第19話 出奔(下)
文字数 3,494文字
動いたのは男の方からだ。震脚で距離をつめ、すかさず繰り出された鑽拳 が璃凜の頸動脈をかすめて扉へと突き刺さる。手形は透骨拳。虎をも倒すといわれる威力は分厚い扉を粉砕し、あとわずか躱 すのが遅ければ確実に喉を砕かれていた。
これほどの手練れとは予想外だった。
男が拳を引くぬく隙をついて膝蹴りで腹を狙う。しかし一瞬遅く、距離を殺され軸をぶれさせた脇腹に奴の手刀がめり込んだ。
衝撃で飛ばされ、壁へとたたきつけられる。
即座に身体を沈ませ向こう脛をめがけて床を滑るような回し蹴りを繰り出した。しかし動きを読まれて踵を踏まれ、激痛に床へと転がっては後頭部をしたたかに打つ。
怖かった。痛みはもちろんのこと、初めて知った命のやりとりがただただ恐ろしい。
立ち上がり、眼前とみぞおちを守る構えをとって男の隙をうかがう。手形は瓦壠掌。その形はまさに瓦のごとく、一方の男は左手の平拳に肘をつけた裏拳の構え。
動いたのは双方同時。
男の繰り出す拳の数々をかろうじて受け流し、攻撃のほころびを探す。相手の動きから先を読むと言った母の教え。今だと閃いたときには既に立拳からの突きをかわし、こぶしを流した男の背後に回り双掌を叩きつけていた。勢いよく飛ばされた男の拳が壁を砕き、衝撃で供養壇の位牌が倒れる。
旋転し体勢を立て直した男は璃凜を凝視した。さきほどまで見せていた余裕はなく、双眸 に鋭利な殺気を凝らせている。握りしめていた拳をひらいて両手を突き出し、腕を振りかぶると同時に足が床を蹴った。
震脚。
距離をつめた拳が眼前に迫る。鋭い突きをかろうじてかわすも、おろそかになった足元を蹴りですくわれ璃凜はあえなく床に転倒する。それでもなおと起き上がりかけた側頭を肘で打たれ、一瞬意識がとんだ。
気がついたときには覆い被さった男に襟元をつかまれ、上体を床へと押しつけられていた。まるで力が抜けてしまったように、身体が動かない。ぐったりと自重を床に預け、絶望のあまり目を閉じた。
そんな様子に戦意を失ったと見たのか、男は璃凜の袂を押し開き膨らみかけた胸を露わにすると帯を解き始める。帯がゆるめられ、服喪用の白袴に手をかけられたとき。
璃凜のなにかが突如目覚め、勢いよくはじけた。
***
生娘を陵辱する興奮に我を忘れ、反応が遅れた奴の顔に右の掌底がめり込む。
手形は虎爪。食い込んだ五本の爪が皮膚を突き破り、奴がうめき声を上げると同時に左の下突きを脇腹に突き入れた。
「この餓鬼!!!」
血まみれの顔を憤怒にゆがませ、奴の両手が璃凜の喉をしめる。しかし窮鼠に噛みつかれたことに逆上し、冷静さを失ったことが男の命取りになった。
璃凜を押さえ込んでいた尻が前のめりに浮き上がる。首の骨を折ろうとかけた男の重みを自由になった両足に流したのは無意識がなしたことだ。
それをすかさず《ため》へと転じた。
璃凜の両足が床を蹴りつけ、反動で跳ね上がった額が男の額をかち割る。しぜん喉をつかんでいた手がゆるむと、それをかき分けるように璃凜の手が払った。
そこからは一瞬。
背筋のしなりを効かせた強烈な双拿が雷撃の速さで男の鳩尾へと沈む。
まさに渾身の一撃。
拳の下で内臓が潰れる感触をおぼえた。半開きになった奴の口からうめき声とともに胃液の混ざった血が溢れだし、璃凜の顔へとふりかかる。
力なく倒れ込んだ身体が覆いかぶさって、そのまま動かなくなった。血まみれのそれを必死になって両手で押し返しても、璃凜の方も一気に力が抜けてしまったようで腕にも指先にも全く力が入らない。そのとき廊下の向こうから誰かが駆けてくる足音が忙しく響いた。足音が扉の前で止まるやいなや
「お嬢さまっ!」
破砕されて木枠だけとなった扉を押し開け、圓奼 が飛び込んできた。入るなり部屋の惨状にすべてを悟ったのか、無言で璃凜の傍へと駆け寄ってくる。
老女の力では男一人の身体を除けるのは大変だっただろう。それでもなんとか奴の身体を床へ横たわらせると、璃凜の身体を抱き起こした。
「なんてひどいことを――お嬢さま、なんておいたわしい……」
抱きしめられると気がゆるんで、ようやくまとわりつく血と吐瀉物の匂いに気がついた。見下ろすと服喪用の白い長衣が真っ赤に染まっている。息苦しいほどの饐えた悪臭に胸が悪くなり、身体を折り曲げて床へ吐き戻した。
***
圓奼は麻里に納戸に閉じ込められたのだという。
「きっとあの男に言いくるめられたか、金をもらったか……。死んだ奥さまのご恩を忘れるなんて、使用人の風上にもおけません」
乾いた手ぬぐいで洗い立ての璃凜の髪を拭きながら、圓奼は憤然と言った。
その麻里は屋敷のどこを探してもおらず、侍女部屋にあった彼女の私物がすべてなくなっていた。あの男から金をもらってどこかへ逃げたのか。
あれから圓奼の入れてくれた湯を使い、全身を浄めて着物を着替えた。用意してくれたのは簡装の単衣と男物の袴で、それが旅の装いだということを璃凜は即座に理解した。
男は死んだ。もうここにはいられない。
水気を拭き取られた髪に、圓奼の使う鋏が入る。長い髪が小気味よい音とともに床へとたばになって落ち、襟足が寒季の冷たい空気にさらされる。細かい毛を刷毛で払ってから圓奼は貂の毛皮を着せてくれ、懐に手形を滑り込ませた。それから部屋を出て行く。
璃凜が手形を検 めると通行手形で、行き先は阿耶、名は母の名である藍那となっていた。戻ってきた圓奼は革の背嚢を両手に抱えており、それを璃凜の傍らに置いた。
「今日一日なら時間がかせげます。このまま街道を走って海鏤 の宿場までお逃げ下さい。あの男が乗ってきた馬があります。鞍をつけましたからすぐに発てます。それで州境まで走らせればなんとかなるでしょう」
「でも、ばあやは……」
「私のことはどうかお気になさらず。どうせ老い先短い命でございます。お嬢さまを逃がす助けとなるなら、それが本望でございますよ」
「でも……」
離れがたい想いがこみ上げて、璃凜は言葉を詰まらせた。剣の鍛錬のほかは娘をほとんどかまわなかった母の代わりに、心を尽くして世話をしてくれたこの人を置いていくことなどできようか。
逡巡する璃凜に圓奼は厳しい顔になる。
「私を連れてお逃げになってもつかまるだけでございます。それともここにとどまりますか? どちらにしても二人で牢のなかで死ぬか、絞首台で死ぬかでしょう。それをお望みになりますか? いいですか、お嬢さまには生きのびる義務があります。それをお亡くなりになった奥さまもお望みでしょう」
璃凜は黙ってうなずき、圓奼の首に両腕を回した。幼いころからなじんだ甘酸っぱい匂いに、胸がつぶれそうなほど苦しい。でも圓奼の想いを無駄にはできないと、声を震わせながら告げた。
「分かった。宮栄 のお寺に、昔母さまと一緒にお世話になったお坊さんがいるの。とりあえずその方を頼るわ。事情を話せばきっと助けてくれる」
「それがよろしゅうございます。どうかお気をつけて」
背中を抱きしめてくれた両手が、離れた。
「さ、お行きなさい。一刻も無駄にはできません」
背嚢を背負い、天星羅を佩いて振り向かずに部屋を出る。廊下を走り裏口から厩舎へと駆けた。外は寒く、昼下がりの弱々しい光が淡い影を地に落とす。
あの男の乗ってきた馬は主の末路を知ることなく、のんびりと草を食んでいた。ただ従順に璃凜をその背に乗せると、命ずるままに走り出して屋敷を後にした。
遠く、なるべく遠くへ――ただそれだけを思って走り続けた。
日が暮れるまで街道を駆け、圓奼が教えてくれた宿場町へと急いだ。女が襟足まで髪を切るのは喇摩教の出家見習いである証。昔華羅領であったこの辺りは喇嘛 教の信徒も多く、旅の僧侶や見習いには礼を尽くす土地柄だ。そのため宿場町でしつこい客引きにあうこともなく、宿坊で一夜を明かし、夜明けとともに出立した。
そのまま州境まで駆け、偽の通行手形で関所を抜ける。そう、このときから璃凜は己の名を捨てたのだ。
もし宮栄の寺に頼みとするその僧――回龍 がいたなら。藍那こと璃凜はそのまま尼僧になって、今頃どこかの寺に籠もっていたかもしれない。
しかしそうはならなかった。
これほどの手練れとは予想外だった。
男が拳を引くぬく隙をついて膝蹴りで腹を狙う。しかし一瞬遅く、距離を殺され軸をぶれさせた脇腹に奴の手刀がめり込んだ。
衝撃で飛ばされ、壁へとたたきつけられる。
即座に身体を沈ませ向こう脛をめがけて床を滑るような回し蹴りを繰り出した。しかし動きを読まれて踵を踏まれ、激痛に床へと転がっては後頭部をしたたかに打つ。
怖かった。痛みはもちろんのこと、初めて知った命のやりとりがただただ恐ろしい。
立ち上がり、眼前とみぞおちを守る構えをとって男の隙をうかがう。手形は瓦壠掌。その形はまさに瓦のごとく、一方の男は左手の平拳に肘をつけた裏拳の構え。
動いたのは双方同時。
男の繰り出す拳の数々をかろうじて受け流し、攻撃のほころびを探す。相手の動きから先を読むと言った母の教え。今だと閃いたときには既に立拳からの突きをかわし、こぶしを流した男の背後に回り双掌を叩きつけていた。勢いよく飛ばされた男の拳が壁を砕き、衝撃で供養壇の位牌が倒れる。
旋転し体勢を立て直した男は璃凜を凝視した。さきほどまで見せていた余裕はなく、
震脚。
距離をつめた拳が眼前に迫る。鋭い突きをかろうじてかわすも、おろそかになった足元を蹴りですくわれ璃凜はあえなく床に転倒する。それでもなおと起き上がりかけた側頭を肘で打たれ、一瞬意識がとんだ。
気がついたときには覆い被さった男に襟元をつかまれ、上体を床へと押しつけられていた。まるで力が抜けてしまったように、身体が動かない。ぐったりと自重を床に預け、絶望のあまり目を閉じた。
そんな様子に戦意を失ったと見たのか、男は璃凜の袂を押し開き膨らみかけた胸を露わにすると帯を解き始める。帯がゆるめられ、服喪用の白袴に手をかけられたとき。
璃凜のなにかが突如目覚め、勢いよくはじけた。
***
生娘を陵辱する興奮に我を忘れ、反応が遅れた奴の顔に右の掌底がめり込む。
手形は虎爪。食い込んだ五本の爪が皮膚を突き破り、奴がうめき声を上げると同時に左の下突きを脇腹に突き入れた。
「この餓鬼!!!」
血まみれの顔を憤怒にゆがませ、奴の両手が璃凜の喉をしめる。しかし窮鼠に噛みつかれたことに逆上し、冷静さを失ったことが男の命取りになった。
璃凜を押さえ込んでいた尻が前のめりに浮き上がる。首の骨を折ろうとかけた男の重みを自由になった両足に流したのは無意識がなしたことだ。
それをすかさず《ため》へと転じた。
璃凜の両足が床を蹴りつけ、反動で跳ね上がった額が男の額をかち割る。しぜん喉をつかんでいた手がゆるむと、それをかき分けるように璃凜の手が払った。
そこからは一瞬。
背筋のしなりを効かせた強烈な双拿が雷撃の速さで男の鳩尾へと沈む。
まさに渾身の一撃。
拳の下で内臓が潰れる感触をおぼえた。半開きになった奴の口からうめき声とともに胃液の混ざった血が溢れだし、璃凜の顔へとふりかかる。
力なく倒れ込んだ身体が覆いかぶさって、そのまま動かなくなった。血まみれのそれを必死になって両手で押し返しても、璃凜の方も一気に力が抜けてしまったようで腕にも指先にも全く力が入らない。そのとき廊下の向こうから誰かが駆けてくる足音が忙しく響いた。足音が扉の前で止まるやいなや
「お嬢さまっ!」
破砕されて木枠だけとなった扉を押し開け、
老女の力では男一人の身体を除けるのは大変だっただろう。それでもなんとか奴の身体を床へ横たわらせると、璃凜の身体を抱き起こした。
「なんてひどいことを――お嬢さま、なんておいたわしい……」
抱きしめられると気がゆるんで、ようやくまとわりつく血と吐瀉物の匂いに気がついた。見下ろすと服喪用の白い長衣が真っ赤に染まっている。息苦しいほどの饐えた悪臭に胸が悪くなり、身体を折り曲げて床へ吐き戻した。
***
圓奼は麻里に納戸に閉じ込められたのだという。
「きっとあの男に言いくるめられたか、金をもらったか……。死んだ奥さまのご恩を忘れるなんて、使用人の風上にもおけません」
乾いた手ぬぐいで洗い立ての璃凜の髪を拭きながら、圓奼は憤然と言った。
その麻里は屋敷のどこを探してもおらず、侍女部屋にあった彼女の私物がすべてなくなっていた。あの男から金をもらってどこかへ逃げたのか。
あれから圓奼の入れてくれた湯を使い、全身を浄めて着物を着替えた。用意してくれたのは簡装の単衣と男物の袴で、それが旅の装いだということを璃凜は即座に理解した。
男は死んだ。もうここにはいられない。
水気を拭き取られた髪に、圓奼の使う鋏が入る。長い髪が小気味よい音とともに床へとたばになって落ち、襟足が寒季の冷たい空気にさらされる。細かい毛を刷毛で払ってから圓奼は貂の毛皮を着せてくれ、懐に手形を滑り込ませた。それから部屋を出て行く。
璃凜が手形を
「今日一日なら時間がかせげます。このまま街道を走って
「でも、ばあやは……」
「私のことはどうかお気になさらず。どうせ老い先短い命でございます。お嬢さまを逃がす助けとなるなら、それが本望でございますよ」
「でも……」
離れがたい想いがこみ上げて、璃凜は言葉を詰まらせた。剣の鍛錬のほかは娘をほとんどかまわなかった母の代わりに、心を尽くして世話をしてくれたこの人を置いていくことなどできようか。
逡巡する璃凜に圓奼は厳しい顔になる。
「私を連れてお逃げになってもつかまるだけでございます。それともここにとどまりますか? どちらにしても二人で牢のなかで死ぬか、絞首台で死ぬかでしょう。それをお望みになりますか? いいですか、お嬢さまには生きのびる義務があります。それをお亡くなりになった奥さまもお望みでしょう」
璃凜は黙ってうなずき、圓奼の首に両腕を回した。幼いころからなじんだ甘酸っぱい匂いに、胸がつぶれそうなほど苦しい。でも圓奼の想いを無駄にはできないと、声を震わせながら告げた。
「分かった。
「それがよろしゅうございます。どうかお気をつけて」
背中を抱きしめてくれた両手が、離れた。
「さ、お行きなさい。一刻も無駄にはできません」
背嚢を背負い、天星羅を佩いて振り向かずに部屋を出る。廊下を走り裏口から厩舎へと駆けた。外は寒く、昼下がりの弱々しい光が淡い影を地に落とす。
あの男の乗ってきた馬は主の末路を知ることなく、のんびりと草を食んでいた。ただ従順に璃凜をその背に乗せると、命ずるままに走り出して屋敷を後にした。
遠く、なるべく遠くへ――ただそれだけを思って走り続けた。
日が暮れるまで街道を駆け、圓奼が教えてくれた宿場町へと急いだ。女が襟足まで髪を切るのは喇摩教の出家見習いである証。昔華羅領であったこの辺りは
そのまま州境まで駆け、偽の通行手形で関所を抜ける。そう、このときから璃凜は己の名を捨てたのだ。
もし宮栄の寺に頼みとするその僧――
しかしそうはならなかった。