第5話 秧真(ナエマ)のお願い
文字数 4,362文字
そこには呆然と目を見開き、立ち尽くす紫園の姿があった。顔色が今にも倒れそうなほど青白い。それなのに、こちらを見据えた二つの目だけが異様な輝きを帯びて、藍那の背中に冷たいものが奔 った。
(この男、いつの間に私の背後に?)
驚愕する藍那の眼前で、土気色の唇を震わせる。
「ぅあ……つ、つ、つ……」
「あなた、話せるの?」
振り絞るような言葉に問いかけた。とたんにただならぬ気配が消えたかと思うと、突如、がくりと紫園が膝から崩れ落ちる。
四つん這いの格好から、やがてゆっくりと伏せていた顔を上げた。まるで熱に浮かされたような、胡乱 な視線をさまよわせる。そして這いつくばりながら
「つ、つる……ぎ……」
口走ると、藍那の足首を意外な強さでつかんだ。
「あ……ああ……」
呻きながらもう片方の手を天星羅 へ伸ばす。
ふいに奇妙な力がその手から放たれ、天星羅を引き寄せるのを感じた。いや天星羅が自らその手を引き寄せたというべきか。
抗う隙もなく、気づけば鞘ごときつく彼の手に握られていた。
「つるぎ……つる……」
「つるぎって、この剣がどうかしたの?」
藍那が尋ねると、握った鞘がするりと抜ける。露わになった白刃に刻まれるのは北斗と一匹の龍。紫園はいっそう見開いた眼 を寄せ、震える指先を触れんばかりに近づけた。
「……ぁ……、あ……あす……と……ら……」
苦しげにそう吐き出した紫園の襟元を、藍那はとっさに掴んでいた。
なぜこの男がその名を知っている? 母と自分しか知らぬはずのこの剣の銘を。
お前はいったい何者だ――そう尋ねようと紫の瞳を覗き込む。
幼い頃暮らした遡 州では、紫の瞳は神の目とも予言者の印とも言われていた。たしかにこうして目の当たりにすると、まるで心を見透かされているような気分になる。
のまれるな。神の目など迷信だ――そう自分に言い聞かせ、藍那は口を開いた。
「お前は、いったい……」
「せんせいっ!」
背後で柴門 の声が聞こえるや否や、ずかずかと近づいた彼の太腕が藍那から紫園を引きはがす。
「こいつっ、ふてえ野郎だ! 先生のお腰のものに気安く近寄りやがって!」
お腰のものとはまたたいそう古風な言い方だが、なぜか柴門はこういう表現を好む。一方紫園といえば、柴門に地べたに転がされると身体を折り曲げ、両手で顔を覆った。
その哀れというよりほかない姿に、藍那は力が抜けてしまう。さきほど感じた得体のしれぬ気配は、単なる思い過ごしだったのではないか。
「いいのよ、柴門。それよりこの騒ぎは――」
「その件で旦那さまがお呼びでございますよ」
「分かった。行こう」
振り向き肩ごしに紫園を見下ろす。目があい、何かを訴えるような視線を振り払って歩きだした。裏口から屋内 へと入り、一階にある杷萬 の書斎へと赴 く。
楼主は椅子にどっかりと腰掛け、卓上の水煙管をのんびりと吸っていた。藍那を一瞥すると向かいの長椅子を指さす。
「まったくどうもこうも、武人たるものが嘆かわしいものです」
薄荷の匂いのする息をさせ、杷萬は苦々しく嘆いてみせた。
「どうもやり方が手慣れてます。おそらく田舎ではあのように威張り散らし、強さをかさに遊び代を踏み倒していたのでしょうな。しかし、この帝のお膝元で同じ手が使えると思ったら大間違いですよ」
「彼らをこれからどうなさるおつもりですか」
「役人に突き出すことも出来ますが、それではこちらの損になる。しばらくはただ働きさせて、きっちりと身体で払ってもらいますよ」
「訛りから、どうやら北から来たようですね」
「最近どうもああいった手合いが多いですよ。ちっとばかり腕に覚えのある田舎武芸者が、一旗揚げようと帝都に押しかけてくる。どこぞの武芸道場の師範代にでも収まってくれりゃまだましなんですがね。結局食い詰めて、ヤクザの用心棒が関の山でさ」
藍那は苦笑した。自分も田舎からこの帝都に流れてきた武芸者の一人である。もし縁あってこの金亀楼に雇われていなければ、どうなっていたのかさっぱり分からぬ。
「お父さま、入ります」
扉が開くと秧真 が盆にのせた茶道具を手に入ってきた。藍那を見るなり、
「先生、相変わらず見事なお手並みでしたね」
と目を輝かせて称賛する。
楼主の一人娘である秧真は、藍那より三つ下の十五歳。そもそも藍那がこの金亀楼に世話になるきっかけというのが、一年半前、街でやくざものに絡まれていた秧真と侍女の節 を助けたことだった。
四・五人はいたであろう屈強な男たちを、剣もぬかずに徒手であっという間に蹴散らした。その勇姿がよほど眩しかったと見え、礼がしたいと藍那をこの金亀楼へと引っ張ってきたのである。
そのとき藍那はようやく帝都にたどり着いたばかりであった。これから職を探そうとしていた矢先で、事情を聞いた杷萬が用心棒の話を持ちかけた。
聞けば、以前雇っていた用心棒が娼妓の一人と駆け落ちをしてしまった。それ以来、女剣客で腕利きを探しているとのこと。
互いの需要が一致し、こうして藍那は金亀楼の用心棒へと収まった。
秧真にはそれ以来、姉のように慕われている。時折、私にも剣術を教えてほしいとねだられるが、さすがにそれは却下した。剣を持つには秧真の手はきれいすぎるし、柔らかすぎる。
「すごかったですわ。今でも自分の目が信じられないくらいです」
「そんな。ほんの簡単な套路 の応用ですよ」
「ねえお父さま、お父さまからも先生に仰って。わたし、先生から剣を習いたいわ。わたしも先生みたいにかっこ良くなりたいの」
愛娘のわがままなお願いに、さすがの杷萬も困惑顔になった。ヒゲに覆われた頬を撫でつけ、どう答えたものかと迷っている。ここで剣など女のやるもんじゃないと一喝すれば、藍那の立場がないからだ。
藍那は苦笑し、出された茶を一口すすって杷萬に助け舟を出した。
「お嬢さま、女が剣を遣うということは、人並みの女の幸せを捨てるということです。私をご覧になっても分かるでしょう。この歳になり、嫁のもらい手一つないのですよ」
「そんなの別にいいわ。結婚だけが幸せでもないでしょう。先生はご自分の腕一つで身を立てて、わたしはそういうのに憧れるのです」
「秧真、生意気なことを言うもんじゃない。お前は世間を知らないからそういうことが言えるんだ。女が一人で生きていくのは並大抵のことじゃないんだぞ。先生はご自分でたいそう苦労なさっているから、お前に同じような苦労をさせたくないと、そう仰っているのだ」
「お父さまこそ、そうやっていつまでもわたしを子ども扱いなさる。そのくせ二言目には早く大人になれと仰って、矛盾しているわ」
確かにそうだと藍那は思わず笑ってしまった。
十五といえば、いい家の娘なら婚約する歳である。この帝国では十五で婚約し、二年の花嫁修業を経て十七歳で結婚するのが慣例 なのだ。
つまり十五歳は子どもから大人へと変わる入り口でもあるのだが、杷萬は一人娘を手元に置きたいのか、まだ婿を探そうとしていない。そしていつまでも娘を小さな子ども扱いしたがっていることも、周りの誰もが承知していることだった。
「お前はいつからそんな――」
と言いかけた父親を手で制止し、藍那が口を開く。
「まあでも、お嬢さまのその心意気は買いましょう。ですが剣の修業は厳しいですよ。それに耐えられますか?」
「耐えられますわ。先生のお傍で強くなれるのなら、頑張ります」
「分かりました。ではまずは適性検査です。両手を見せていただけますか」
「手、ですか?」
「はい。剣を遣うものには適性があります。それが一番よく現われるのが手なのです。ちゃんと遣えるかどうか手を見て判断しますので、それでだめなら諦めて下さい」
「は、はい……」
隣席に坐した秧真の両手をとる。香油を手のひらにすりこんだのだろう、薔薇のいい香りがした。差し出されたそれはふっくらと柔らかく、象牙の拵えもののように白くシミ一つ浮いていない。
生まれてこのかた、水仕事や力仕事とは無縁なものだけが持つ美しさだ。
神妙な顔つきで手のひらや指さきに視線を這(は)わせ、じっくりと検分する態を装ってから言った。
「ふむ、指の長さはそこそこいいのですが、やはり腱の強度が足りませんね」
「ケンのキョウド?」
「さよう。腱とは指を動かす大切な部分です。この部分の強度は、生まれつき決っておりまして。ここが弱いと剣を握る力が弱く、しかもすぐ怪我をして指を痛めてしまいます。お嬢さまの手は残念ながら、武人の手ではありません」
「そんなあ」
「お嬢さま、私が剣を遣うのは、自分で自分の身を守っていかなければ生きていけなかったからです。ですが、お嬢さまのお身はこの私が守ります。お嬢さまが剣を遣う必要などありません。私がお嬢さまの剣なのですから。それではご不満ですか?」
その言葉に秧真の膨らませた頬が緩む。藍那に顔をぐいと寄せ、きらきらと期待を孕んだ目でじっと見つめた。
「本当、先生? ずっとわたしのそばに居てくれる?」
「ええ。でもお嬢さまがお嫁さんに行くまでですが。私はあくまでここの用心棒ですので」
「じゃあ、先生をお父さまからお嫁入りの道具としてもらいうけるわ。だから、お嫁さんになるときは一緒に来て下さい」
「え、ええ?」
どう答えたら良いものかと、ちらと杷萬へ視線をやった。父親はどうにか娘をまるめ込んでくれと藍那に目で頼みこむ。
やれやれ。自分の提案にはしゃぐ娘の肩にそっと手を置き、言った。
「そうですね。ただそれはお嬢さまのお婿さんの許可もいただかなければ。もしお婿さんになる方がいいと仰れば、そのようにしましょうか」
「ほんとう?」
秧真が両腕を藍那の首にまわし、勢いよく抱きつく。
「先生、ぜったいぜったい約束ですからね!」
甘えた声でそう言い、藍那の頬に頬を擦りよせてくる。十五歳といっても秧真は他の娘より子どもっぽい。まるで小さな子どもがするように、藍那にべったりとくっついてくる。
「ほらもういいだろう。奥 へ下がりなさい」
「はあい」
単衣の裾を軽やかにひるがえし、秧真は部屋を下がる。花の残り香が漂うなか、水煙管の吸い口を脇へと押しやり、杷萬は腕を組んだ。
「で、あの男のことですがね。先生はどう思います?」
(この男、いつの間に私の背後に?)
驚愕する藍那の眼前で、土気色の唇を震わせる。
「ぅあ……つ、つ、つ……」
「あなた、話せるの?」
振り絞るような言葉に問いかけた。とたんにただならぬ気配が消えたかと思うと、突如、がくりと紫園が膝から崩れ落ちる。
四つん這いの格好から、やがてゆっくりと伏せていた顔を上げた。まるで熱に浮かされたような、
「つ、つる……ぎ……」
口走ると、藍那の足首を意外な強さでつかんだ。
「あ……ああ……」
呻きながらもう片方の手を
ふいに奇妙な力がその手から放たれ、天星羅を引き寄せるのを感じた。いや天星羅が自らその手を引き寄せたというべきか。
抗う隙もなく、気づけば鞘ごときつく彼の手に握られていた。
「つるぎ……つる……」
「つるぎって、この剣がどうかしたの?」
藍那が尋ねると、握った鞘がするりと抜ける。露わになった白刃に刻まれるのは北斗と一匹の龍。紫園はいっそう見開いた
「……ぁ……、あ……あす……と……ら……」
苦しげにそう吐き出した紫園の襟元を、藍那はとっさに掴んでいた。
なぜこの男がその名を知っている? 母と自分しか知らぬはずのこの剣の銘を。
お前はいったい何者だ――そう尋ねようと紫の瞳を覗き込む。
幼い頃暮らした
のまれるな。神の目など迷信だ――そう自分に言い聞かせ、藍那は口を開いた。
「お前は、いったい……」
「せんせいっ!」
背後で
「こいつっ、ふてえ野郎だ! 先生のお腰のものに気安く近寄りやがって!」
お腰のものとはまたたいそう古風な言い方だが、なぜか柴門はこういう表現を好む。一方紫園といえば、柴門に地べたに転がされると身体を折り曲げ、両手で顔を覆った。
その哀れというよりほかない姿に、藍那は力が抜けてしまう。さきほど感じた得体のしれぬ気配は、単なる思い過ごしだったのではないか。
「いいのよ、柴門。それよりこの騒ぎは――」
「その件で旦那さまがお呼びでございますよ」
「分かった。行こう」
振り向き肩ごしに紫園を見下ろす。目があい、何かを訴えるような視線を振り払って歩きだした。裏口から
楼主は椅子にどっかりと腰掛け、卓上の水煙管をのんびりと吸っていた。藍那を一瞥すると向かいの長椅子を指さす。
「まったくどうもこうも、武人たるものが嘆かわしいものです」
薄荷の匂いのする息をさせ、杷萬は苦々しく嘆いてみせた。
「どうもやり方が手慣れてます。おそらく田舎ではあのように威張り散らし、強さをかさに遊び代を踏み倒していたのでしょうな。しかし、この帝のお膝元で同じ手が使えると思ったら大間違いですよ」
「彼らをこれからどうなさるおつもりですか」
「役人に突き出すことも出来ますが、それではこちらの損になる。しばらくはただ働きさせて、きっちりと身体で払ってもらいますよ」
「訛りから、どうやら北から来たようですね」
「最近どうもああいった手合いが多いですよ。ちっとばかり腕に覚えのある田舎武芸者が、一旗揚げようと帝都に押しかけてくる。どこぞの武芸道場の師範代にでも収まってくれりゃまだましなんですがね。結局食い詰めて、ヤクザの用心棒が関の山でさ」
藍那は苦笑した。自分も田舎からこの帝都に流れてきた武芸者の一人である。もし縁あってこの金亀楼に雇われていなければ、どうなっていたのかさっぱり分からぬ。
「お父さま、入ります」
扉が開くと
「先生、相変わらず見事なお手並みでしたね」
と目を輝かせて称賛する。
楼主の一人娘である秧真は、藍那より三つ下の十五歳。そもそも藍那がこの金亀楼に世話になるきっかけというのが、一年半前、街でやくざものに絡まれていた秧真と侍女の
四・五人はいたであろう屈強な男たちを、剣もぬかずに徒手であっという間に蹴散らした。その勇姿がよほど眩しかったと見え、礼がしたいと藍那をこの金亀楼へと引っ張ってきたのである。
そのとき藍那はようやく帝都にたどり着いたばかりであった。これから職を探そうとしていた矢先で、事情を聞いた杷萬が用心棒の話を持ちかけた。
聞けば、以前雇っていた用心棒が娼妓の一人と駆け落ちをしてしまった。それ以来、女剣客で腕利きを探しているとのこと。
互いの需要が一致し、こうして藍那は金亀楼の用心棒へと収まった。
秧真にはそれ以来、姉のように慕われている。時折、私にも剣術を教えてほしいとねだられるが、さすがにそれは却下した。剣を持つには秧真の手はきれいすぎるし、柔らかすぎる。
「すごかったですわ。今でも自分の目が信じられないくらいです」
「そんな。ほんの簡単な
「ねえお父さま、お父さまからも先生に仰って。わたし、先生から剣を習いたいわ。わたしも先生みたいにかっこ良くなりたいの」
愛娘のわがままなお願いに、さすがの杷萬も困惑顔になった。ヒゲに覆われた頬を撫でつけ、どう答えたものかと迷っている。ここで剣など女のやるもんじゃないと一喝すれば、藍那の立場がないからだ。
藍那は苦笑し、出された茶を一口すすって杷萬に助け舟を出した。
「お嬢さま、女が剣を遣うということは、人並みの女の幸せを捨てるということです。私をご覧になっても分かるでしょう。この歳になり、嫁のもらい手一つないのですよ」
「そんなの別にいいわ。結婚だけが幸せでもないでしょう。先生はご自分の腕一つで身を立てて、わたしはそういうのに憧れるのです」
「秧真、生意気なことを言うもんじゃない。お前は世間を知らないからそういうことが言えるんだ。女が一人で生きていくのは並大抵のことじゃないんだぞ。先生はご自分でたいそう苦労なさっているから、お前に同じような苦労をさせたくないと、そう仰っているのだ」
「お父さまこそ、そうやっていつまでもわたしを子ども扱いなさる。そのくせ二言目には早く大人になれと仰って、矛盾しているわ」
確かにそうだと藍那は思わず笑ってしまった。
十五といえば、いい家の娘なら婚約する歳である。この帝国では十五で婚約し、二年の花嫁修業を経て十七歳で結婚するのが
つまり十五歳は子どもから大人へと変わる入り口でもあるのだが、杷萬は一人娘を手元に置きたいのか、まだ婿を探そうとしていない。そしていつまでも娘を小さな子ども扱いしたがっていることも、周りの誰もが承知していることだった。
「お前はいつからそんな――」
と言いかけた父親を手で制止し、藍那が口を開く。
「まあでも、お嬢さまのその心意気は買いましょう。ですが剣の修業は厳しいですよ。それに耐えられますか?」
「耐えられますわ。先生のお傍で強くなれるのなら、頑張ります」
「分かりました。ではまずは適性検査です。両手を見せていただけますか」
「手、ですか?」
「はい。剣を遣うものには適性があります。それが一番よく現われるのが手なのです。ちゃんと遣えるかどうか手を見て判断しますので、それでだめなら諦めて下さい」
「は、はい……」
隣席に坐した秧真の両手をとる。香油を手のひらにすりこんだのだろう、薔薇のいい香りがした。差し出されたそれはふっくらと柔らかく、象牙の拵えもののように白くシミ一つ浮いていない。
生まれてこのかた、水仕事や力仕事とは無縁なものだけが持つ美しさだ。
神妙な顔つきで手のひらや指さきに視線を這(は)わせ、じっくりと検分する態を装ってから言った。
「ふむ、指の長さはそこそこいいのですが、やはり腱の強度が足りませんね」
「ケンのキョウド?」
「さよう。腱とは指を動かす大切な部分です。この部分の強度は、生まれつき決っておりまして。ここが弱いと剣を握る力が弱く、しかもすぐ怪我をして指を痛めてしまいます。お嬢さまの手は残念ながら、武人の手ではありません」
「そんなあ」
「お嬢さま、私が剣を遣うのは、自分で自分の身を守っていかなければ生きていけなかったからです。ですが、お嬢さまのお身はこの私が守ります。お嬢さまが剣を遣う必要などありません。私がお嬢さまの剣なのですから。それではご不満ですか?」
その言葉に秧真の膨らませた頬が緩む。藍那に顔をぐいと寄せ、きらきらと期待を孕んだ目でじっと見つめた。
「本当、先生? ずっとわたしのそばに居てくれる?」
「ええ。でもお嬢さまがお嫁さんに行くまでですが。私はあくまでここの用心棒ですので」
「じゃあ、先生をお父さまからお嫁入りの道具としてもらいうけるわ。だから、お嫁さんになるときは一緒に来て下さい」
「え、ええ?」
どう答えたら良いものかと、ちらと杷萬へ視線をやった。父親はどうにか娘をまるめ込んでくれと藍那に目で頼みこむ。
やれやれ。自分の提案にはしゃぐ娘の肩にそっと手を置き、言った。
「そうですね。ただそれはお嬢さまのお婿さんの許可もいただかなければ。もしお婿さんになる方がいいと仰れば、そのようにしましょうか」
「ほんとう?」
秧真が両腕を藍那の首にまわし、勢いよく抱きつく。
「先生、ぜったいぜったい約束ですからね!」
甘えた声でそう言い、藍那の頬に頬を擦りよせてくる。十五歳といっても秧真は他の娘より子どもっぽい。まるで小さな子どもがするように、藍那にべったりとくっついてくる。
「ほらもういいだろう。
「はあい」
単衣の裾を軽やかにひるがえし、秧真は部屋を下がる。花の残り香が漂うなか、水煙管の吸い口を脇へと押しやり、杷萬は腕を組んだ。
「で、あの男のことですがね。先生はどう思います?」