第30話 戻った声
文字数 3,323文字
夜着から麻の単衣に着替える。廊下へ出ると由真が音を立てぬようそろそろと床を拭いていた。藍那がうるさくないようにとの配慮なのだが、その後ろ姿はまるで尺取り虫だ。つい笑ってしまい、声をかける。
「おはよう由真、もう大丈夫だよ」
「せんせいっ!」
振り向きざま立ち上がり、満面の笑みを浮かべた由真が手ぬぐいを放り投げて抱きついた。うれし涙を浮かべ、声を震わせる。
「先生、よかった、よかったです」
「大げさだね。ちょっと腹を打たれて熱を出しただけだから。ほら、もうどこも痛くない」
「ね、また今日から勉強を見てもらえますか? やっぱり先生の姿が見えないと寂しいし、つまらないです」
「もちろんよ。ただ、今日はちょっと用事があるからね。明日からでも良ければ、だけど」
「はい……あ、お嬢さま」
振り向くと手桶を抱えた秧真が、落胆した表情で佇んでいる。
「お嬢さまおはようございます。おかげでこの通りすっかり良くなりました。用心棒に多大なるお心遣い、誠にありがとうございます」
「はあ、あの……顔を洗うお水を持ってきたのですが」
「ああ、これは。ではこれはお気持ちだけいただいておきましょう。それではお嬢さま、また後ほど」
まだなにか言いたげな秧真を残して、顔を洗うために裏の水場へと向かった。すれ違う使用人たちが藍那を見て、
「おやおや、これは先生。もうよろしいので」
「こいつはめでてえ。ようやく金亀楼も元通りになったってことで」
と一様に顔をほころばせる。そのうちの一人、下男の財取 に訊ねたところ紫園は台所で水くみの最中らしい。そうかと外へ出て、裏の水場へと向かう。
外へ出ると久しぶりに見る陽光が目に痛い。朝から暑く、賄い方の女たちが野菜を洗いながら涼を取っていた。
「あら先生、やっと出られたんですね。みんな心配していたんですよ」
「ありがとう皆さん。おかげでこの通り、すっかり元通りになりました」
そんなやりとりのあと、流れ出す水で顔を洗った。療養中は秧真が運んでくれた手桶の水を使っていたのだが、どうも洗った気がしない。ざばざばと豪快に水しぶきを上げる方が自分に合っている。おかげで気分も爽快だ。
手ぬぐいで顔を拭き、髪を束ね直してから賄い方へと足を向けた。朝餉の支度のさなか、厨房は蜂の巣をつついたような喧噪だ。大鍋から沸き立つ湯気と漂う香辛料の匂い。そっと扉の陰から伺えば、水くみを終えた紫園が汗をふきふき大鍋の灰汁をすくっている。奥の作業台では亜慈が肉切り包丁で鳥をさばいていた。
意外だったのは例の三人組の一人、藍那が昏倒させた藩座 が亜慈の隣で巨体を縮ませながら包丁を動かしていることだ。どうやら藍那が寝ているあいだ、賄い方に配置換えされたらしい。
「あ、先生!」
顔を上げた下働きの女が声を上げた。とたんに全員の手が止まり、視線が藍那に集中する。
「先生、これはなんと!」
亜慈が両手を開いて満面の笑みを浮かべた。手にしていた肉切り包丁を慌てて作業台の上に置くと、足早に藍那に歩みよる。前掛けで手を拭いてから両肩を抱き、背中を叩いた。
「みんなで先生が戻ってくるのを待っておりやした。今日か明日かってね。なんでも柴門 の話じゃあ、無敗の藍那がとうとう負げたと街で噂になってるらしいんすが、まったく冗談じゃねえ」
相変わらずの南部訛りに藍那は笑って答える。
「ははは、ずいぶんと派手に負けたからね。ま、仕方がないさ。勝つときもあれば負けるときもあるのが勝負だからね。それより忙しいところにすまなかった。今から手伝うよ。ずっと寝ていたせいで身体がなまっちまったんでね。働いて少し肩慣らしがしたいんだ」
「いやいや、とんでもねえす。病み上がりの先生にそんなごとさせらんねえ。紫園もずうっと、先生のことえれえ心配してまして。ほら紫園、お待ちかねの先生だぞ」
周囲の女たちが一斉にくすくすと笑って紫園の居るほうを見た。藍那も顔をかしげて亜慈の巨体ごしにそちらを伺う。
視線の先には耳まで真っ赤になった紫園が、玉じゃくしを片手に立ち尽くしている。藍那の前に進み出ると杓子を放り投げて膝を突き
「申し訳ありませんでした!」
深々と額を地につけた。
***
――これじゃ仕事になんねえすから、どっか行って二人で話してきてください。
亜慈の気遣いで厨房をあとにし、勝手口から出て人気のない裏を通って洗濯部屋へと行った。そう広くない部屋の木壁にいくつもの大きな麻袋がかけられている。
この部屋に汚れた敷布や掛布、娼妓たちの襦袢や夜着が集められ、麻袋に詰められて出入りの洗濯女たちに引き渡されるのだ。
今の時間は誰もおらず、二人きりで話すにはちょうどよい。
「さて、しゃべれるようになったから話は早いね。紫園、お前さんが知っていることを聞きたい。あの日、私を助けたことは覚えている?」
そう訊ねるとうなだれた紫園が首を横に振る。
「ぼく、なにも覚えていないんです。先生がヤクザからぼくを助けてくれたことまでは分かっています。でもそのあとのことはさっぱり……。気がついたら金亀楼にいて、先生が死んだみたいにぐったりして、それを柴門さんや他のみんなが必死で介抱していて……」
「ふむ……じゃあ、私が蔵人から預かった剣のことは覚えているね」
「はい、それは。でもあれから見てません」
「そうか。あの剣に心当たりはある? 今までどこか別の場所であの剣を見たことは?」
「ないです……といっても、忘れているだけかも……」
「つまり、記憶はまだ戻っていない」
頷いた表情はまるで雨に濡れた子犬である。藍那は両手を腰に当て、そんな紫園の顔をのぞき込んだ。
「紫園、言っておくが私はお前に助けられたんだ。私が怪我をしたのは弱かったからで、別にお前のせいでもなんでもない。お前が助けてくれなければ、私はとっくにあの世に行っている。礼を言うよ、ありがとう」
「そんな、とんでもないです。ぼくがまた何かしてしまったせいで先生は……。それにぼくは……あれから……」
「あれから?」
そう訊ねた藍那は、だらりと下げた紫園の拳が小刻みに震えているのに気がついた。
「自分が怖いんです。覚えてないときの自分が何をしていたのか、それを考えると。賄い方のみんなや由真はそうじゃないけど、あれから金亀楼の人たちが、なんとなく余所余所 しいんです。なんだか腫れ物にさわるみたいで」
藍那の連れが凄腕の剣客をあっというまに返り討ちにした。
そんな噂はきっと帝都じゅうに広まっているに違いない。金亀楼で働くものたちも当然耳に入れているだろうし、そのことで紫園への接し方が変ってしまうのは仕方のないことだ。
「先生、正直に言ってください。ぼくは、もうここに居ない方がいいんでしょうか」
「それを決めるのは私じゃないよ。形式上私が面倒を見ているけれど、紫園は金亀楼の使用人なんだから。旦那さまは何か仰ったの?」
「いいえ、なにか特に言われたりはしませんでした。突然話せるようになって、驚いてはいましたけど」
「そりゃそうだね。もし紫園になにかお咎めがあるなら、旦那さまがとっくに仰っているはずだ」
そう言ってうなだれた紫園の両頬を包み込んだ。
「なにも言われてないのなら、今までどおりここで働けばいい。お前は私の命の恩人なんだから、もっと胸をはりなさい」
驚いて見開かれた紫色の瞳が、藍那をじっと見る。
あの時、泰雅 の剣客を見事な剣さばきで倒した《彼》。その片鱗はもう何処にもない。力強く、図々しくもあり、それでいてさりげない気遣いと優しさ。
いま藍那の目の前にいるのは、いつもの頼りない弟のような紫園だ。そのことに安堵しながらもどかしさを覚えてしまうのは何故か。そんな己に戸惑いながら、紫園の頬から手を離した。
「それじゃあ、紫園はもう台所に戻って亜慈さんの手伝いをして。私はこれから旦那さまのところへ行ってくる」
「おはよう由真、もう大丈夫だよ」
「せんせいっ!」
振り向きざま立ち上がり、満面の笑みを浮かべた由真が手ぬぐいを放り投げて抱きついた。うれし涙を浮かべ、声を震わせる。
「先生、よかった、よかったです」
「大げさだね。ちょっと腹を打たれて熱を出しただけだから。ほら、もうどこも痛くない」
「ね、また今日から勉強を見てもらえますか? やっぱり先生の姿が見えないと寂しいし、つまらないです」
「もちろんよ。ただ、今日はちょっと用事があるからね。明日からでも良ければ、だけど」
「はい……あ、お嬢さま」
振り向くと手桶を抱えた秧真が、落胆した表情で佇んでいる。
「お嬢さまおはようございます。おかげでこの通りすっかり良くなりました。用心棒に多大なるお心遣い、誠にありがとうございます」
「はあ、あの……顔を洗うお水を持ってきたのですが」
「ああ、これは。ではこれはお気持ちだけいただいておきましょう。それではお嬢さま、また後ほど」
まだなにか言いたげな秧真を残して、顔を洗うために裏の水場へと向かった。すれ違う使用人たちが藍那を見て、
「おやおや、これは先生。もうよろしいので」
「こいつはめでてえ。ようやく金亀楼も元通りになったってことで」
と一様に顔をほころばせる。そのうちの一人、下男の
外へ出ると久しぶりに見る陽光が目に痛い。朝から暑く、賄い方の女たちが野菜を洗いながら涼を取っていた。
「あら先生、やっと出られたんですね。みんな心配していたんですよ」
「ありがとう皆さん。おかげでこの通り、すっかり元通りになりました」
そんなやりとりのあと、流れ出す水で顔を洗った。療養中は秧真が運んでくれた手桶の水を使っていたのだが、どうも洗った気がしない。ざばざばと豪快に水しぶきを上げる方が自分に合っている。おかげで気分も爽快だ。
手ぬぐいで顔を拭き、髪を束ね直してから賄い方へと足を向けた。朝餉の支度のさなか、厨房は蜂の巣をつついたような喧噪だ。大鍋から沸き立つ湯気と漂う香辛料の匂い。そっと扉の陰から伺えば、水くみを終えた紫園が汗をふきふき大鍋の灰汁をすくっている。奥の作業台では亜慈が肉切り包丁で鳥をさばいていた。
意外だったのは例の三人組の一人、藍那が昏倒させた
「あ、先生!」
顔を上げた下働きの女が声を上げた。とたんに全員の手が止まり、視線が藍那に集中する。
「先生、これはなんと!」
亜慈が両手を開いて満面の笑みを浮かべた。手にしていた肉切り包丁を慌てて作業台の上に置くと、足早に藍那に歩みよる。前掛けで手を拭いてから両肩を抱き、背中を叩いた。
「みんなで先生が戻ってくるのを待っておりやした。今日か明日かってね。なんでも
相変わらずの南部訛りに藍那は笑って答える。
「ははは、ずいぶんと派手に負けたからね。ま、仕方がないさ。勝つときもあれば負けるときもあるのが勝負だからね。それより忙しいところにすまなかった。今から手伝うよ。ずっと寝ていたせいで身体がなまっちまったんでね。働いて少し肩慣らしがしたいんだ」
「いやいや、とんでもねえす。病み上がりの先生にそんなごとさせらんねえ。紫園もずうっと、先生のことえれえ心配してまして。ほら紫園、お待ちかねの先生だぞ」
周囲の女たちが一斉にくすくすと笑って紫園の居るほうを見た。藍那も顔をかしげて亜慈の巨体ごしにそちらを伺う。
視線の先には耳まで真っ赤になった紫園が、玉じゃくしを片手に立ち尽くしている。藍那の前に進み出ると杓子を放り投げて膝を突き
「申し訳ありませんでした!」
深々と額を地につけた。
***
――これじゃ仕事になんねえすから、どっか行って二人で話してきてください。
亜慈の気遣いで厨房をあとにし、勝手口から出て人気のない裏を通って洗濯部屋へと行った。そう広くない部屋の木壁にいくつもの大きな麻袋がかけられている。
この部屋に汚れた敷布や掛布、娼妓たちの襦袢や夜着が集められ、麻袋に詰められて出入りの洗濯女たちに引き渡されるのだ。
今の時間は誰もおらず、二人きりで話すにはちょうどよい。
「さて、しゃべれるようになったから話は早いね。紫園、お前さんが知っていることを聞きたい。あの日、私を助けたことは覚えている?」
そう訊ねるとうなだれた紫園が首を横に振る。
「ぼく、なにも覚えていないんです。先生がヤクザからぼくを助けてくれたことまでは分かっています。でもそのあとのことはさっぱり……。気がついたら金亀楼にいて、先生が死んだみたいにぐったりして、それを柴門さんや他のみんなが必死で介抱していて……」
「ふむ……じゃあ、私が蔵人から預かった剣のことは覚えているね」
「はい、それは。でもあれから見てません」
「そうか。あの剣に心当たりはある? 今までどこか別の場所であの剣を見たことは?」
「ないです……といっても、忘れているだけかも……」
「つまり、記憶はまだ戻っていない」
頷いた表情はまるで雨に濡れた子犬である。藍那は両手を腰に当て、そんな紫園の顔をのぞき込んだ。
「紫園、言っておくが私はお前に助けられたんだ。私が怪我をしたのは弱かったからで、別にお前のせいでもなんでもない。お前が助けてくれなければ、私はとっくにあの世に行っている。礼を言うよ、ありがとう」
「そんな、とんでもないです。ぼくがまた何かしてしまったせいで先生は……。それにぼくは……あれから……」
「あれから?」
そう訊ねた藍那は、だらりと下げた紫園の拳が小刻みに震えているのに気がついた。
「自分が怖いんです。覚えてないときの自分が何をしていたのか、それを考えると。賄い方のみんなや由真はそうじゃないけど、あれから金亀楼の人たちが、なんとなく
藍那の連れが凄腕の剣客をあっというまに返り討ちにした。
そんな噂はきっと帝都じゅうに広まっているに違いない。金亀楼で働くものたちも当然耳に入れているだろうし、そのことで紫園への接し方が変ってしまうのは仕方のないことだ。
「先生、正直に言ってください。ぼくは、もうここに居ない方がいいんでしょうか」
「それを決めるのは私じゃないよ。形式上私が面倒を見ているけれど、紫園は金亀楼の使用人なんだから。旦那さまは何か仰ったの?」
「いいえ、なにか特に言われたりはしませんでした。突然話せるようになって、驚いてはいましたけど」
「そりゃそうだね。もし紫園になにかお咎めがあるなら、旦那さまがとっくに仰っているはずだ」
そう言ってうなだれた紫園の両頬を包み込んだ。
「なにも言われてないのなら、今までどおりここで働けばいい。お前は私の命の恩人なんだから、もっと胸をはりなさい」
驚いて見開かれた紫色の瞳が、藍那をじっと見る。
あの時、
いま藍那の目の前にいるのは、いつもの頼りない弟のような紫園だ。そのことに安堵しながらもどかしさを覚えてしまうのは何故か。そんな己に戸惑いながら、紫園の頬から手を離した。
「それじゃあ、紫園はもう台所に戻って亜慈さんの手伝いをして。私はこれから旦那さまのところへ行ってくる」