第15話 異形の記憶
文字数 2,460文字
夜中に尿意を覚えて目を覚ました。
辺りはまだ暗く、夜明けまではまだ間がある。しばらく我慢した後、璃凜は布団から出て、部屋の扉をそっと開けた。長い廊下を歩き、厠で用を足す。
その帰り、廊下で女のすすり泣く声を聞いて思わず足を止めた。女は泣きながら誰かに何かを訴えているようで、璃凜は息をのんで耳をそばだてる。
いったい誰が泣いているんだろう。
この屋敷に寝泊まりしている女といえば、ばあやの圓奼 と侍女の麻里 、母くらいしかいない。でも声の主はまだ若い女のようにも聞こえ、だとすると麻里か母か……。
幼い璃凜はすくんだ足をそっと動かした。大人が泣くのは怖くもあったが、それより好奇心が勝った。足音を立てぬようそろそろと、声が聞こえる方へ廊下を進んでいく。
声は母の寝室がある方から聞こえてきて、そこで璃凜は思い出した。そういえば今日の夕方、《あの人》が久しぶりにこの家に顔を出したのだ。
《あの人》が来るとき、母はいつもより念入りに化粧をする。
結った髪から琅玕 のかんざしをのぞかせ、幾重もの薄絹で華やかに着飾った母を見るのは好きだったが、《あの人》のことは苦手だった。ばあやはとっても偉い方なのですよと言ったけど、猫なで声で璃凜を呼ぶかと思えば、青筋を立て邪険に怒鳴りつけることもある。
近づくにつれ、すすり泣きにくぐもった男の声が混じって聞こえた。もしかして《あの人》が母をいじめているのか。でもそんなわけがない。だって母は剣を使えるし、とっても強いのだ。
だとしたら――。
透かし彫りを施した観音開きの扉から、燭台の光が漏れていた。おそるおそる扉を開け、足音を忍ばせて部屋に入り込む。声がするのは衝立の向こうだ。
端からのぞき込むと、一糸まとわぬ母の姿が目に飛び込んできた。
灯明に妖しく浮かび上がる白い裸身。寝台の上に座り込んだ母が、泣きながら激しく上下に動いている。母の下には《あの人》が仰向けに横たわり、やはりなにも着ていない。
絡み合う二人の裸身、それが璃凜にはとても恐ろしいものとして映った。灯明が作る二人の影が、壁にもぞもぞと動き、まるで一匹の巨大な化け物みたいだ。
まるで母が異形のものに変ってしまったようで、身をすくませ、一歩後ずさる。
ふと、母の動きが止まり、ゆっくりと身をよじらせ――こちらを振り向いた。
母は瞬き一つせず、璃凜へと顔を向ける。それなのに、母の瞳にはなにも映っていない。
硝子玉めいた瞳はとても生きている人間とは思えず、精巧に作られた人形のような薄いまぶたの下に、どこまでも暗く深い虚ろがあるだけだ。
璃凜は叫んだ。母が得体の知れない化け物になってしまったと恐ろしくて泣いた。しかし、気がついたときにはいつものように朝の光が差し込む寝床にいて、すべてが夢だったのだと胸をなで下ろした。いつもと変ったことと言えば、起こしに来たばあやが驚いて
――おやおや、今日は自分で起きられたのですか。いつもこうならいいんですけど。
と笑ったことくらいか。
朝餉をすませて会いに行った母に、なにも変ったところはなかった。
《あの人》が帰った朝はしっかりと湯浴みをして、髪を結い直すのは毎度のことであるし、無表情で感情が読めないのもいつものことだった。
注意深く璃凜が観察しても、足が二本余計に生えているわけでもないようで、やっぱりあれは夢だったのだと安堵した。
その夜に行われた剣の鍛錬のときも、口数の少ない厳しい、いつもの母であった。
「そうじゃない。いいかい、剣指は飾りじゃないんだ。これも武器だということをもっと意識するんだよ。ほら、見ていてあげるから作ってごらん」
母に言われたとおり、左手親指と人差し指中指を立て、薬指小指はたたむ。眼前にかざされたそれを眺めると、母は首を横に振った。
「お前には難しいかもしれないが、指先に勁を集中させるんだ。ちゃんとやれば、この指も立派な武器になる。これをもう一つの剣 だと思うんだよ」
「でも母さま、指は剣より弱いです。ばあやだって……」
母から剣を習うことを、ばあやはあまり良く思っていないのだ。女の子が剣なんて習ってもしょうがない、剣を握ったら指が節くれだってしまうだの、突き指をしたらせっかくきれいな指の形が悪くなるだの、そんなことばかり心配している。
「そりゃ、お前の指はまだ子どもの指だからさ。いいかい、よく見ておいで」
母は庭の片隅から摘んであった薪をとってきた。それを手近な庭石の上に立てて置き、半身になって腰を落とす。右に作った剣指を頬の横まで引いて構えたとたん空気が張り詰め、璃凜の皮膚がぴりぴりと痛んだ。
「哈 !」
気合いとともに指先を薪へ突き立てる。
わずかな静寂。
ほどなくぴしりと鋭い音が響いて薪が真っ二つに裂け、左右に分かれて転げおちた。口をぽかんと開けた璃凜の前で母は黙って薪を拾い集め、ふたたび元の場所へと戻しに行く。
「すごい! すごいです、母さま!」
駆け寄って精一杯の賞賛を送る璃凜を、母は静かに見下ろした。
「功夫 次第で、お前もできるようになるさ。なんて言っても、お前はあの人の……」
そこで言葉を飲み込み、なにかから逃げるように母は顔をそむけた。
母が言った《あの人》とは父のことなのか――そう尋ねたい衝動に駆られても、口にするのは子供心にもはばかられた。
それから数年、いったい自分は誰の子なのかとその疑問を胸に抱えながら、璃凜は木剣を振り続けた。いつか強くなり、母と対等になったあかつきには、そのことを話してくれるのではないかと淡い期待を抱いて。
* * *
杏奈が羽箭 からの手紙を受け取り、役人が探しているという剣の特徴を教えてくれたのは、蟹月も終わるころ、母藍那の月命日が済んだ二十六日のことだった。
辺りはまだ暗く、夜明けまではまだ間がある。しばらく我慢した後、璃凜は布団から出て、部屋の扉をそっと開けた。長い廊下を歩き、厠で用を足す。
その帰り、廊下で女のすすり泣く声を聞いて思わず足を止めた。女は泣きながら誰かに何かを訴えているようで、璃凜は息をのんで耳をそばだてる。
いったい誰が泣いているんだろう。
この屋敷に寝泊まりしている女といえば、ばあやの
幼い璃凜はすくんだ足をそっと動かした。大人が泣くのは怖くもあったが、それより好奇心が勝った。足音を立てぬようそろそろと、声が聞こえる方へ廊下を進んでいく。
声は母の寝室がある方から聞こえてきて、そこで璃凜は思い出した。そういえば今日の夕方、《あの人》が久しぶりにこの家に顔を出したのだ。
《あの人》が来るとき、母はいつもより念入りに化粧をする。
結った髪から
近づくにつれ、すすり泣きにくぐもった男の声が混じって聞こえた。もしかして《あの人》が母をいじめているのか。でもそんなわけがない。だって母は剣を使えるし、とっても強いのだ。
だとしたら――。
透かし彫りを施した観音開きの扉から、燭台の光が漏れていた。おそるおそる扉を開け、足音を忍ばせて部屋に入り込む。声がするのは衝立の向こうだ。
端からのぞき込むと、一糸まとわぬ母の姿が目に飛び込んできた。
灯明に妖しく浮かび上がる白い裸身。寝台の上に座り込んだ母が、泣きながら激しく上下に動いている。母の下には《あの人》が仰向けに横たわり、やはりなにも着ていない。
絡み合う二人の裸身、それが璃凜にはとても恐ろしいものとして映った。灯明が作る二人の影が、壁にもぞもぞと動き、まるで一匹の巨大な化け物みたいだ。
まるで母が異形のものに変ってしまったようで、身をすくませ、一歩後ずさる。
ふと、母の動きが止まり、ゆっくりと身をよじらせ――こちらを振り向いた。
母は瞬き一つせず、璃凜へと顔を向ける。それなのに、母の瞳にはなにも映っていない。
硝子玉めいた瞳はとても生きている人間とは思えず、精巧に作られた人形のような薄いまぶたの下に、どこまでも暗く深い虚ろがあるだけだ。
璃凜は叫んだ。母が得体の知れない化け物になってしまったと恐ろしくて泣いた。しかし、気がついたときにはいつものように朝の光が差し込む寝床にいて、すべてが夢だったのだと胸をなで下ろした。いつもと変ったことと言えば、起こしに来たばあやが驚いて
――おやおや、今日は自分で起きられたのですか。いつもこうならいいんですけど。
と笑ったことくらいか。
朝餉をすませて会いに行った母に、なにも変ったところはなかった。
《あの人》が帰った朝はしっかりと湯浴みをして、髪を結い直すのは毎度のことであるし、無表情で感情が読めないのもいつものことだった。
注意深く璃凜が観察しても、足が二本余計に生えているわけでもないようで、やっぱりあれは夢だったのだと安堵した。
その夜に行われた剣の鍛錬のときも、口数の少ない厳しい、いつもの母であった。
「そうじゃない。いいかい、剣指は飾りじゃないんだ。これも武器だということをもっと意識するんだよ。ほら、見ていてあげるから作ってごらん」
母に言われたとおり、左手親指と人差し指中指を立て、薬指小指はたたむ。眼前にかざされたそれを眺めると、母は首を横に振った。
「お前には難しいかもしれないが、指先に勁を集中させるんだ。ちゃんとやれば、この指も立派な武器になる。これをもう一つの
「でも母さま、指は剣より弱いです。ばあやだって……」
母から剣を習うことを、ばあやはあまり良く思っていないのだ。女の子が剣なんて習ってもしょうがない、剣を握ったら指が節くれだってしまうだの、突き指をしたらせっかくきれいな指の形が悪くなるだの、そんなことばかり心配している。
「そりゃ、お前の指はまだ子どもの指だからさ。いいかい、よく見ておいで」
母は庭の片隅から摘んであった薪をとってきた。それを手近な庭石の上に立てて置き、半身になって腰を落とす。右に作った剣指を頬の横まで引いて構えたとたん空気が張り詰め、璃凜の皮膚がぴりぴりと痛んだ。
「
気合いとともに指先を薪へ突き立てる。
わずかな静寂。
ほどなくぴしりと鋭い音が響いて薪が真っ二つに裂け、左右に分かれて転げおちた。口をぽかんと開けた璃凜の前で母は黙って薪を拾い集め、ふたたび元の場所へと戻しに行く。
「すごい! すごいです、母さま!」
駆け寄って精一杯の賞賛を送る璃凜を、母は静かに見下ろした。
「
そこで言葉を飲み込み、なにかから逃げるように母は顔をそむけた。
母が言った《あの人》とは父のことなのか――そう尋ねたい衝動に駆られても、口にするのは子供心にもはばかられた。
それから数年、いったい自分は誰の子なのかとその疑問を胸に抱えながら、璃凜は木剣を振り続けた。いつか強くなり、母と対等になったあかつきには、そのことを話してくれるのではないかと淡い期待を抱いて。
* * *
杏奈が