第60話 祭りの終わり

文字数 5,875文字

「なんだか全く実感が湧きません。そう言われても、まるで、他人のことみたいで」
瑚々(ココ)のことも、なにも思い出せないんだね」
「ぜんぜん、なにも……。たしかに僕は絵が得意ですが、でも……だけど……」

 そう言って首を振った。

「紫園、やっぱりあなたは金亀楼にいるべきじゃない。前にあなたに言ったね、人には才に応じた道があるって。でも今はそれだけじゃないの。このまま金亀楼にいれば、いつかあなたの過去を知る人間が、せっかく築いてきた全てを壊してしまうような気がする。だから……」
「先生……」
「学校に入ってしまえば、少なくとも、播帑(ハリド)と関係のあった(やから)と出会うことはない。もちろん、まるきり安心とは言えないけど。迭戈(ディエゴ)は画家だったから、同業で知っている人間はいるかも。でもね、それでも……紫園が紫園として生きていくには、これが一番いい方法だと思う」

 いつまで紫園が紫園でいられるか。そのことすら分からない。由真の言ったとおり、ある日すべてを思い出して、なにも告げずに消えてしまうのかもしれない。
 だけど、それでも――。

「絵の修業をして、そこで才を思うままに発揮できれば、もう誰も紫園の過去など問題にしない。そうして初めて、迭戈(ディエゴ)ではなく紫園として、本当の意味で生き直せるんじゃないかって――」

 藍那は紫園から視線をそらし、紅籠街のある方へと顔を向けた。

「上手くやれるかなんて心配しなくていい。辛くなったら、私のところに戻ってくればいいだけだもの。前にも言ったよね、私は紫園の帰る場所だって」

 もし、本当に迭戈(ディエゴ)が剣を盗んだ犯人だったとしたら。屋敷に火を放ち、大火の原因を作ったのだとしたら。
 そしてその事実を、紫園が知ってしまう時が来たら。
 罪と贖罪がどれほど大きく辛かろうが構わない。ともに背負いたいのだ――藍那は心のなかで、紫園にそう告げた。

「僕は……」

 声がかすかに震えていた。

「僕は先生のことが好きです。心からお慕いしています……金亀楼の中庭で、僕を助けてくれたときから、ずっと……。でも今の僕はとてもじゃないけど、先生と釣り合いなんて取れない。過去も、本当の名前もなくて、取り柄っていえば、絵がすこしばかり上手く描けるくらいで」

 紫の瞳が、こちらをまっすぐに見つめる。真摯な視線を受け止め、藍那は欄干をきつく握りしめた。そうしないと、どこかへ飛ばされていきそうだった。心臓がうるさく鳴って、足元がふわふわと覚束なくて。

「だから、先生のお傍にいられるだけでいい、それ以上は何も望まない――そう思ってました。画学校のお話も嬉しかったけど、怖かった。先生と離れているうちに、先生が僕のことを忘れてしまうんじゃないかって……。そんなことになるくらいなら、一生、このまま金亀楼の下働きでいいって――」

 でも、と紫園は続けた。

「噴水でひっぱたかれた時、分かったんです。もうひとりの僕は、そんな僕の臆病さを笑っているんだって。僕が本当に言いたいことやしたいことを、あいつは先生に……」

 噴水で交わした口づけが、まざまざと記憶によみがえる。触れ合った舌の感触と、交わした唾液の甘さ。体の奥が熱くなり、藍那は無言でうつむいた。

「先生に由真を誘うように言われた時、ちゃんと伝えるべきでした。僕が好きなのは、先生なんだって。でも拒絶されるのが怖かった。そのことで由真まで傷つけてしまって……。由真にさんざん叱られて、それでようやく目が覚めました」

 紫園の怯懦(きょうだ)を笑うことなど出来なかった。卑怯なのは、自分も同じだったのだから。

「だから決めました。僕は……もう逃げません」
「紫園……」
「必ず、先生にふさわしい男になってみせます。だから昨日、慈衛堵(ジェイド)さんにお願いしたんです。画学校に入るために、どうか保証人になってほしいって」

 驚きのあまり言葉を失った。
 そうだったのか。昨日、紫園の姿がどこにもなかったのは、慈衛堵の屋敷を訪ねていたせいだったのか。藍那はようやく全てを理解した。
 愛紗は知っていたのだろう。おそらく上良と由真も。

「慈衛堵さんは、なんて?」
「驚いていましたが、快く引き受けてくださいました。僕が描いた絵をたいそう褒めてくれて、できる限りの応援をしてくださるって。明日、慈衛堵さんと王宮へ出向く約束になっています。先生の出立を見送ったら、すぐ」
「試験を、受けるんだね」
「はい」
「そうだったんだ……。なんか、すごく安心した。でも杷萬(ハマン)は?」
「旦那さまは『まあそれがお前さんの、一番の落とし所だろうな』って」
「そうか。なんか杷萬らしいね」

 笑ってから、指先で目尻を拭う。どうしてか涙が滲んでいた。

「良かった。これで私も心置きなく荒羅塔(アララト)に行ける。蔵人との約束を果たせるよ」
「先生がお戻りになったときには、僕はもう金亀楼に居ないでしょう。今度いつお会いできるか分からないのに、こんなことを言うのは、無責任かもしれませんが」

 欄干に置かれた藍那の手に、紫園の手が重なった。

「僕がはれて宮廷画家になれたら、その……僕の妻に、なってくれませんか」

 * * *

 湧き上がる歓喜が、全身を震わせる。言うべき言葉が見つからず、紫園の手を握り返したまま、無言でまばたきを繰り返した。

「先生、あの……」
「わ、わたし……」

 ようやく吐き出した言葉が、紫園のそれに重なる。

「私、これは内緒だったんだけど……杷萬に金亀楼を継がないかって、言われてたの」

 今度は紫園が息をのむ番だった。

「先生が、金亀楼を……ですか?」
「返事は、旅から戻ってからでいいって。でも話を受けようと思っている。由真や紫園やお嬢さまの、帰る場所になれるしね」
「先生……」
「だから、私は……ずっと金亀楼で、紫園のこと、待ってるから」

 握りあった手のひらがほどかれる。きつく藍那の身体を抱いた紫園が、髪に顔をうずめて頬ずりする。目を閉じた藍那の耳に、紫園の鼓動が聞こえた。重なり合うように響く、自分の鼓動も。
 遠くで夕礼拝の鐘が鳴った。抱いた腕をゆるめ

「先生……」

 口づけようとした紫園に、藍那は笑う。

「そこは名前で言ってほしい」
「あ……そうですね」

 照れ笑いを浮かべたあと、こほんと咳払いをして、真面目な面持ちになった。

「藍那、その……愛してます。それと、これ……」

 懐から、手のひらほどの包みを出し、渡した。
 包みを開くと、なかから現れたのは小さな布留め(ブロス)だった。銀で鬱金香(ラーレ)を型どり、花びらには赤の、葉には緑の、七宝細工がきらめく。

「これ……」
「どうか旅のあいだ、これを見て、僕のことを思い出してください」

 手のひらにのせて眺めた。赤や緑の硝子が光を受け、宝石のように輝く。わずかに(かし)げるたび、鮮やかな色をまとった光が、水面(みなも)のように揺らめいた。

「ありがとう……」
「今のところ、僕が先生に……じゃなくて、藍那にあげられるのはこれくらいで、」
「璃凜……」
「え?」
「璃凜っていうの、私の、本当の名前……」

 思い出した。赤い鬱金香(ラーレ)の花言葉は、《愛の告白》だ。

「訳あって故郷を飛び出したとき、本当の名前は捨てたの。藍那は死んだ母の名前。それからずっと、藍那として生きてきた。元の名前なんて、自分ですら忘れかけていた。でも紫園……、あなただけには、本当の私を知ってほしい」

 閉じた眼裏(まなうら)に、赤と緑の閃光が尾を引いた。

 愛しています璃凜――。

 口づけのあとで囁かれた言葉を、至福のなかで聞く。吹きすさぶ風が、二人の長衣をはためかせる。それなのに少しも寒くはなかった。

 * * *

 藍那が先に金亀楼に戻ることにした。裏口から入ると、圓湖(マルコ)とばったり出くわす。見慣れぬ女の姿に警戒し、いったいここになんの用かと訊ねてきた。
 二言三言、言葉をかわして、ようやく藍那だと分かったらしい。愕然としたあと、

「こ、これは、先生でありましたか」

 慌てて姿勢を正した。

「柴門は帰ってる?」

 なにより訊ねたいのはそれだ。しかし圓湖は首を横に振った。

「いえ、奴さん、今日は真夜中まで戻ってきませんよ」
「そうなの?」
「最近、ほかの妓楼(みせ)で、馴染みの娘が出来たらしいんすよ。今日はやっと取れた休みですからね。終祭の鐘をその娘と聞くらしいんで」
「あ……そう……」

 なんだか拍子抜けしてしまった。終祭の鐘が鳴るのは、真夜中の十二時。好いた相手と一緒に聞くと、めでたく結ばれるという言い伝えがある。

「分かった。ありがとう」

 そう言って踵を返し、自室へと向かう。

(やっぱり、いつもの姿に戻ってから帰楼すべきだったかな)

 後悔してももう遅い。
 裏口から自室まではそれほど距離はないが、誰かと顔を合わせるたび、不審がられたり、驚かれたりする。ようやく部屋に戻れると、安堵のため息をついた。

 ふと寝台に目をやると、畳まれた服が置かれてある。
 (あらた)めると、愛紗のところに置いてきた麻の長衣だった。どうやら由真は先に戻ったらしい。それならこの結髪(けっぱつ)も、由真に解いてもらうとしよう。慣れない自分がやると、ひどいことになりそうだった。

 外はすでに夕闇が迫っている。
 祭りも最終日を迎えると、日が落ちるのが目に見えて早い。寝台に腰掛けて、考えた。

柴門(シモン)のことは、やはり考えすぎだったのか)

 尾行した男が韋蛮(イヴァン)という確証もなかった。火傷の痕が目印だが、顔に火傷をおった男など、他にもいるだろう。ましてや大火のあと、泉李から帝都へと、多くの難民が流れ込んだという。

(そういえば……)

 ふと気がついた。そろそろ由真が夕餉を運んでくる頃合いだが、あいにく外で済ませている。賄い方へ出向いて、そのことを伝えなければならないだろう。由真に懐の鏡も渡したかった。

(あとは、お嬢さまがこっちに戻ってきているかどうか……)

 寝台から立ち上がったところに、扉が三度叩かれる。てっきり由真かと思い、

「ああ、お入り。ごめんね、実は――」

 しかし扉を開け、顔をのぞかせたのは(セツ)であった。驚いたことに、由真に預けたはずの天星羅を持参している。他に小脇にひとつ、包みを抱えていた。
 藍那の姿を見るなり、嬉しそうに顔をほころばせる。

「こんばんは、先生。おやまあ、本当にお綺麗ですこと、ほんとうに」
「あ、ああ、こんばんは……。なにか、御用ですか?」
「由真は賄い方が忙しくて、今日はこっちに来られないそうですよ。これを先生に渡してほしいそうです。それからお嬢さまに、先生の御髪(おぐし)を解くよう、仰せつかっておりまして」
「お嬢さまが?」
「はい。お嬢さまは、さきほどお戻りになりまして。旦那さまと一緒にお出かけになりました。祝福をいただきに、《曾妃耶さま》へと。そのあと観劇をされるそうで、お戻りになるのは、真夜中近くになりそうです」
「そう……」
「お嬢さまから言付けを預かっておりますが、『例のものは明日の朝に。どうかご安心を』とのことです」
「そうか。ありがとう」

 祭りが終われば慈衛堵の屋敷に戻り、行儀見習いののち、後宮へと上がる。父親とゆっくり過ごせる時間は、しばらくないだろう。普段は父を疎んじていながら、心底では慕っている。そんな秧真(ナエマ)を微笑ましく思えた。

「杷萬ともしばらくお別れだものね」
「ええ、お嬢さまも先生も、いっぺんにお屋敷からいなくなってしまうなんて」

 袖口で涙を拭った節に、藍那は笑う。

「大丈夫です。お嬢さまはともかく、私は用事を済ませたら、すぐに戻ってきますから」
「首を長くして待っておりますわ。ささ、いま御髪をほどきますわね」

 抱えた包みを文机に置いて、広げた。なかには櫛と刷毛が一揃い、

「普段お嬢さまがつかっているお道具ですが」

 そう言いながら、椅子に座らせた藍那の髪をほどき始める。なんだか懐かしかった。昔はこうして毎晩、寝る前に圓奼(マルタ)に髪をすいてもらったものだ。

「では先生、おやすみなさい。私は明日、お見送りはしませんよ。出立に涙は不吉ですからね。ではでは」

 髪をすき終わると、節はそう言って出ていった。夜着に着替えると、寝台の下から背嚢と旅装一式を取り出す。準備はすでに万端。あとは、杷萬に預けた路銀を受け取るだけだった。

(それと、これね)

 手のひらに収めた銀の布留め(ブロス)を、外套に載せた。目を引く装飾品をつけることは、旅では禁物だ。しかし外から分からぬよう、外套の裏に留めればいい。

 それらを寝台の下へと再び押し込んだ。今度はずっと奥の方から、黒い木箱を取り出す。この金亀楼の楼主に収まれば、身だしなみも仕事のひとつとなるだろう。無用の長物としか思わなかったが、今となってはありがたい。

 蓋に積もった埃を払い、文机の上、由真に贈る包みの隣へと置いた。そのついでに、卓上の油燈(ラムバ)を消す。
 あと数刻で祭りは終わる。金亀楼も宴が終わり、客が娼妓たちと部屋へ引き上げていく。そして……。

 鼓動がはやさを増した。寝台に腰を下ろし、その時を今か今かと待つ。
 もう少し、あと少し――。
 寝台脇の燭台が、炎を揺らす。短くなってしまった蝋燭が、最後の輝きとばかりに、大きくなった炎であたりを照らした。

 やがて扉の向こう、廊下の端から、こちらへと向かう足音を聞く。
 慎重な足取りで、彼は寄木細工(タラセア)の床を一歩一歩踏む。
 約束のとおり、扉が五回叩かれた。

「入って」

 声が震える。細く開かれた扉から、すべるように紫園が入ってきた。
 期待と不安、喜びと怖れ。相反(あいはん)する感情がもつれた面持ちで、紫園は眼前の女を無言で見つめる。
 かたわらの燭台を璃凜は吹き消した。

「こっちへ来て」

 まもなく終祭の鐘が時を告げた。
 しかし紫園と璃凜の耳に、その()はもはや届かない。


 第一部最終章へと続く
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登場人物紹介

紫園ㅤ

記憶を失くした青年。奥尔罕オルハンの帝都阿耶アヤから東にある港街、泉李イズミルの大火で生き残っていたところを助けられ、金亀楼コンキろうに下男として引き取られる。読み書きができ、剣も使える謎多き人物。赤みがかった栗色の髪に、珍しい紫色の瞳の持ち主。

璃凛リリン藍那アイナ
母から伝えられた双極剣の遣い手であり、女ながら用心棒で生計を立てている。現在は帝都随一の色街、紅籠ヴェロ街の娼館、金亀楼で働くが、訳あって母の名前である藍那アイナを名乗っている。十八歳。

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