第18話 出奔(上)

文字数 3,419文字

 母の葬式はばあやの圓奼(マルタ)が取り仕切ってくれた。母は遺書をのこさなかったが、生前圓奼に、もし何かあったときは喇摩(ラマ)教のやり方で式を挙げるようにと言っていたらしい。
 近くの寺から僧侶を呼んで経を上げてもらい、一晩過ごした後、焼き場に行って亡骸を焼いてもらう。たったそれだけのことだったが、母の死を受け入れられなかった璃凜にその手はずを整えるのは、とうてい無理なことであった。

 焼き場で母の身体に薪が積まれ、炎に包まれていくのを見ていた。焼け残った骨を拾い集めているさなかも、なにか悪い夢を見ているような心持ちで、これからなさねばならぬさまざまな雑事のことも頭に浮かばない。

 葬儀に出たのは璃凛と圓奼と麻里の三人だけ。葬式の金は母が少しずつためていた。服喪用の白い長衣は圓奼がどこかから用意してくれた。もとより弔問に訪れる近所の者もいない。
 葬儀から二日ほどは泣き暮らしていたが、その涙が涸れた頃、これから一人でどうしようかという現実的な問題にようやく考えが及んだ。

 今住んでいる屋敷は母が《あの人》に囲われて住まわせてもらっていた。
 つまり母が死んだ以上、璃凜はここを追い出される可能性が高く、そればかりか身一つで追い出されることも考えられる。
 母が身につけていた高価な着物、かんざし、耳飾り、化粧道具、香道具。それらはすべて《あの人》の所有物で、璃凜には受け継がれない。

 ――でもこれだけは。

 寝台のなか、冷たくなっていた母の傍らに、布でくるまれておかれていた一振りの剣。
 宮栄(クヴァ)の寺を出てから母娘二人、あちこちをさまよったが、母の抱えていたわずかな荷のなかに、いつも布でくるまれた細長いなにかがあった。
 きつく紐をかけてあったし、幼い璃凜はけっして触れることを許されず、中身がなにかも知らなかった。それについて母になにごとか訊ねたと思うのだが、なんと答えられたかもよく覚えていない。

 初めて母の套路を目にしたあの月の夜、母の右手に握られていた剣。それが例の布包みと結びついたのは、母に剣を教わってしばらく()てからのことだ。
 璃凜が十四になった日の夜、その銘を母から告げられた。
 天星羅(アストラ)――その名を口にした母はさらにこう続けた。

 ――いずれ、これはお前のものになる、そう決まっているんだ。

 母の部屋にしつらえられた供養壇に、遺骨とともにそれは供えられていた。
 霊前に手を合わせてから鞘を抜く。窓から差し込む真昼の日射しを受け、剣身に刻まれた北斗と踊る龍が輝きを放つ。握りしめた柄はおそらく樫材、剣首と剣格にはいかにも女物らしい繊細な草木模様が施されていた。
 室内の冷気を吸い込んだ柄は冷たいが、芯には母のぬくもりを秘めている。握りしめていると、母との鍛錬のことが走馬灯のように璃凜の脳内を駈けぬけた。

 もしかしたらこの剣の銘を告げたあの夜に――いや、璃凜が稽古をねだったあの始まりの夜から、すでに母は死ぬことを決めていたのかもしれない。そう考えるとまた涙がこみ上げてくる。
 袖で涙を拭い剣を鞘におさめると、見計らったように麻里がやってきた。

「璃凜さま、――さまがいらっしゃいました」

 と《あの人》の(おとな)いを告げる。葬式にも顔を出さなかったのにと思うが、この屋敷の主である以上追い返すわけにもいかない。供養壇をしつらえてくれたことにも礼を述べなくてはならなかった。

「お通しして」

 そう告げた後に圓奼を呼ぶよう命じるが、圓奼は用事があって今外に出ているらしい。麻里が出て行くと、ほどなく廊下をずかずかと歩く足音が近づいて《あの人》が勢いよく扉を開けた。

「お前は外に出ていなさい」

 背後に控えていた麻里へ告げてから後ろ手に扉を閉める。供養壇に線香を上げ、形ばかり手を合わせると、傍の卓に差し向かいで璃凜を座らせた。薄い唇に笑みをたたえているが目の奥の光りは冷たい。昔から璃凜はこの人が苦手だった。
 明日にでもここを出て行けと言われるのだろうか――そう考えると脇と背中に冷たい汗が滲んでくる。そんな璃凜に

「お前も大変だったな」

《あの人》が言った。今まで聞いたこともないような猫なで声である。

「さぞや驚いただろう、本当に気の毒なことだ。あれは余計なことを言わないし、自分から何かをねだりもしない、いい女だった。しかしこんなことになるなら、もっといろいろ贅沢をさせてやるのだったな」

 そこで言葉を切った《あの人》にかろうじて頷いた。その同意に満足したのか歯を見せて笑い、続ける。

「それにしても母親がいなくてお前もさぞ不安だろう。ひとつ訊くが、お前はいくつだね」
「十四です……」

 蚊がなくような声で璃凜は答えた。はやく圓奼が帰ってきてくれないかとそればかり考え、椅子に座った身体を縮こまらせる。近親者でもない男性と部屋で二人きりになるなど礼儀としてあり得ない。せめて麻里がいてくれたら――。

「十四か、ほう、もうそんなになったのか。お前が初めてこの家に来たときは、まだ六つだったのに。あっという間だったな。普通ならそろそろ結婚相手を見つけて婚約する歳だが、それはちゃんとしたおうちのお嬢さんの話だ。残念だが、お前のような、父親の顔も知らない娘をもらってくれる家はないと言っていい」

 だからここを出て行けというのか――。
 回りくどい言い方に鼓動が早くなり、膝上のこぶしを固く握りしめる。そんな璃凜を正面に見据えた《あの人》はにやりと口元をゆがめて言った。

「私はお前の母親の面倒を見ていたが、娘であるお前の面倒までみる義理はない。放り出すこともできるが、それではあまりにもお前が不憫だ。だからよく考えるんだ。母親と同じようにお前も私の世話になれば、すべては丸くおさまる」

 一瞬なにを言われているのかわからず、呆けたように《あの人》を見つめた。璃凜のうぶな反応がおかしいのか喉の奥でひくく笑い、

「驚くことはない。お前くらいの年頃の妾を囲っている男などいくらでもいるさ。あの女の娘だけあって器量もなかなかのものだ。着飾りがいがある。お前が望めば好きなだけ贅沢をさせてやる。ん? 悪い話じゃないだろう」

 つまり妾になれと言っているのだ――。
 ようやくそれを理解したとき、羞恥と屈辱に全身の血が逆流する。
 にやにやと笑う男をにらみつけ、ありったけの言葉でなじってやりたかった。それなのに頭のなかは真っ白で、うまく考えがまとまらない。はやく圓奼(マルタ)に帰ってきて欲しかった。どうして麻里はいつまでたってもお茶を運んでこないのだろう。

 やがて男がぎしりと音をたてて椅子から立ち上がる。慎重な足取りで近寄り、璃凜の横に立って肩をつかむと強引に上体を彼の方へとむかせた。
 大きな手が璃凜の細いあごをつかんだ。親指が這うように唇をなぞる。見下ろす視線がねっとりと璃凜の全身を舐めていき、やがて男の顔が迫って生臭い息が鼻先へとかかった。

「いやっ!」

 叫ぶと同時に右の拍掌を男の顔面へと打ち込んでいた。蟀谷(こめかみ)を狙うつもりがわずかにそれ、掌が頬にめり込む。奴が声を上げてのけぞる隙に椅子を蹴ってすかさず扉へ駆け寄った。
 観音開きの把手に手をかけ引く。しかしどれだけ引いても動かぬ扉に、ようやく外から鍵をかけられたのだと思い至り麻里の顔が脳裏にひらめいた。

 裏切られたのだ――、いや、この男に売られたのだ。

 絶望と憤怒が腹の底からこみあげた。扉を背にする格好で振り向くと、両膝をつき、口端からあふれ出る血を袖で拭った男と目が合った。
 憎悪にあふれた双方の視線が絡み合う。立ち上がった男が拳を眼前で交差させ、ゆっくりと開いて構えた。半身に右手は俯掌(ふしょう)、左手は嘴鶴手(しかくしゅ)

「さすがに、あの女の血を引くだけのことはあるか」

 切れた口端をゆがめ、凶暴な光をたたえた目を細める。
 璃凜は抱掌の構えをとり、男の背後の供養壇を視界の隅にとらえた。こんな男の思い通りになどならない。霊前に供えた天星羅だって渡すものか。
 沈黙とともに探り合いの時間が続いた。璃凜の荒い息づかいだけが冷たい部屋の空気をかき乱す。やがて――。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

紫園ㅤ

記憶を失くした青年。奥尔罕オルハンの帝都阿耶アヤから東にある港街、泉李イズミルの大火で生き残っていたところを助けられ、金亀楼コンキろうに下男として引き取られる。読み書きができ、剣も使える謎多き人物。赤みがかった栗色の髪に、珍しい紫色の瞳の持ち主。

璃凛リリン藍那アイナ
母から伝えられた双極剣の遣い手であり、女ながら用心棒で生計を立てている。現在は帝都随一の色街、紅籠ヴェロ街の娼館、金亀楼で働くが、訳あって母の名前である藍那アイナを名乗っている。十八歳。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み