第60話 祭りの終わり
文字数 5,875文字
「なんだか全く実感が湧きません。そう言われても、まるで、他人のことみたいで」
「瑚々 のことも、なにも思い出せないんだね」
「ぜんぜん、なにも……。たしかに僕は絵が得意ですが、でも……だけど……」
そう言って首を振った。
「紫園、やっぱりあなたは金亀楼にいるべきじゃない。前にあなたに言ったね、人には才に応じた道があるって。でも今はそれだけじゃないの。このまま金亀楼にいれば、いつかあなたの過去を知る人間が、せっかく築いてきた全てを壊してしまうような気がする。だから……」
「先生……」
「学校に入ってしまえば、少なくとも、播帑 と関係のあった輩 と出会うことはない。もちろん、まるきり安心とは言えないけど。迭戈 は画家だったから、同業で知っている人間はいるかも。でもね、それでも……紫園が紫園として生きていくには、これが一番いい方法だと思う」
いつまで紫園が紫園でいられるか。そのことすら分からない。由真の言ったとおり、ある日すべてを思い出して、なにも告げずに消えてしまうのかもしれない。
だけど、それでも――。
「絵の修業をして、そこで才を思うままに発揮できれば、もう誰も紫園の過去など問題にしない。そうして初めて、迭戈 ではなく紫園として、本当の意味で生き直せるんじゃないかって――」
藍那は紫園から視線をそらし、紅籠街のある方へと顔を向けた。
「上手くやれるかなんて心配しなくていい。辛くなったら、私のところに戻ってくればいいだけだもの。前にも言ったよね、私は紫園の帰る場所だって」
もし、本当に迭戈 が剣を盗んだ犯人だったとしたら。屋敷に火を放ち、大火の原因を作ったのだとしたら。
そしてその事実を、紫園が知ってしまう時が来たら。
罪と贖罪がどれほど大きく辛かろうが構わない。ともに背負いたいのだ――藍那は心のなかで、紫園にそう告げた。
「僕は……」
声がかすかに震えていた。
「僕は先生のことが好きです。心からお慕いしています……金亀楼の中庭で、僕を助けてくれたときから、ずっと……。でも今の僕はとてもじゃないけど、先生と釣り合いなんて取れない。過去も、本当の名前もなくて、取り柄っていえば、絵がすこしばかり上手く描けるくらいで」
紫の瞳が、こちらをまっすぐに見つめる。真摯な視線を受け止め、藍那は欄干をきつく握りしめた。そうしないと、どこかへ飛ばされていきそうだった。心臓がうるさく鳴って、足元がふわふわと覚束なくて。
「だから、先生のお傍にいられるだけでいい、それ以上は何も望まない――そう思ってました。画学校のお話も嬉しかったけど、怖かった。先生と離れているうちに、先生が僕のことを忘れてしまうんじゃないかって……。そんなことになるくらいなら、一生、このまま金亀楼の下働きでいいって――」
でも、と紫園は続けた。
「噴水でひっぱたかれた時、分かったんです。もうひとりの僕は、そんな僕の臆病さを笑っているんだって。僕が本当に言いたいことやしたいことを、あいつは先生に……」
噴水で交わした口づけが、まざまざと記憶によみがえる。触れ合った舌の感触と、交わした唾液の甘さ。体の奥が熱くなり、藍那は無言でうつむいた。
「先生に由真を誘うように言われた時、ちゃんと伝えるべきでした。僕が好きなのは、先生なんだって。でも拒絶されるのが怖かった。そのことで由真まで傷つけてしまって……。由真にさんざん叱られて、それでようやく目が覚めました」
紫園の怯懦 を笑うことなど出来なかった。卑怯なのは、自分も同じだったのだから。
「だから決めました。僕は……もう逃げません」
「紫園……」
「必ず、先生にふさわしい男になってみせます。だから昨日、慈衛堵 さんにお願いしたんです。画学校に入るために、どうか保証人になってほしいって」
驚きのあまり言葉を失った。
そうだったのか。昨日、紫園の姿がどこにもなかったのは、慈衛堵の屋敷を訪ねていたせいだったのか。藍那はようやく全てを理解した。
愛紗は知っていたのだろう。おそらく上良と由真も。
「慈衛堵さんは、なんて?」
「驚いていましたが、快く引き受けてくださいました。僕が描いた絵をたいそう褒めてくれて、できる限りの応援をしてくださるって。明日、慈衛堵さんと王宮へ出向く約束になっています。先生の出立を見送ったら、すぐ」
「試験を、受けるんだね」
「はい」
「そうだったんだ……。なんか、すごく安心した。でも杷萬 は?」
「旦那さまは『まあそれがお前さんの、一番の落とし所だろうな』って」
「そうか。なんか杷萬らしいね」
笑ってから、指先で目尻を拭う。どうしてか涙が滲んでいた。
「良かった。これで私も心置きなく荒羅塔 に行ける。蔵人との約束を果たせるよ」
「先生がお戻りになったときには、僕はもう金亀楼に居ないでしょう。今度いつお会いできるか分からないのに、こんなことを言うのは、無責任かもしれませんが」
欄干に置かれた藍那の手に、紫園の手が重なった。
「僕がはれて宮廷画家になれたら、その……僕の妻に、なってくれませんか」
* * *
湧き上がる歓喜が、全身を震わせる。言うべき言葉が見つからず、紫園の手を握り返したまま、無言でまばたきを繰り返した。
「先生、あの……」
「わ、わたし……」
ようやく吐き出した言葉が、紫園のそれに重なる。
「私、これは内緒だったんだけど……杷萬に金亀楼を継がないかって、言われてたの」
今度は紫園が息をのむ番だった。
「先生が、金亀楼を……ですか?」
「返事は、旅から戻ってからでいいって。でも話を受けようと思っている。由真や紫園やお嬢さまの、帰る場所になれるしね」
「先生……」
「だから、私は……ずっと金亀楼で、紫園のこと、待ってるから」
握りあった手のひらがほどかれる。きつく藍那の身体を抱いた紫園が、髪に顔をうずめて頬ずりする。目を閉じた藍那の耳に、紫園の鼓動が聞こえた。重なり合うように響く、自分の鼓動も。
遠くで夕礼拝の鐘が鳴った。抱いた腕をゆるめ
「先生……」
口づけようとした紫園に、藍那は笑う。
「そこは名前で言ってほしい」
「あ……そうですね」
照れ笑いを浮かべたあと、こほんと咳払いをして、真面目な面持ちになった。
「藍那、その……愛してます。それと、これ……」
懐から、手のひらほどの包みを出し、渡した。
包みを開くと、なかから現れたのは小さな布留め だった。銀で鬱金香 を型どり、花びらには赤の、葉には緑の、七宝細工がきらめく。
「これ……」
「どうか旅のあいだ、これを見て、僕のことを思い出してください」
手のひらにのせて眺めた。赤や緑の硝子が光を受け、宝石のように輝く。わずかに傾 げるたび、鮮やかな色をまとった光が、水面 のように揺らめいた。
「ありがとう……」
「今のところ、僕が先生に……じゃなくて、藍那にあげられるのはこれくらいで、」
「璃凜……」
「え?」
「璃凜っていうの、私の、本当の名前……」
思い出した。赤い鬱金香 の花言葉は、《愛の告白》だ。
「訳あって故郷を飛び出したとき、本当の名前は捨てたの。藍那は死んだ母の名前。それからずっと、藍那として生きてきた。元の名前なんて、自分ですら忘れかけていた。でも紫園……、あなただけには、本当の私を知ってほしい」
閉じた眼裏 に、赤と緑の閃光が尾を引いた。
愛しています璃凜――。
口づけのあとで囁かれた言葉を、至福のなかで聞く。吹きすさぶ風が、二人の長衣をはためかせる。それなのに少しも寒くはなかった。
* * *
藍那が先に金亀楼に戻ることにした。裏口から入ると、圓湖 とばったり出くわす。見慣れぬ女の姿に警戒し、いったいここになんの用かと訊ねてきた。
二言三言、言葉をかわして、ようやく藍那だと分かったらしい。愕然としたあと、
「こ、これは、先生でありましたか」
慌てて姿勢を正した。
「柴門は帰ってる?」
なにより訊ねたいのはそれだ。しかし圓湖は首を横に振った。
「いえ、奴さん、今日は真夜中まで戻ってきませんよ」
「そうなの?」
「最近、ほかの妓楼 で、馴染みの娘が出来たらしいんすよ。今日はやっと取れた休みですからね。終祭の鐘をその娘と聞くらしいんで」
「あ……そう……」
なんだか拍子抜けしてしまった。終祭の鐘が鳴るのは、真夜中の十二時。好いた相手と一緒に聞くと、めでたく結ばれるという言い伝えがある。
「分かった。ありがとう」
そう言って踵を返し、自室へと向かう。
(やっぱり、いつもの姿に戻ってから帰楼すべきだったかな)
後悔してももう遅い。
裏口から自室まではそれほど距離はないが、誰かと顔を合わせるたび、不審がられたり、驚かれたりする。ようやく部屋に戻れると、安堵のため息をついた。
ふと寝台に目をやると、畳まれた服が置かれてある。
検 めると、愛紗のところに置いてきた麻の長衣だった。どうやら由真は先に戻ったらしい。それならこの結髪 も、由真に解いてもらうとしよう。慣れない自分がやると、ひどいことになりそうだった。
外はすでに夕闇が迫っている。
祭りも最終日を迎えると、日が落ちるのが目に見えて早い。寝台に腰掛けて、考えた。
(柴門 のことは、やはり考えすぎだったのか)
尾行した男が韋蛮 という確証もなかった。火傷の痕が目印だが、顔に火傷をおった男など、他にもいるだろう。ましてや大火のあと、泉李から帝都へと、多くの難民が流れ込んだという。
(そういえば……)
ふと気がついた。そろそろ由真が夕餉を運んでくる頃合いだが、あいにく外で済ませている。賄い方へ出向いて、そのことを伝えなければならないだろう。由真に懐の鏡も渡したかった。
(あとは、お嬢さまがこっちに戻ってきているかどうか……)
寝台から立ち上がったところに、扉が三度叩かれる。てっきり由真かと思い、
「ああ、お入り。ごめんね、実は――」
しかし扉を開け、顔をのぞかせたのは節 であった。驚いたことに、由真に預けたはずの天星羅を持参している。他に小脇にひとつ、包みを抱えていた。
藍那の姿を見るなり、嬉しそうに顔をほころばせる。
「こんばんは、先生。おやまあ、本当にお綺麗ですこと、ほんとうに」
「あ、ああ、こんばんは……。なにか、御用ですか?」
「由真は賄い方が忙しくて、今日はこっちに来られないそうですよ。これを先生に渡してほしいそうです。それからお嬢さまに、先生の御髪 を解くよう、仰せつかっておりまして」
「お嬢さまが?」
「はい。お嬢さまは、さきほどお戻りになりまして。旦那さまと一緒にお出かけになりました。祝福をいただきに、《曾妃耶さま》へと。そのあと観劇をされるそうで、お戻りになるのは、真夜中近くになりそうです」
「そう……」
「お嬢さまから言付けを預かっておりますが、『例のものは明日の朝に。どうかご安心を』とのことです」
「そうか。ありがとう」
祭りが終われば慈衛堵の屋敷に戻り、行儀見習いののち、後宮へと上がる。父親とゆっくり過ごせる時間は、しばらくないだろう。普段は父を疎んじていながら、心底では慕っている。そんな秧真 を微笑ましく思えた。
「杷萬ともしばらくお別れだものね」
「ええ、お嬢さまも先生も、いっぺんにお屋敷からいなくなってしまうなんて」
袖口で涙を拭った節に、藍那は笑う。
「大丈夫です。お嬢さまはともかく、私は用事を済ませたら、すぐに戻ってきますから」
「首を長くして待っておりますわ。ささ、いま御髪をほどきますわね」
抱えた包みを文机に置いて、広げた。なかには櫛と刷毛が一揃い、
「普段お嬢さまがつかっているお道具ですが」
そう言いながら、椅子に座らせた藍那の髪をほどき始める。なんだか懐かしかった。昔はこうして毎晩、寝る前に圓奼 に髪をすいてもらったものだ。
「では先生、おやすみなさい。私は明日、お見送りはしませんよ。出立に涙は不吉ですからね。ではでは」
髪をすき終わると、節はそう言って出ていった。夜着に着替えると、寝台の下から背嚢と旅装一式を取り出す。準備はすでに万端。あとは、杷萬に預けた路銀を受け取るだけだった。
(それと、これね)
手のひらに収めた銀の布留め を、外套に載せた。目を引く装飾品をつけることは、旅では禁物だ。しかし外から分からぬよう、外套の裏に留めればいい。
それらを寝台の下へと再び押し込んだ。今度はずっと奥の方から、黒い木箱を取り出す。この金亀楼の楼主に収まれば、身だしなみも仕事のひとつとなるだろう。無用の長物としか思わなかったが、今となってはありがたい。
蓋に積もった埃を払い、文机の上、由真に贈る包みの隣へと置いた。そのついでに、卓上の油燈 を消す。
あと数刻で祭りは終わる。金亀楼も宴が終わり、客が娼妓たちと部屋へ引き上げていく。そして……。
鼓動がはやさを増した。寝台に腰を下ろし、その時を今か今かと待つ。
もう少し、あと少し――。
寝台脇の燭台が、炎を揺らす。短くなってしまった蝋燭が、最後の輝きとばかりに、大きくなった炎であたりを照らした。
やがて扉の向こう、廊下の端から、こちらへと向かう足音を聞く。
慎重な足取りで、彼は寄木細工 の床を一歩一歩踏む。
約束のとおり、扉が五回叩かれた。
「入って」
声が震える。細く開かれた扉から、すべるように紫園が入ってきた。
期待と不安、喜びと怖れ。相反 する感情がもつれた面持ちで、紫園は眼前の女を無言で見つめる。
かたわらの燭台を璃凜は吹き消した。
「こっちへ来て」
まもなく終祭の鐘が時を告げた。
しかし紫園と璃凜の耳に、その音 はもはや届かない。
第一部最終章へと続く
「
「ぜんぜん、なにも……。たしかに僕は絵が得意ですが、でも……だけど……」
そう言って首を振った。
「紫園、やっぱりあなたは金亀楼にいるべきじゃない。前にあなたに言ったね、人には才に応じた道があるって。でも今はそれだけじゃないの。このまま金亀楼にいれば、いつかあなたの過去を知る人間が、せっかく築いてきた全てを壊してしまうような気がする。だから……」
「先生……」
「学校に入ってしまえば、少なくとも、
いつまで紫園が紫園でいられるか。そのことすら分からない。由真の言ったとおり、ある日すべてを思い出して、なにも告げずに消えてしまうのかもしれない。
だけど、それでも――。
「絵の修業をして、そこで才を思うままに発揮できれば、もう誰も紫園の過去など問題にしない。そうして初めて、
藍那は紫園から視線をそらし、紅籠街のある方へと顔を向けた。
「上手くやれるかなんて心配しなくていい。辛くなったら、私のところに戻ってくればいいだけだもの。前にも言ったよね、私は紫園の帰る場所だって」
もし、本当に
そしてその事実を、紫園が知ってしまう時が来たら。
罪と贖罪がどれほど大きく辛かろうが構わない。ともに背負いたいのだ――藍那は心のなかで、紫園にそう告げた。
「僕は……」
声がかすかに震えていた。
「僕は先生のことが好きです。心からお慕いしています……金亀楼の中庭で、僕を助けてくれたときから、ずっと……。でも今の僕はとてもじゃないけど、先生と釣り合いなんて取れない。過去も、本当の名前もなくて、取り柄っていえば、絵がすこしばかり上手く描けるくらいで」
紫の瞳が、こちらをまっすぐに見つめる。真摯な視線を受け止め、藍那は欄干をきつく握りしめた。そうしないと、どこかへ飛ばされていきそうだった。心臓がうるさく鳴って、足元がふわふわと覚束なくて。
「だから、先生のお傍にいられるだけでいい、それ以上は何も望まない――そう思ってました。画学校のお話も嬉しかったけど、怖かった。先生と離れているうちに、先生が僕のことを忘れてしまうんじゃないかって……。そんなことになるくらいなら、一生、このまま金亀楼の下働きでいいって――」
でも、と紫園は続けた。
「噴水でひっぱたかれた時、分かったんです。もうひとりの僕は、そんな僕の臆病さを笑っているんだって。僕が本当に言いたいことやしたいことを、あいつは先生に……」
噴水で交わした口づけが、まざまざと記憶によみがえる。触れ合った舌の感触と、交わした唾液の甘さ。体の奥が熱くなり、藍那は無言でうつむいた。
「先生に由真を誘うように言われた時、ちゃんと伝えるべきでした。僕が好きなのは、先生なんだって。でも拒絶されるのが怖かった。そのことで由真まで傷つけてしまって……。由真にさんざん叱られて、それでようやく目が覚めました」
紫園の
「だから決めました。僕は……もう逃げません」
「紫園……」
「必ず、先生にふさわしい男になってみせます。だから昨日、
驚きのあまり言葉を失った。
そうだったのか。昨日、紫園の姿がどこにもなかったのは、慈衛堵の屋敷を訪ねていたせいだったのか。藍那はようやく全てを理解した。
愛紗は知っていたのだろう。おそらく上良と由真も。
「慈衛堵さんは、なんて?」
「驚いていましたが、快く引き受けてくださいました。僕が描いた絵をたいそう褒めてくれて、できる限りの応援をしてくださるって。明日、慈衛堵さんと王宮へ出向く約束になっています。先生の出立を見送ったら、すぐ」
「試験を、受けるんだね」
「はい」
「そうだったんだ……。なんか、すごく安心した。でも
「旦那さまは『まあそれがお前さんの、一番の落とし所だろうな』って」
「そうか。なんか杷萬らしいね」
笑ってから、指先で目尻を拭う。どうしてか涙が滲んでいた。
「良かった。これで私も心置きなく
「先生がお戻りになったときには、僕はもう金亀楼に居ないでしょう。今度いつお会いできるか分からないのに、こんなことを言うのは、無責任かもしれませんが」
欄干に置かれた藍那の手に、紫園の手が重なった。
「僕がはれて宮廷画家になれたら、その……僕の妻に、なってくれませんか」
* * *
湧き上がる歓喜が、全身を震わせる。言うべき言葉が見つからず、紫園の手を握り返したまま、無言でまばたきを繰り返した。
「先生、あの……」
「わ、わたし……」
ようやく吐き出した言葉が、紫園のそれに重なる。
「私、これは内緒だったんだけど……杷萬に金亀楼を継がないかって、言われてたの」
今度は紫園が息をのむ番だった。
「先生が、金亀楼を……ですか?」
「返事は、旅から戻ってからでいいって。でも話を受けようと思っている。由真や紫園やお嬢さまの、帰る場所になれるしね」
「先生……」
「だから、私は……ずっと金亀楼で、紫園のこと、待ってるから」
握りあった手のひらがほどかれる。きつく藍那の身体を抱いた紫園が、髪に顔をうずめて頬ずりする。目を閉じた藍那の耳に、紫園の鼓動が聞こえた。重なり合うように響く、自分の鼓動も。
遠くで夕礼拝の鐘が鳴った。抱いた腕をゆるめ
「先生……」
口づけようとした紫園に、藍那は笑う。
「そこは名前で言ってほしい」
「あ……そうですね」
照れ笑いを浮かべたあと、こほんと咳払いをして、真面目な面持ちになった。
「藍那、その……愛してます。それと、これ……」
懐から、手のひらほどの包みを出し、渡した。
包みを開くと、なかから現れたのは小さな
「これ……」
「どうか旅のあいだ、これを見て、僕のことを思い出してください」
手のひらにのせて眺めた。赤や緑の硝子が光を受け、宝石のように輝く。わずかに
「ありがとう……」
「今のところ、僕が先生に……じゃなくて、藍那にあげられるのはこれくらいで、」
「璃凜……」
「え?」
「璃凜っていうの、私の、本当の名前……」
思い出した。赤い
「訳あって故郷を飛び出したとき、本当の名前は捨てたの。藍那は死んだ母の名前。それからずっと、藍那として生きてきた。元の名前なんて、自分ですら忘れかけていた。でも紫園……、あなただけには、本当の私を知ってほしい」
閉じた
愛しています璃凜――。
口づけのあとで囁かれた言葉を、至福のなかで聞く。吹きすさぶ風が、二人の長衣をはためかせる。それなのに少しも寒くはなかった。
* * *
藍那が先に金亀楼に戻ることにした。裏口から入ると、
二言三言、言葉をかわして、ようやく藍那だと分かったらしい。愕然としたあと、
「こ、これは、先生でありましたか」
慌てて姿勢を正した。
「柴門は帰ってる?」
なにより訊ねたいのはそれだ。しかし圓湖は首を横に振った。
「いえ、奴さん、今日は真夜中まで戻ってきませんよ」
「そうなの?」
「最近、ほかの
「あ……そう……」
なんだか拍子抜けしてしまった。終祭の鐘が鳴るのは、真夜中の十二時。好いた相手と一緒に聞くと、めでたく結ばれるという言い伝えがある。
「分かった。ありがとう」
そう言って踵を返し、自室へと向かう。
(やっぱり、いつもの姿に戻ってから帰楼すべきだったかな)
後悔してももう遅い。
裏口から自室まではそれほど距離はないが、誰かと顔を合わせるたび、不審がられたり、驚かれたりする。ようやく部屋に戻れると、安堵のため息をついた。
ふと寝台に目をやると、畳まれた服が置かれてある。
外はすでに夕闇が迫っている。
祭りも最終日を迎えると、日が落ちるのが目に見えて早い。寝台に腰掛けて、考えた。
(
尾行した男が
(そういえば……)
ふと気がついた。そろそろ由真が夕餉を運んでくる頃合いだが、あいにく外で済ませている。賄い方へ出向いて、そのことを伝えなければならないだろう。由真に懐の鏡も渡したかった。
(あとは、お嬢さまがこっちに戻ってきているかどうか……)
寝台から立ち上がったところに、扉が三度叩かれる。てっきり由真かと思い、
「ああ、お入り。ごめんね、実は――」
しかし扉を開け、顔をのぞかせたのは
藍那の姿を見るなり、嬉しそうに顔をほころばせる。
「こんばんは、先生。おやまあ、本当にお綺麗ですこと、ほんとうに」
「あ、ああ、こんばんは……。なにか、御用ですか?」
「由真は賄い方が忙しくて、今日はこっちに来られないそうですよ。これを先生に渡してほしいそうです。それからお嬢さまに、先生の
「お嬢さまが?」
「はい。お嬢さまは、さきほどお戻りになりまして。旦那さまと一緒にお出かけになりました。祝福をいただきに、《曾妃耶さま》へと。そのあと観劇をされるそうで、お戻りになるのは、真夜中近くになりそうです」
「そう……」
「お嬢さまから言付けを預かっておりますが、『例のものは明日の朝に。どうかご安心を』とのことです」
「そうか。ありがとう」
祭りが終われば慈衛堵の屋敷に戻り、行儀見習いののち、後宮へと上がる。父親とゆっくり過ごせる時間は、しばらくないだろう。普段は父を疎んじていながら、心底では慕っている。そんな
「杷萬ともしばらくお別れだものね」
「ええ、お嬢さまも先生も、いっぺんにお屋敷からいなくなってしまうなんて」
袖口で涙を拭った節に、藍那は笑う。
「大丈夫です。お嬢さまはともかく、私は用事を済ませたら、すぐに戻ってきますから」
「首を長くして待っておりますわ。ささ、いま御髪をほどきますわね」
抱えた包みを文机に置いて、広げた。なかには櫛と刷毛が一揃い、
「普段お嬢さまがつかっているお道具ですが」
そう言いながら、椅子に座らせた藍那の髪をほどき始める。なんだか懐かしかった。昔はこうして毎晩、寝る前に
「では先生、おやすみなさい。私は明日、お見送りはしませんよ。出立に涙は不吉ですからね。ではでは」
髪をすき終わると、節はそう言って出ていった。夜着に着替えると、寝台の下から背嚢と旅装一式を取り出す。準備はすでに万端。あとは、杷萬に預けた路銀を受け取るだけだった。
(それと、これね)
手のひらに収めた銀の
それらを寝台の下へと再び押し込んだ。今度はずっと奥の方から、黒い木箱を取り出す。この金亀楼の楼主に収まれば、身だしなみも仕事のひとつとなるだろう。無用の長物としか思わなかったが、今となってはありがたい。
蓋に積もった埃を払い、文机の上、由真に贈る包みの隣へと置いた。そのついでに、卓上の
あと数刻で祭りは終わる。金亀楼も宴が終わり、客が娼妓たちと部屋へ引き上げていく。そして……。
鼓動がはやさを増した。寝台に腰を下ろし、その時を今か今かと待つ。
もう少し、あと少し――。
寝台脇の燭台が、炎を揺らす。短くなってしまった蝋燭が、最後の輝きとばかりに、大きくなった炎であたりを照らした。
やがて扉の向こう、廊下の端から、こちらへと向かう足音を聞く。
慎重な足取りで、彼は
約束のとおり、扉が五回叩かれた。
「入って」
声が震える。細く開かれた扉から、すべるように紫園が入ってきた。
期待と不安、喜びと怖れ。
かたわらの燭台を璃凜は吹き消した。
「こっちへ来て」
まもなく終祭の鐘が時を告げた。
しかし紫園と璃凜の耳に、その
第一部最終章へと続く