第57話 とくべつな時間
文字数 4,333文字
愛紗と上良に激励されながら、女部屋を辞した。中庭まで見送ってくれたのは由真で、やはり祭り用のよそゆきに着替えている。牡丹色の長衣は、由真によく似合っていた。
きけば、これから上良や他の侍女たちと、祭り見物に行くらしい。
「そういえば、お嬢さまは?」
一昨日からこっちに居るはずだが、姿を見なかった。
「お嬢さまは今朝から気分が優れないとかで、お部屋でお休みになっていらっしゃるそうです。明日は先生のお見送りがありますから、今夜のうちに金亀楼へお戻りになるはずですけど」
「そう……」
明日、藍那は帝都を出立する。準備はすでに整えていて、路銀は明日、杷萬から受け取ることになっていた。
ふと秧真のことが急に心配になってくる。
年齢 より子どもじみたところがある彼女のこと。急にへそを曲げ、藍那を旅立たせないよう、龍三辰 を隠したままにする――そんなことを考えてやしまいか。
(まさか、さすがのお嬢さまでも、そこまではしないと思うけど。それに、お嬢さまも言っていたじゃない。出立の時まで、自分の役目を果たさせてほしいって……)
自分に言い聞かせ、頭 を振る。そんな藍那に由真が心配そうに訊ねた。
「先生、怒ってますか? 勝手なことして」
「今さらどうでもいいわよ。それに、約束は約束だものね」
「でも先生、私、あのときは本気で怒ってたんですから」
由真は少し口をとがらせた。
「本当はね、紫園さんはお祭りの初日に私を誘ってくれたんです。でもすぐわかりました。ああ、先生に私を誘うよう言われたんだなって。馬鹿にしてるって、すごく腹立たしくて――。だから先生に仕返ししてやろうって考えたんです」
由真はしてやったりと笑う。牡丹色をまとった姿は可憐そのもので、咲き初めた大輪を思わせた。
大輪は人差し指を顔の横で立て、真面目くさって言う。
「だから……ちゃんと、ご自分の気持ちと向き合ってくださいね」
「由真……」
たしかに、この娘はもう子どもではないのだな――藍那はしみじみと思った。これからこの聡 い娘にいろいろ教わることもあるのだろう。今となっては、実の妹のように愛おしい存在だった。
「ありがとう、由真」
そう言って細い肩を抱いた。
「旅から戻ったら、お休みをもらって由真の故郷に行こう。養女にするんだから、ご両親にもちゃんと挨拶しないとね」
「はい。楽しみにしています。あ、ほら、噴水のところで紫園さん待ってますよ」
とたんに心臓が喉までせり上がった。由真の視線をたどると、中庭を取り囲む円柱の向こう、中央噴水の脇に、紫園がたたずんでいる。
縁飾りのついた藍色の長衣に、白地の飾帯。ともすれば派手な印象になりがちなのに、しっくり馴染んでいた。
顔が熱くてたまらなかった。背中や脇に汗がにじんでくる。
いったいなんて言えばいいのだろう。
親しくない相手と世間話をするときは、とりあえず天候の話をする――、そんなお定まりの手段もはるか彼方へ吹き飛び、足がすくんで動かない。荒くれ者を十人相手にするほうがまだましだった。
「先生、なにやってんですか。ほら行って」
「だって、恥ずかしくて」
「ここまで来てなに言ってんですか。情けないですよ」
「うっ……」
これ以上は養い親の沽券に関わる。藍那は覚悟を決めた。
「そうそう、天星羅はちゃんとお預かりしておきますから、ご安心くださいね」
「うん……」
中庭へ右足を踏み入れ、つづけて左足を。
気配を感じたのか、紫園がこちらに顔を向け、目を見開いた。呆然としていたのは一瞬で、すかさず藍那の元へ駆け寄ってくる。
「せ、先生……」
「ま、待たせた……かな……」
紫園から逸らせた視線を、由真の方へと向けた。円柱の横で由真はにっこりとうなずく。そして踵 を返すと、長衣の裾をひるがえしながら去っていった。
「あ、あの、由真のこと……」
言いかけて足元に視線を落とした。
沈黙が流れる。大水盤に落ちる水音が、やけに大きく響く。ふいに
「先生、あの……」
「紫園、あのね……」
二人同時に口を開き、視線がかちあった。赤面した紫園が
「す、すみません。あの……どうぞ、先生から……」
と言えば
「う、ううん、その……紫園のほうから先にいっ……」
藍那も語尾をすぼませる。
沈黙……。
しかしようやく
「そ、その、今日はいいお天気ですね」
そう言って紫園は空を仰いだ。つられて藍那も見上げ、日差しのまぶしさに目を眇 める。
たしかにいい天気だった。抜けるような蒼穹には雲ひとつない。由真によれば、この感謝祭の時期は、いつも天気に恵まれるのだ。
「か、風もないですし、絶好のお祭り日和……です……よね……」
「う、うん、そうだね」
「す、すみません……僕……」
赤面したまま、紫園が口元を手のひらで覆った。まばたきを三度してから、深く息を吐き出す。
「その、あまりにも先生が……ええと、だから、びっくりしてしまって……」
「に、似合ってない、かな?」
とっさに訊ねた藍那に、首を何度も横にふった。
「そんなことないです! とても、きれいで……ええと……な、なんて言ったらいいんだろ。なんか、バカみたいですね、僕……」
「う、ううん。そんなことは……ないとおもう……けど……」
「あの、曾妃耶 さまへ祝福をいただきに行きましょうか。それから、ええと、その……」
「う、うん、そうだね……じゃあ、出かけようか」
「はい……」
庭を抜け、同じ扉をくぐって屋敷を出た。
守衛ははじめ、見知らぬ女をあきらかに怪しんでいたが、言葉をかわすと藍那と理解したらしい。顎が外れるくらい驚愕し、口を大きく開けた表情のまま、門扉を開いて二人を通した。
「なんだか失礼しちゃうな」
藍那が憮然とすると、
「仕方ありませんよ、いつもの先生と全く様子が違いますからね」
紫園が苦笑する。
慈衛堵の屋敷があるのは、富裕層が多く住む高台だ。曾妃耶寺院がある中心街からは遠い。このあたりの住人はみな輿に乗って外出するので、ながながと続く坂道を歩く苦労とは無縁だった。
普段は閑静なとおりだが、祭りの華やぎはここにも満ちている。門扉や窓に飾られた、色彩豊かな花かんむり。石畳にまかれた香米 と鬱金粉 。
祭りに出かける輿を、子どもたちが取り囲む。華やかな作りから女物だろう。なかから飴の籠が出された。喜びの声を上げ、子らは好きなだけ掴み取る。そして戦利品を頬張りながら、満足そうに、藍那たちの脇を通り抜けていった。
なぜか藍那は懐かしくなった。自分も幼い頃、祭りのときに輿から飴をもらったことがある。
「先生も、昔はあんなふうに飴をもらったのですか?」
子供らの背中を眺めながら、紫園が訊ねた。
「うん、圓奼 ――ばあやはあまりいい顔をしなかったんだけど。虫歯になるって。でも他の子たちと一緒に飴をもらうの、楽しかったな。友だちがいなかったから、余計楽しかったのかも」
「そうだったのですか」
「うん、お祭りはいつもばあやと一緒に見物したの」
「もしかして先生は、いいお家の生まれだったのですか」
訊ねられて、答えに窮した。ばあやがいるなどと聞けば、そう考えるのは当然だ。しかし、自分はけっしていいお家の生まれなどではない。あの男も言っていたではないか。
――それはちゃんとしたおうちのお嬢さんの話だ。残念だが、お前のような、父親の顔も知らない娘をもらってくれる家は……。
「すみません、不躾なことを訊ねたでしょうか」
「ううん。でも、そうだね……」
ここからは《曾妃耶さま》がよく見える。蒼穹を背にした白大理石の寺院は、陽光に輝き、神々しいほどの威厳をたたえていた。
「私はそこそこ大きなお屋敷で育ったんだ。ばあやもいたし、侍女もいた。料理人や下働きは通いだったけれど、いい暮らしだったと思うよ。
でもね、母は、世間で言うところの《お妾さん》だった。私は母を囲った人の子供ではなくて、本当の父親は知らない」
坂道を下ると、やがて、寺院に続く表参道に出た。祭りも三日目とはいえ、まだまだ賑わっている。祝福をいただこうと詣でた人々の波が、あらゆる通りを埋め尽くしていた。
「剣は母から教わったの。身内びいきではなく、母は本当に強かった。私なんかよりずっと。だから分からないの、なぜ母が、それだけ強かった母が、
父のことも母は何も話してくれなかった。聞けないまま、母は私が十四のときに死んだの。そのあと、いろいろあってね。身一つで故郷を飛び出した」
なぜこんなことを話しているのだろう。身の上話をするなど初めてだ。こんな話、由真ですら知らない。
人混みのなか、隣を歩く紫園は無言のまま、前を見据えている。
「人が随分多くなりましたね」
「今日が最後だからね。私達のように、ようやくお休みをもらえた人たちがみんな来てるんだ。祝福をいただけるのは、この三日間だけだから、みんな真剣に――」
触れ合った手のひらが、そっと藍那の手を包み込む。とたんに周囲の雑踏が遠くに消え、心臓の音だけが、耳の奥でどくどく響いた。
「その、はぐれたらいけないので……」
そう言った紫園の顔を見ることも出来ず、前を歩く親子に視線を据えた。
幼い娘の手を引く、まだ若い母親。彼女の赤い長衣を見つめながら、彼の手へと思いを馳せる。
大きな手のひらだった。指も長く、剣や楽器に向いた手だ。厚い皮に覆われた指の付け根には、まめが潰れた痕がある。
――手を見せてごらん。
紫園と出会ったあの日、この手を眺めた時、すべては始まっていたのだろうか。
大人たちの話し声に、子供の泣き声。魔除けの鈴音。遠くに聞こえる旅芸人の口上。打ち鳴らされる銅鑼。そんな喧騒が溢れるなか、人波は寺院に向けて、緩慢に進んでいた。それはまるで海に注がれる大河のようだ。
その大河に浮かび、ゆるやかに流される二枚の葉。紫園と藍那をたとえるなら、そのようなものだろうか。
それでも、どれだけ多くの人々が通りにひしめいていても。
紫園と藍那のためだけの《とくべつな時間》が、いま、この場所で流れている。
それだけは確かだった。
藍那は握られた手のひらを、無言でそっと握り返す。
きけば、これから上良や他の侍女たちと、祭り見物に行くらしい。
「そういえば、お嬢さまは?」
一昨日からこっちに居るはずだが、姿を見なかった。
「お嬢さまは今朝から気分が優れないとかで、お部屋でお休みになっていらっしゃるそうです。明日は先生のお見送りがありますから、今夜のうちに金亀楼へお戻りになるはずですけど」
「そう……」
明日、藍那は帝都を出立する。準備はすでに整えていて、路銀は明日、杷萬から受け取ることになっていた。
ふと秧真のことが急に心配になってくる。
(まさか、さすがのお嬢さまでも、そこまではしないと思うけど。それに、お嬢さまも言っていたじゃない。出立の時まで、自分の役目を果たさせてほしいって……)
自分に言い聞かせ、
「先生、怒ってますか? 勝手なことして」
「今さらどうでもいいわよ。それに、約束は約束だものね」
「でも先生、私、あのときは本気で怒ってたんですから」
由真は少し口をとがらせた。
「本当はね、紫園さんはお祭りの初日に私を誘ってくれたんです。でもすぐわかりました。ああ、先生に私を誘うよう言われたんだなって。馬鹿にしてるって、すごく腹立たしくて――。だから先生に仕返ししてやろうって考えたんです」
由真はしてやったりと笑う。牡丹色をまとった姿は可憐そのもので、咲き初めた大輪を思わせた。
大輪は人差し指を顔の横で立て、真面目くさって言う。
「だから……ちゃんと、ご自分の気持ちと向き合ってくださいね」
「由真……」
たしかに、この娘はもう子どもではないのだな――藍那はしみじみと思った。これからこの
「ありがとう、由真」
そう言って細い肩を抱いた。
「旅から戻ったら、お休みをもらって由真の故郷に行こう。養女にするんだから、ご両親にもちゃんと挨拶しないとね」
「はい。楽しみにしています。あ、ほら、噴水のところで紫園さん待ってますよ」
とたんに心臓が喉までせり上がった。由真の視線をたどると、中庭を取り囲む円柱の向こう、中央噴水の脇に、紫園がたたずんでいる。
縁飾りのついた藍色の長衣に、白地の飾帯。ともすれば派手な印象になりがちなのに、しっくり馴染んでいた。
顔が熱くてたまらなかった。背中や脇に汗がにじんでくる。
いったいなんて言えばいいのだろう。
親しくない相手と世間話をするときは、とりあえず天候の話をする――、そんなお定まりの手段もはるか彼方へ吹き飛び、足がすくんで動かない。荒くれ者を十人相手にするほうがまだましだった。
「先生、なにやってんですか。ほら行って」
「だって、恥ずかしくて」
「ここまで来てなに言ってんですか。情けないですよ」
「うっ……」
これ以上は養い親の沽券に関わる。藍那は覚悟を決めた。
「そうそう、天星羅はちゃんとお預かりしておきますから、ご安心くださいね」
「うん……」
中庭へ右足を踏み入れ、つづけて左足を。
気配を感じたのか、紫園がこちらに顔を向け、目を見開いた。呆然としていたのは一瞬で、すかさず藍那の元へ駆け寄ってくる。
「せ、先生……」
「ま、待たせた……かな……」
紫園から逸らせた視線を、由真の方へと向けた。円柱の横で由真はにっこりとうなずく。そして
「あ、あの、由真のこと……」
言いかけて足元に視線を落とした。
沈黙が流れる。大水盤に落ちる水音が、やけに大きく響く。ふいに
「先生、あの……」
「紫園、あのね……」
二人同時に口を開き、視線がかちあった。赤面した紫園が
「す、すみません。あの……どうぞ、先生から……」
と言えば
「う、ううん、その……紫園のほうから先にいっ……」
藍那も語尾をすぼませる。
沈黙……。
しかしようやく
「そ、その、今日はいいお天気ですね」
そう言って紫園は空を仰いだ。つられて藍那も見上げ、日差しのまぶしさに目を
たしかにいい天気だった。抜けるような蒼穹には雲ひとつない。由真によれば、この感謝祭の時期は、いつも天気に恵まれるのだ。
「か、風もないですし、絶好のお祭り日和……です……よね……」
「う、うん、そうだね」
「す、すみません……僕……」
赤面したまま、紫園が口元を手のひらで覆った。まばたきを三度してから、深く息を吐き出す。
「その、あまりにも先生が……ええと、だから、びっくりしてしまって……」
「に、似合ってない、かな?」
とっさに訊ねた藍那に、首を何度も横にふった。
「そんなことないです! とても、きれいで……ええと……な、なんて言ったらいいんだろ。なんか、バカみたいですね、僕……」
「う、ううん。そんなことは……ないとおもう……けど……」
「あの、
「う、うん、そうだね……じゃあ、出かけようか」
「はい……」
庭を抜け、同じ扉をくぐって屋敷を出た。
守衛ははじめ、見知らぬ女をあきらかに怪しんでいたが、言葉をかわすと藍那と理解したらしい。顎が外れるくらい驚愕し、口を大きく開けた表情のまま、門扉を開いて二人を通した。
「なんだか失礼しちゃうな」
藍那が憮然とすると、
「仕方ありませんよ、いつもの先生と全く様子が違いますからね」
紫園が苦笑する。
慈衛堵の屋敷があるのは、富裕層が多く住む高台だ。曾妃耶寺院がある中心街からは遠い。このあたりの住人はみな輿に乗って外出するので、ながながと続く坂道を歩く苦労とは無縁だった。
普段は閑静なとおりだが、祭りの華やぎはここにも満ちている。門扉や窓に飾られた、色彩豊かな花かんむり。石畳にまかれた
祭りに出かける輿を、子どもたちが取り囲む。華やかな作りから女物だろう。なかから飴の籠が出された。喜びの声を上げ、子らは好きなだけ掴み取る。そして戦利品を頬張りながら、満足そうに、藍那たちの脇を通り抜けていった。
なぜか藍那は懐かしくなった。自分も幼い頃、祭りのときに輿から飴をもらったことがある。
「先生も、昔はあんなふうに飴をもらったのですか?」
子供らの背中を眺めながら、紫園が訊ねた。
「うん、
「そうだったのですか」
「うん、お祭りはいつもばあやと一緒に見物したの」
「もしかして先生は、いいお家の生まれだったのですか」
訊ねられて、答えに窮した。ばあやがいるなどと聞けば、そう考えるのは当然だ。しかし、自分はけっしていいお家の生まれなどではない。あの男も言っていたではないか。
――それはちゃんとしたおうちのお嬢さんの話だ。残念だが、お前のような、父親の顔も知らない娘をもらってくれる家は……。
「すみません、不躾なことを訊ねたでしょうか」
「ううん。でも、そうだね……」
ここからは《曾妃耶さま》がよく見える。蒼穹を背にした白大理石の寺院は、陽光に輝き、神々しいほどの威厳をたたえていた。
「私はそこそこ大きなお屋敷で育ったんだ。ばあやもいたし、侍女もいた。料理人や下働きは通いだったけれど、いい暮らしだったと思うよ。
でもね、母は、世間で言うところの《お妾さん》だった。私は母を囲った人の子供ではなくて、本当の父親は知らない」
坂道を下ると、やがて、寺院に続く表参道に出た。祭りも三日目とはいえ、まだまだ賑わっている。祝福をいただこうと詣でた人々の波が、あらゆる通りを埋め尽くしていた。
「剣は母から教わったの。身内びいきではなく、母は本当に強かった。私なんかよりずっと。だから分からないの、なぜ母が、それだけ強かった母が、
囲われ者
なんかになったのか。父のことも母は何も話してくれなかった。聞けないまま、母は私が十四のときに死んだの。そのあと、いろいろあってね。身一つで故郷を飛び出した」
なぜこんなことを話しているのだろう。身の上話をするなど初めてだ。こんな話、由真ですら知らない。
人混みのなか、隣を歩く紫園は無言のまま、前を見据えている。
「人が随分多くなりましたね」
「今日が最後だからね。私達のように、ようやくお休みをもらえた人たちがみんな来てるんだ。祝福をいただけるのは、この三日間だけだから、みんな真剣に――」
触れ合った手のひらが、そっと藍那の手を包み込む。とたんに周囲の雑踏が遠くに消え、心臓の音だけが、耳の奥でどくどく響いた。
「その、はぐれたらいけないので……」
そう言った紫園の顔を見ることも出来ず、前を歩く親子に視線を据えた。
幼い娘の手を引く、まだ若い母親。彼女の赤い長衣を見つめながら、彼の手へと思いを馳せる。
大きな手のひらだった。指も長く、剣や楽器に向いた手だ。厚い皮に覆われた指の付け根には、まめが潰れた痕がある。
――手を見せてごらん。
紫園と出会ったあの日、この手を眺めた時、すべては始まっていたのだろうか。
大人たちの話し声に、子供の泣き声。魔除けの鈴音。遠くに聞こえる旅芸人の口上。打ち鳴らされる銅鑼。そんな喧騒が溢れるなか、人波は寺院に向けて、緩慢に進んでいた。それはまるで海に注がれる大河のようだ。
その大河に浮かび、ゆるやかに流される二枚の葉。紫園と藍那をたとえるなら、そのようなものだろうか。
それでも、どれだけ多くの人々が通りにひしめいていても。
紫園と藍那のためだけの《とくべつな時間》が、いま、この場所で流れている。
それだけは確かだった。
藍那は握られた手のひらを、無言でそっと握り返す。