第55話 艷琉(アデル)

文字数 4,664文字

 戸惑いながら少女が鞘を握る。同時に震脚で距離を詰め、すばやく(さん)拳を男の人中へと打ち込んだ。背後へ倒れ込んだ雄圓(オマル)が、透かし彫りの衝立を木っ端微塵に破砕する。すかさず、男衆たちから称賛の声が上がった。

「先生、申し訳ないんですがね、あんまり壊さないでくださいよ」

 背後で声をかけたのは杷萬だ。口調から彼の渋面が見えるようだ。雄圓(オマル)は口元を覆って立ち上がり、信じられないと顔を振った。

「どうやらただの小娘じゃないようだな」
「仰せのとおり、こちらの用心棒を務めております。以後お見知りおきを」

 半身に構えながらそう告げる。雄圓(オマル)へ向けた手のひらを、二度動かした。挑発は使いどころが難しいが、この手の輩によく効いてくれる。案の定、突進してきた拳を右左右とかわす。右の蹴りを蹴りで殺してから、(へき)掌を左の鎖骨へと叩き込んだ。

 骨の折れる手応えと同時に、雄圓(オマル)がうめきをあげる。がくりと膝を折り、折れた鎖骨を押さえながら、肩で息をした。やがて顔を上げ、血走った目が藍那をとらえる。

「この、くそアマがああっ!」

 床を蹴った勢いのまま、振り絞った諸手突きが水月を狙った。こぶしが藍那のみぞおちを突く寸前、身を沈ませてからの踵足(しょうそく)が、下から顎を蹴り上げる。
 男の体が後ろへと傾ぐ。藍那の両足が床を踏む。その勁を背面へとつなげ、続けざまに左からの(こう)を叩き込んだ。
 にぶい悲鳴。雄圓(オマル)が吹き飛んで壁に叩きつけられる。衝撃で白磁の花瓶が傾いて、飾り棚から転がり落ちた。

「うわ!」

 慌てて滑り込んだ藍那が、すんでのところで受け止める。

「ふう、危ない」

 一方、男衆に囲まれた雄圓(オマル)は、鎖骨を押さえながら無言で部屋から出ていった。

「ご苦労さまですな。ま、衝立その他の弁償代は、むこうさんに色を付けて払ってもらいますわ」

 そう言い残して杷萬も退室する。

「先生、これ」

 璃娃が天星羅(アストラ)を差し出した。

「ありがとうございます、先生。艶琉(アデル)さまの(かたき)をとってくださって」
「いいんだよ、これが仕事だからね。それより艶琉は大丈夫なの」
「あたしなら……このとおり無事ですよ。ああいい気味、すっきりした」

 柴門に抱き起こされた艶琉が、そう言ってニヤリと笑った。

 * * *

 柴門に寝かされ、濡らした手ぬぐいが額に当てられる。

「病人じゃあるまいし、大げさだってば」

 艶琉(アデル)は憤慨したが

「今は平気でも、そのうち熱が出てくるかもしれません。今日は大事を取ってください」

 藍那がそう諭すと、おとなしく枕に頭を付けた。
 柴門は杷萬のところへ戻った。璃娃は詰め所に、あざに効く薬をもらってくると言って、部屋を出る。

 ――戻ってくるまで、艶琉さまをお願いします。

 頼まれた藍那は、寝台の傍らに腰掛けた。

「あん畜生、いいように殴りやがって。ほんとう、威張り散らすだけの男って最っ低」

 口では威勢はいいものの、殴られたのがこたえたらしい。燭台が照らす(おもて)は青白く、唇がかすかに震えていた。

「もし明日熱が出たら、そのときは呵鵡(カシム)先生をお呼びしましょう」
「冗談じゃないわよ、今日と明日が稼ぎどきだってのに。明日寝てなんかいたら、綝娜(リンダ)のやつに影で何言われるか」

 愛紗が慈衛堵(ジェイド)に身請けされたあと、金亀楼の一番人気は綝娜(リンダ)に移った。
 魯米利(ルメリ)出身の彼女は、少女の頃に金亀楼に来て、元は愛紗の世話係をつとめた古株である。

 飛び抜けた美貌と聡明さから、客たちに可愛がられ、娼妓になってからも贔屓(ひいき)が多い。愛紗の薫陶を受けたおかげで、教養も申し分なかった。そろそろ魁花(ランカ)を襲名しては——との声もある。

 それが艶琉(アデル)は悔しくてしょうがない。艶琉は三年前、十五の歳にこの金亀楼に売られた。当初から歳の近い綝娜(リンダ)のことを、何かと目の敵にしている。

「心配いりませんよ、綝娜さんは、」
「ねえ、先生はお祭りに行くんでしょ、紫園と」
「は?」

 ヤブから棒だ。不意打ちに頬が熱くなり、言葉が全く出てこない。艶琉(アデル)はそんな藍那をからかう口調で続けた。

「もう、先生ったら分かりやすいなあ。あーあ、愛紗から先生は男嫌いだって聞いたから、もしかしたらあたしと同じかも……って期待したのに」
「あたしと同じ……って?」
「んーっとね」

 艶琉はおもむろに上体を起こす。顔が間近に迫った。頬の薄いそばかすが視界に広がり、甘い吐息が鼻にかかる。

「あで……」

 唇が押し当てられ、すぐに離れた。いたずらっぽく覗き込んだ目は翡翠色で、宝石のようにきれいだ。

「こういうこと。でも紫園にバレたら怒られちゃうかな、あたし」

 婉然と笑みつつ、人差し指を自分の唇に当てる。そんな艶琉を呆然と見つめ、困惑した頭で考えた。
 つまり、こういうこととは、そういうことで――。

「後学のためにお教えしますけどね、先生。世の中には男が好きな男がいるように、女の人が好きな女もいるってことなの。あたしがそう」
「は、はあ」
「先生はけっこう好みなんだよね。強いし、よく見ると顔もきれいだし。でも紫園がいるからなあ、ほんと残念」
「で、でも……べつに紫園は……ただの弟子で……」
「はあ? 噴水のところで口づけまでして、それ言う? だめだめ先生、惚れてるんなら、ちゃんと素直に認めなきゃ」
「うっ……」

 艶琉は呆れた表情で、肩から落ちかけた下着をなおす。胸元が大きく開いたそれは、うっかりすると乳房が丸見えだ。もっとも、そういう目的のためなのだから仕方ない。

「あのね、先生、真面目な話。好きな相手から好かれるって、すごく幸運なことなんだよ。宝物を見つけるみたいなもん。あたしみたいな女にしてみたら、すごく羨ましい話なんだけどな」
「そうですか」
「そうよ。あたしが初めて好きになった女の子は、一番の親友だった。でもね、そんなこと、誰にも言えなかったよ」

 翡翠の双眸が、寂しげな色を浮かべる。

「あの子だって、あたしがそんなふうに思っているなんて、夢にも考えなかったんじゃないかな。今頃、普通に結婚してるだろうけど。ねえ先生はどう? あたしのこと、変だとか、気持ち悪いとか思う?」

 黙って(かぶり)を振った。
 たしかに驚きはするが、それで艶琉(アデル)に対する見方が変わるわけでもない。用心棒稼業をしていれば、世の中にはいろいろな人間がいることがよく分かる。同性を好きになることなど、たいしたことではなかった。

「良かった、やっぱり先生はいい人だね。だからさ、その幸運をしっかり掴んで離さないようにしてほしいな。なんだかんだ言っても、先生のこと、みんな応援してるんだから」
「艶琉さん……」

 艶琉とこんなふうにじっくりと語り合ったのは、初めてだった。口は悪いが心根はまっすぐで、わがままだが、どこか憎めない。もし別の場所で、違った形で出会っていたら、いい友人になれたのかもしれなかった。
 艶琉が右手を差し出し、言った。

「ね、先生。浦野(ウラノ)から戻ったら旅先のこと、いろいろ話してくれないかな。楽しみに待ってるよ」
「お約束しましょう」

 差し出された手を、藍那も握る。そのとき、控えめに扉が叩かれ、璃娃が顔を出す。そこでその話は終わり、藍那は柴門(シモン)が待つ詰め所へと戻った。

 * * *

 節の給仕で遅い夕食を済ませる。自室へ戻ったときは、真夜中を過ぎていた。珍しく働き通しで、ひどく疲れた身体を寝台へ横たえる。天井の格子を眺めながら、艶琉に言われたことを反芻した。

 ――惚れてるんなら、ちゃんと素直に認めなきゃ。

 しかし、今更どうしようもなかった。きっと紫園は、由真を祭りに誘っただろう。恋する相手に誘われて、由真が断るはずもない。
 そう考えながらまぶたを閉じると、すぐ眠りに落ちた。夢も見ずにぐっすり眠って、由真に起こされたのは昼前である。

「お疲れのようでしたので、起こさずにいたんですけど。いいかげん起きてください」

 運んできた膳を置く由真に、とりたてて変わったことはなかった。

「お客様の殆どはもうお帰りになりましたよ。賄い方も、ようやく一息ついてます」
「そうなんだ。紫園は?」
「さあ……。さっきから見ないので、お部屋で寝ているんじゃないでしょうか。昨夜はいろいろありましたし」
「そう……」
「ほらほら、先生。さっさと顔を洗って、朝ごはんにしてくださいな」

 水場に行くと、女たちが洗濯に忙しい。藍那を見ると、みなそれぞれに口を開いた。

「先生おはようございます」
「昨夜はご活躍だったそうじゃないですか」
「今日は紫園とお祭りに行くんですか?」
「あんたなに言ってんのよ。紫園のお休みは明日だよ。先生、明日が待ち遠しいねえ」
「あたしらは、これから出かけるんですよ。曾妃耶(ソフィア)さまの祝福に(あずか)ってから、市場(チャルシュ)まで行ってこようかってね」

 適当に相槌を打ち、顔を洗って部屋へ戻る。
 由真の給仕で朝食をとるのは久しぶりだった。感謝祭の二日目になれば、客足もようやく落ち着いて、暇な昼間に交代で休みがもらえる。
 由真は今日休みの使用人たちが、誰とどこへ行くのか把握していて、逐一教えてくれた。今日は安瑛(アンデレ)が寧々を誘い、連れ立って祭りに行くらしい。

 しかしなかには、騒々しいのが嫌いだという変わり種がいる。苫栖(トマス)がそうだ。彼は祭りなどどこ吹く風、今日も帳場でせっせと算盤(アバカス)を弾いている。

「でも苫栖さんが帳場にいてくれるから、みんな安心ですよね。おかげで心置きなく、お祭りにいけますし」

 由真はにこやかに話した。その様子は至って平穏で、好いた男に誘われた高揚感は微塵も見られない。もしかして紫園から何も聞いていないのか。藍那は危ぶんだが、改まって紫園から誘われたかとも訊きにくい。
 結局、分からぬままに朝食は終わる。由真が出ていくと、溜まった洗濯ものを手に水場へと行った。

 これは、紫園に確かめる必要があるのではないか——。

 しかし、そこに居た女たちに訊ねても、紫園がどこにいるのか誰も知らなかった。のんびりと猫に餌をやっていた亜慈(アジー)も同様で、

「あれ、どっかで掃除でもしているんじゃないですかね」

 としか答えない。男衆たちの部屋に行くのも気が引ける。仕方なく、旅の荷物をまとめているうちに夕刻になった。

 昼日中はのどかだった紅籠(ヴェロ)街も、晩鐘が鳴る頃は、祭りの喧騒に飲み込まれていく。
 昨夜の艶琉(アデル)のこともあり、気を張り詰めた二日目の夜だった。しかし幸いなことに大きな騒ぎは何もなく、無事に消灯を迎える。部屋の明かりが一つ二つと消えるなか、藍那も自室へと引き上げた。

 さて歯を磨いて寝ようか――と考えた矢先のことだ。部屋の扉が乱暴に叩かれた。誰かと思ったら、由真が顔を覗かせる。

「先生、ちょっとよろしいですか」

 険しい口調で言うと、藍那の返事を待たず、ずかずかと入ってきた。
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登場人物紹介

紫園ㅤ

記憶を失くした青年。奥尔罕オルハンの帝都阿耶アヤから東にある港街、泉李イズミルの大火で生き残っていたところを助けられ、金亀楼コンキろうに下男として引き取られる。読み書きができ、剣も使える謎多き人物。赤みがかった栗色の髪に、珍しい紫色の瞳の持ち主。

璃凛リリン藍那アイナ
母から伝えられた双極剣の遣い手であり、女ながら用心棒で生計を立てている。現在は帝都随一の色街、紅籠ヴェロ街の娼館、金亀楼で働くが、訳あって母の名前である藍那アイナを名乗っている。十八歳。

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