剣術を習うのは父親が反対だったようで、何度か画家のもとへ怒鳴り込んで、この街から出て行けと通告したらしい。
そしてある日、何の前触れもなく、画家はいなくなった。それと同時に、劉哉 も姿を消したそうです。今じゃ、生きてるか死んでるかまるで分からない」
「つまり……この姿絵と同じ男が、もう一人、どこかにいる」
藍那の言葉に、塁 が深くうなずいた。
そもそも密偵は人の懐に入り、必要な情報を得る。だから彼らの多くは親しみやすい容貌で、人当たりも良かった。口が達者なうえ、それほど美形というわけでもないのに女にもてる。
この塁も多分にもれず、密偵という正体を知らなければ、大店の番頭か芝居小屋の二番人気といったところだ。羅典でも北方の出身らしく、薄い金髪に緑色の目をしていた。
船から降りてまっすぐに屋敷へと向かい、着いたのは昼過ぎだ。藍那が客間へ顔を出したときは、遅めの昼食を済ませたところで、のんびりと薄荷茶を喫していた。
円卓にはすでに慈衛堵がついている。室内には三人だけで、使用人も外へ出されていた。
「ああ、これは。あなたが藍那さんですね」
立ち上がり、拱手一礼してにっこりと笑う。
「お噂はかねがね、伺っております。私の知らせがお役に立てるといいのですが」
「ありがとう。私にお構いなく、どうぞお掛けになってください」
「恐縮です」
再び着席した塁をそれとなく観察した。顔も身体も丸みを帯びているが、それはあくまで人懐こさを演じるための衣装に過ぎない。密偵というからには、なんらかの武術も習得しているはずだ。しかし、巧みに隠されたその実力がどれほどのものか、推し量ることは難しい。
慈衛堵が薄荷茶を器に注ぎ、藍那にすすめる。
「
藍那が無言でうなずくと、塁は口元を手巾で拭い、話し始めた。
「では報告に入りましょうか。まずは例の
長衣の袖口から、手品のような手付きで細く丸めた紙を引き出した。
「こちらをお検めください」
差し出されたものを慈衛堵が受け取る。軽く糊で閉じられていた部分を慎重に剥がし、開くと、彼の顔色が変わった。
「なんてことだ……やはり……」
慈衛堵が卓上に広げたそれを、藍那もまた眺めた。
薄茶の紙に筆で描かれたその人物は、まごうことなく《彼》そのもの。姿絵には目と髪にだけ、彩色が施されている。赤みがかった栗色の髪と、紫の双眸。これが《彼》でなくて、一体誰だろうか。
「紫園……」
気がつけば、そう呟いていた。ふと、濃厚な血の匂いを嗅いだ気がして、その瞬間、記憶の底から過去が鮮明によみがえる。
血しぶきを上げながら倒れた、
そして――。
死を願うほどの苦痛と屈辱の時間。
唇を歪め、《アレ》が笑った――。
「藍那さん、しっかり」
慈衛堵の声がずいぶん遠かった。耳鳴りがひどく、おまけに胸が締め付けられて息が苦しい。全身から汗が吹き出し、こみ上げてくる嘔吐を必死にこらえた。
「塁、水を」
卓に倒れかけたところを、慈衛堵が抱えて起こした。唇に硝子杯があてられ、檸檬水が流し込まれる。少しむせてから、飲み干した。
「ありがとうございます。もう大丈夫です」
大きく息を吐いて目を閉じ、開いてから姿勢を正した。塁へ頭を下げ、
「申し訳ありません、見苦しいところをお目にかけました」
と詫びる。
塁は手のひらを藍那へと向け、
「いいえ、どうぞお気兼ねなく。では彼は、間違いなくあなたが探されていた男なのですね」
「はい……。理由は言えませんが」
「そうですか。だとすればいささか奇妙な、残念なご報告になるかもしれません」
藍那が怪訝な表情で塁を見返した。
「それは、一体どういうことですか」
「
「……大工? まさか、でも……」
困惑がそのまま言葉に出た。まさか、紫園と同じ人間が二人いるというのか?
「本当の名前は
視線を転じれば、慈衛堵も釈然としない表情をしている。たぶん藍那自身も同じなのだろう。まだ塁の言った事実をうまく飲み込めなかった。
重い空気をはらうように、薄荷茶で喉を潤した塁が話を続けた。
「
実際、
「それほどまでに、
藍那の問いに、塁は肩をすくめた。
「すごいですよ。彼が行く先々で人が大勢集まって、厚い壁ができる程です。奇跡の力もたいそうなものですが、説教がうまく、言葉に説得力がある。おまけにこれほどのいい男ときちゃ、ご婦人たちが放っておかないでしょう。いまや慧焔都じゅうの女性が、彼に夢中だといってもいい」
「しかし……あまりに影響力が強すぎると、総督にとっては目障りだろうな。そうでなくても、あそこは未だに独立運動の火種が燻っている」
慈衛堵の言葉に
「そのとおり。現に
あの周辺で大規模な内乱が起これば、それは必ず染料の供給に響いてくる。慈衛堵の心中は穏やかではないだろう。
「総督の
嘉南州は帝国の直轄州である。そのため州知事ではなく、帝から勅命を受けた総督が収めた。代々、中央で手腕を認められた執政官や法務官がその座につき、十年の任期を終えると帝都に戻る。戻った後は、宰相の地位が約束されていた。
聞けば
「それだけじゃない、慧焔都はいまかなり物騒でしてね。他にも
「六人……」
藍那は呆然と呟いた。もともと剣呑な地域だが、それにしても多すぎる。藍那の反応に、塁も暗い表情になった。
「
「実に懸命な判断だ。それでいい」
慈衛堵の言葉に、塁は頭を下げた。
「ご配慮痛み入ります。
実は、警邏の一人が、
「双子の……」
「兄……?」
慈衛堵と藍那が同時に反応した。
「奥尔罕や華羅じゃ、双子はたいてい、生まれると同時に里子に出されます。ですが夷修羅人たちは、それほど双子を
耳の奥で血の沸き立つ音を聞いた。心臓の鼓動が早い。いま直ぐ駆け出したい衝動をこらえ、藍那は辛抱強く、塁の言葉に耳を傾ける。
「
「育ての父親?」
「芳也と
塁はそこで軽く咳をした。
「この話をしてくれた警邏の男も、幼いときから
かと思えば、えらくたちの悪い悪戯をする。ずいぶん振り回されたけど、どうしてか、不思議と嫌いにはなれなかった――と言ってましたね」
「その……」
藍那は大きく息を吸って吐いた。
「その
「十二のときに家出して、それきり行方不明だとか」
「家出? 一人で、ですか?」
塁は首を横に振った。
「彼が家を出る少し前ですが、近くの長屋に画家が住み着きましてね。警邏の男も名前は覚えてないそうで。あちこちを旅して巡っていた流れ者ですが、その絵描き、なかなかの武芸の達人で、近所の少年たちにただで剣術を教えていた。
ですが――と、塁は若干暗い表情になった。
「剣術を習うのは父親が反対だったようで、何度か画家のもとへ怒鳴り込んで、この街から出て行けと通告したらしい。
そしてある日、何の前触れもなく、画家はいなくなった。それと同時に、
「つまり……この姿絵と同じ男が、もう一人、どこかにいる」
藍那の言葉に、