第54話 感謝祭
文字数 3,788文字
天秤月の二十三日、真夜中の十二時。
曾妃耶 大寺院、ならびに帝都の寺院の鐘が一斉に鳴る。この瞬間から、三日にわたる感謝祭のはじまりだ。断食をねぎらう滋養湯 がふるまわれ、酒樽が開けられる。祝い酒でほろ酔い気分のまま、人々は煌々と明かりの眩しい夜市へと繰り出した。
そこは非日常の喧騒で溢れている。
解禁された牛や羊の串焼きに、油餅 と葡萄酒。東西の珍しい品物や動物に大道芸。小屋で見世をはっている旅芸一座、占術、巫術のたぐい。
市場 や参道は、貴賤さまざまな人で溢れかえった。高貴なものがお忍びで串焼きを頬張り、日銭を稼ぐ労働者たちと、一杯の酒を酌み交わす。
金亀楼をはじめとした紅籠 街の妓楼も、大勢の客が訪 う。
断食月 の間 、男女の交合が禁じられているわけではない。しかし講武所などは、節欲 を奨励している建前もあって、この期間は色街への出入りを禁じているところが多い。
血気盛んな武芸者たちが、ひと月のあまり色事を禁じられるのだ。精気は十分に有り余っている。断食明けの鐘がなると同時に、待ってましたとばかり、色街へと繰り出すことになる。
特に感謝祭の初日と二日目は、妓楼にとっては稼ぎどきであると同時に、最も気の抜けない、厄介な二日間であった。
若い連中の多くが中楼へとおもむくが、上級講武所の師範代などは、弟子を数名引き連れ、上楼へと乗りこんで来る。もちろん、弟子たちの遊び代も師範代が払う。たいていが武勲貴族や地方藩主の次男三男で、金には困っていない。
金払いのいい彼らは、妓楼にとっては上客だ。しかし血の気の多さ故、たびたび面倒をおこす厄介な客でもあった。
上級講武所ともなれば、師範は名のある達人。故に弟子たちには誇りがあり、それが他の講武所との軋轢 となる。
男衆もそのあたりのことは重々承知、だから、反目する講武所が顔を合わせぬよう努めている。
しかし忙しいときこそ間違いは起こるもの。うっかり廊下ですれ違った弟子同士、軽口が罵り合いとなり、ついには、拳を交えた乱闘になる始末。
双方、上級講武所に通っているだけあって、武芸の腕もなかなかのものだ。とても男衆たちが止められるような状況ではない。
そこで藍那の登場である。
――まあまあお二人さん、せっかくの感謝祭のめでたい席ではありませんか。馴染みの娼妓 たちも、首を長くして待っております。どうぞここは私の顔を立てて、こぶしを収めてくださいませんか……。
言って丸く収まればそれでよし。それでもだめなら、実力行使に出るまでだ。初日は五番と六番講武所の弟子らをなだめすかし、激高した十一番と十二番の、双方合わせて六名を打ち据えた。
働くと腹が減る。しかし初日と二日目は、賄い方も戦場のような多忙を極める。由真も藍那にかまっていられず、このときばかりは杷萬の許しを得て、奥 で食事をすることが許されていた。
慌ただしい妓楼と違い、奥 はのどかな別世界だ。節 の給仕で遅い昼食を取った。秧真は寧々 を伴い、慈衛堵の屋敷へと出かけて不在だ。そのせいか、外の喧騒が嘘のような静けさに包まれている。
食後の茶を入れてくれた節が、気の毒そうにねぎらった。
「世間はお祭りですのに、先生も本当に大変ですわね。本当に」
「いえいえ、普段のんべんだらりと過ごしておりますので、これくらいしないと、用心棒の名が泣きます」
「まったく、お嬢さまにも先生くらいの度胸があればいいのですけど」
「私のようになってしまうのも考えものです。それに私も、お嬢さまくらいの歳のころは、世間知らずで、いろいろなものが怖かったりしたものですよ」
「それでも、お呪 いに頼ったりはしなかったでしょう?」
「お、お呪い……?」
怪訝な表情の藍那に、節はうなずき、ため息をついた。
「二週間ほど前、こちらで晴れの願掛けしましたでしょ。めでたく晴れたのは良かったのですけど……あれからお嬢さま、お呪いなんかに凝ってしまって」
初耳だった。秧真と何度も話をしたが、そのようなことは一度も聞いていない。そのことを言うと
「だって、旦那さまもご存じないんですよ。ここだけの話ですけど、お嬢さまにきつく口止めされておりましたの。ここだけの話」
「はあ」
「いったい何を願いたいのか分かりませんけど、あのものぐさのお嬢さまが、自分から巫術屋に出かけていって、お札やらお香やらをごっそり買い込んできましてね」
「それは、いつの話ですか」
「あの願掛けからすぐでしたわ。それからというもの、毎朝夜明け前に起きてはお香を焚いて、なにやら訳のわからない呪文みたいなものをぶつぶつ唱えてましたよ。なんだか気味が悪かったんですけど、お嬢さまがあんまり真剣なので、やめさせることも出来なくて」
秧真の部屋でかいだ甘い残り香は、どうやら願掛けの呪具だったらしい。
「でもそれも昨日で終わりましたわ。後宮に上がられたら、しばらくお嬢さまとお会いできませんし、先生も浦野 へ出立されてしまって……。なんだか、いっぺんに寂しくなってしまいますわね。なんだか……」
声を震わせ、袖口でそっと涙を拭う。
考えてみれば金亀楼に世話になったのは、秧真と節を助けた縁がもとだった。それから何くれとなく世話を焼いてくれる、このちょっとお節介な老女が、藍那はとても好きだ。
ほほえみ、慰めるように言った。
「お嬢さまも後宮への出仕が不安なのでしょう。お呪 いで心が安らぐのでしたら、それも一つの方法だと私は思います。大金をつぎ込むのは考えものですが、そうでもないようですし」
「そうですわね。お祭りですのに、しめっぽくなってしまってごめんなさい」
懐 から出した手巾で目元を抑え、鼻をすする。
藍那は無言で節の手を握った。ふっくらとした手は、圓奼 の手にどこか似ていた。
* * *
客足が落ち着く昼日中 はそのように過ぎて、夕刻からまた忙しくなった。
妓楼にとっては、初日の夕方からが本番と言える。日頃世話になっている大店の旦那衆や、上級講武所の師匠、地方藩主の訪 いが多く、景気よく祝いの金子がふるまわれる。
蔵から出した酒樽が次々と開けられ、男衆も相伴にあずかることが許された。
来る客たちは、遊びなれた洒落者ばかりだ。出された酒や豪華な膳には、形ばかりに口をつけ、下げさせる。余ったものは、そのまま裏方で働く者たちへのお下がりとなる。去年は藍那も、ずいぶんとごちそうになったものだ。
そのような景気のいい客ばかりだから、藍那の出番がないか言えばそうでもない。問題は彼らの連れである。
その夜も、さる地方貴族が伴った遠戚の男が、遊び方も知らない田舎者だった。
雄圓 というその男、酒席では男衆に威張り散らし、給仕女の尻を撫で回す。二番人気の艶琉 を指名して、いよいよ床入りとなってから、まもなく問題はおきた。
彼女の悲鳴を聞いた柴門 が、藍那を呼びにいかせ、慌てて部屋へと駆けつける。遅れて到着した藍那がなかを覗き込み、思わず声を失った。
艶琉は気を失い、ぐったりと床に伏せている。その傍で声を殺し、泣きながら寄り添うのは、世話役の璃娃 だ。仁王立ちになった雄圓 は半裸で、鍛え抜いた肉体を晒している。その足元には、長い赤毛が束になって落ちていた。
「先生……艶琉さまを……助けて」
璃娃が顔を上げる。目に溜まった涙が溢れ出し、頬を伝って落ちていく。普段から物静かで、感情をあまり出さない少女だ。その彼女が必死で懇願している。
柴門に助け起こされ、艶琉は意識を取り戻した。乱れた髪がかかる頬に、殴られた痕が痛々しい。藍那がきっと睨みつけると、雄圓 が言った。
「帝都一の上楼ときけばこのざまだ。この娼館は娼妓 のしつけが足りてないんじゃないのか。ええ?」
体格と居丈高な口調から、軍人と見た。腹立たしかったが、感情に流されると負けだ。まずは穏便に――。
「お客さま、困りますね。うちの娼妓 にこんなふうに手を出されては」
「客に出ていけという娼妓など、聞いたこともないわ。主に吠えるしつけの悪い犬を、俺が調教してやったまでよ」
「失礼ですが、他の妓楼はともかく、うちの妓 たちは犬ではありません。大切な商品でございます。怪我をさせるなどもってのほか。申し訳ありませんが、おあしを払って出ていってもらえませんかね」
「は、ほざくなよ、小娘。出て行かせたいなら、腕ずくでやってみたらどうだ」
雄圓 がせせら笑い、藍那は扉の方を振り返った。駆けつけた他の男衆がかたずをのむなか、中央に杷萬の狸面が見える。杷萬がうなずき、藍那もうなずき返した。
「そうですか。それでは失礼いたします」
天星羅を璃娃 へ差し出した。
「ごめんね、これ、ちょっと預かってて」
そこは非日常の喧騒で溢れている。
解禁された牛や羊の串焼きに、
金亀楼をはじめとした
血気盛んな武芸者たちが、ひと月のあまり色事を禁じられるのだ。精気は十分に有り余っている。断食明けの鐘がなると同時に、待ってましたとばかり、色街へと繰り出すことになる。
特に感謝祭の初日と二日目は、妓楼にとっては稼ぎどきであると同時に、最も気の抜けない、厄介な二日間であった。
若い連中の多くが中楼へとおもむくが、上級講武所の師範代などは、弟子を数名引き連れ、上楼へと乗りこんで来る。もちろん、弟子たちの遊び代も師範代が払う。たいていが武勲貴族や地方藩主の次男三男で、金には困っていない。
金払いのいい彼らは、妓楼にとっては上客だ。しかし血の気の多さ故、たびたび面倒をおこす厄介な客でもあった。
上級講武所ともなれば、師範は名のある達人。故に弟子たちには誇りがあり、それが他の講武所との
男衆もそのあたりのことは重々承知、だから、反目する講武所が顔を合わせぬよう努めている。
しかし忙しいときこそ間違いは起こるもの。うっかり廊下ですれ違った弟子同士、軽口が罵り合いとなり、ついには、拳を交えた乱闘になる始末。
双方、上級講武所に通っているだけあって、武芸の腕もなかなかのものだ。とても男衆たちが止められるような状況ではない。
そこで藍那の登場である。
――まあまあお二人さん、せっかくの感謝祭のめでたい席ではありませんか。馴染みの
言って丸く収まればそれでよし。それでもだめなら、実力行使に出るまでだ。初日は五番と六番講武所の弟子らをなだめすかし、激高した十一番と十二番の、双方合わせて六名を打ち据えた。
働くと腹が減る。しかし初日と二日目は、賄い方も戦場のような多忙を極める。由真も藍那にかまっていられず、このときばかりは杷萬の許しを得て、
慌ただしい妓楼と違い、
食後の茶を入れてくれた節が、気の毒そうにねぎらった。
「世間はお祭りですのに、先生も本当に大変ですわね。本当に」
「いえいえ、普段のんべんだらりと過ごしておりますので、これくらいしないと、用心棒の名が泣きます」
「まったく、お嬢さまにも先生くらいの度胸があればいいのですけど」
「私のようになってしまうのも考えものです。それに私も、お嬢さまくらいの歳のころは、世間知らずで、いろいろなものが怖かったりしたものですよ」
「それでも、お
「お、お呪い……?」
怪訝な表情の藍那に、節はうなずき、ため息をついた。
「二週間ほど前、こちらで晴れの願掛けしましたでしょ。めでたく晴れたのは良かったのですけど……あれからお嬢さま、お呪いなんかに凝ってしまって」
初耳だった。秧真と何度も話をしたが、そのようなことは一度も聞いていない。そのことを言うと
「だって、旦那さまもご存じないんですよ。ここだけの話ですけど、お嬢さまにきつく口止めされておりましたの。ここだけの話」
「はあ」
「いったい何を願いたいのか分かりませんけど、あのものぐさのお嬢さまが、自分から巫術屋に出かけていって、お札やらお香やらをごっそり買い込んできましてね」
「それは、いつの話ですか」
「あの願掛けからすぐでしたわ。それからというもの、毎朝夜明け前に起きてはお香を焚いて、なにやら訳のわからない呪文みたいなものをぶつぶつ唱えてましたよ。なんだか気味が悪かったんですけど、お嬢さまがあんまり真剣なので、やめさせることも出来なくて」
秧真の部屋でかいだ甘い残り香は、どうやら願掛けの呪具だったらしい。
「でもそれも昨日で終わりましたわ。後宮に上がられたら、しばらくお嬢さまとお会いできませんし、先生も
声を震わせ、袖口でそっと涙を拭う。
考えてみれば金亀楼に世話になったのは、秧真と節を助けた縁がもとだった。それから何くれとなく世話を焼いてくれる、このちょっとお節介な老女が、藍那はとても好きだ。
ほほえみ、慰めるように言った。
「お嬢さまも後宮への出仕が不安なのでしょう。お
「そうですわね。お祭りですのに、しめっぽくなってしまってごめんなさい」
藍那は無言で節の手を握った。ふっくらとした手は、
* * *
客足が落ち着く
妓楼にとっては、初日の夕方からが本番と言える。日頃世話になっている大店の旦那衆や、上級講武所の師匠、地方藩主の
蔵から出した酒樽が次々と開けられ、男衆も相伴にあずかることが許された。
来る客たちは、遊びなれた洒落者ばかりだ。出された酒や豪華な膳には、形ばかりに口をつけ、下げさせる。余ったものは、そのまま裏方で働く者たちへのお下がりとなる。去年は藍那も、ずいぶんとごちそうになったものだ。
そのような景気のいい客ばかりだから、藍那の出番がないか言えばそうでもない。問題は彼らの連れである。
その夜も、さる地方貴族が伴った遠戚の男が、遊び方も知らない田舎者だった。
彼女の悲鳴を聞いた
艶琉は気を失い、ぐったりと床に伏せている。その傍で声を殺し、泣きながら寄り添うのは、世話役の
「先生……艶琉さまを……助けて」
璃娃が顔を上げる。目に溜まった涙が溢れ出し、頬を伝って落ちていく。普段から物静かで、感情をあまり出さない少女だ。その彼女が必死で懇願している。
柴門に助け起こされ、艶琉は意識を取り戻した。乱れた髪がかかる頬に、殴られた痕が痛々しい。藍那がきっと睨みつけると、
「帝都一の上楼ときけばこのざまだ。この娼館は
体格と居丈高な口調から、軍人と見た。腹立たしかったが、感情に流されると負けだ。まずは穏便に――。
「お客さま、困りますね。うちの
「客に出ていけという娼妓など、聞いたこともないわ。主に吠えるしつけの悪い犬を、俺が調教してやったまでよ」
「失礼ですが、他の妓楼はともかく、うちの
「は、ほざくなよ、小娘。出て行かせたいなら、腕ずくでやってみたらどうだ」
「そうですか。それでは失礼いたします」
天星羅を
「ごめんね、これ、ちょっと預かってて」