第51話 秘密を知るもの
文字数 4,217文字
口元をきつく抑え、息を殺して辺りをうかがう。暗闇のなか、静寂に耳を澄ませた。廊下を歩くものは一人もおらず、あたりはしんとしている。
ようやく手のひらを外し、大きく息を吐いた。頬に流れていた涙を拭う。我に返れば、額にも背中にもびっしりと汗をかいていた。この季節になれば、流石に夜中は冷える。
寝台をおり、窓から差し込む灯火を頼りに、衣装箱をさぐる。汗を吸った夜着を脱ぎ捨て、下着を取り替えた。
このまま眠る気になれなかった。満月まであと五日という夜。月は西に傾いていたが、沈むにはまだ間がある。中庭で套路を打つにはいい頃合いだ。
下着の上に、着慣れた木綿の長衣をまとう。袴を履いて帯を締める。急かされるように、寝台から天星羅を掴みだした。窓を背に柄 を引く。
灯りに照らされる剣身はいつもと同じ。浮かび上がるのは、七星と一匹の龍。しかし研ぎに出せていないせいで、細かな傷が、あちこちついたままになっている。
深い溜め息をつき、その場に腰を下ろした。
淫らな夢を見たのは、これで二度目だ。最初は二日前、そして今日の悪夢。
――璃凜。お前も私と同じ過ちを犯すのかい。
あの声が耳にこびりついて離れない。
自死したものの魂は、天に上がることなくこの世に縛られると聞く。だとすると、母は成仏することなく、今でもこの世を彷徨 っているのだろうか。そして紫園に惹かれ始めている自分を、快く思っていないのだろうか。
晴夫が帝都を出てから四日がたった。
あの夜から、紫園と藍那には、若干ぎこちない空気が漂っている。それは傍目にも分かるらしく、由真が心配して、
――先生、紫園さんと喧嘩でもしたのですか?
と訊ねたほどだ。
別に喧嘩をしたとか、行き違いがあったわけでもない。ただなぜか気まずいのだ。加えて、情を交わす夢など見てしまった。それ以降、顔を合わせるだけで赤面してしまう。
そんなわけで、このごろ、紫園との会話がまったく弾まなかった。
(母は私を戒めているのか。剣の道のさなかにあるものが、色恋沙汰などど……)
そもそも紫園は弟子だ。師匠と弟子は親子も同然、恋情などもってのほか――母はそう言いたいのかもしれない。
(だとしたら、やはり私は……)
藍那は立ち上がり、首を横に振った。
今は浮かれているときではない。晴夫 のおかげで、周囲はひとまず静かになった。とはいえ、またいつ、花郎党 の魔手が伸びてくるか分からないのだ。
感謝祭が終わったら荒羅塔へと出立し、そこに龍三辰 をおさめる。その使命をおえるまで、他のことに気を取られてはならない。
扉を開け、足音を立てぬよう勝手口から外へ出た。回廊をめぐり、中庭に出る。あたりの空気は、濃厚な水と緑の匂いに満ちていた。
大噴水からほとばしる飛沫が、周囲に冷気を漂わせている。藍那はぶるりと身を震わせた。昼間は盛夏を思わせる暑さだったのに、夜はまるで晩秋を思わせる肌寒さ。
噴水の前に立ち、内息に意識を集中した。呼吸を整えるうち、勁が全身をめぐり、寒さがどこかへ消えていく。
打つ套路は決まっていた。双極剣第三十四式《散華》。母の夢を見た夜に、これほどふさわしい套路はないだろう。
起式 。柄 を握った左手と、剣指を作った右手を、肩の高さで揃える。
柄が握り直され、構えられた剣先が天を指す。
足が地を滑り、空 を突いた剣が、旋転して前方を薙ぎ払う。剣身が虚空を切り裂く。再び旋転し、目に見えぬ眼前の敵を突く。
独立反刺俯歩横掃
向陰平帯向陽平帯
――どうか母さま、心配なさらないでください。あなたの娘は道を誤りません。
そう祈りながら、剣を振り続ける。
挑 剣から崩 剣、そしてまた挑剣。跳ね上げては振り下ろし、また跳ね上げる。
点 剣の動作で、眉間を素早く突く。抹 剣で引き戻してからの崩剣で、敵の剣を弾きあげる。
独立天刺虚歩地戴
陽弓歩刺転身斜帯
とん。
藍那の足が地を蹴って、ひらりと宙を飛んだ。
截 剣は相手の動きを止めながら、攻撃も兼ねる動作だ。しなった身体が着地と同時に反転、振り向きざま、刃が大きく空 を斬る。三度斬り上げてから、素早く突く――。
そのとき何の前触れもなく、突如周囲の音が絶えた。
* * *
大噴水の水音が、風にそよぐ葉むらの音が、いっせいに消える。
ただならぬ気配に顔を上げ、思わず息を呑んだ。
水が絶えた噴水のてっぺんに、男が一人立っている。月光を受けて光る、赤みがかった栗色の髪。
鎮座する海神 の頭 を踏みつけた、傲岸不遜な表情は――。
「紫園……」
いや、いつもの紫園ではなかった。あの穏やかな光を宿した双眸が、今は冬の湖面のように、冷たく澄んでいる。藍那の動作を一挙一動、仔細に見聞し、値踏みするものの目だった。そう、璃凜に套路を教えていた母と同じ――。
海神 の頭 を蹴り、紫園は地上へと降り立った。再び噴水がしぶきを上げ、風が葉むらを揺らす。
「お前のその套路、双極剣第三十四式《散華》だな」
彼の視線が、藍那の顔から天星羅へと降りていく。
「十一番から十二番へかけて、動作が早すぎる。次の動作へ早く行こうと焦りすぎて、截 剣がおろそかになっている」
「う……」
そういえばいつか遠い昔、同じようなことを母から言われなかったか。
「截 剣は敵の動きを止めると同時に、相手を崩す。ちゃんとやれば、向こうが自分から崩れてくれるんだ。焦って斬ろうとするな」
そう言うと、黙って左手をこちらに差し出した。
気づいたときには、天星羅の柄 が彼の手に収まっている。そういえばと思い出した。初めて会った日も、これと同じことがあった。
藩座 が騒ぎを起こしたあのときも、奇妙な力が働いて、天星羅が彼を引き寄せたのではなかったか。
藍那が呆然とするまえで、紫園は視線を前方に据えた。
起式の動作。柄を握った左手と、剣指を作った右手を、肩の高さで揃える。柄が握り直され、構えられた剣先が天を指す。
足が地を滑る。空を突いた剣身が旋転し、すかさず前方を薙ぎ払う。
刃が虚空を切り裂いて再び旋転し、目に見えぬ眼前の敵を素早く突く――。
見事な套路であった。
既に藍那の一部と化した套路なのに、何もかもが違っている。
葉むらを揺らす風、二人をじっと見下ろす木々、溢れ出す水。
地を照らす月光、漆黒に瞬く星。
それら全てが、紫園の動作と呼応していた。連続する勁の流れは、一瞬と永劫を絶え間なく生み出す。それはこの世界で繰り返される、生と死の凝縮だ。技はたしかにそこにあったのに、気づいた時には残像でしかない。
まるで、無限に打ち寄せる波のよう――。
いや、もはや剣技の粋を超え、太陽や月、星々の運行とおなじ、大宇宙の営みだ。
(母さまの套路と同じ……)
地を蹴った紫園の身体が、宙を舞う。着地と同時に反転した。
一瞬の空 を斬る。そのまま三度斬り上げてから――、
「――――!?」
藍那は我が目を疑った。
* * *
なんということだろう。
自分の目がまだ信じられない。驚愕のあまり声も出なかった。
西へと傾いた月は、満月まであと五日。その光を受けた刃が、自ら発光している。放たれた光は細かな粒となって、剣身をすべりおちていった。
そこから一閃、二閃、三閃。
紫園の剣が宙を斬り裂いた。輝く白刃 が、弧を描いて振りあげられる。きらめく鱗粉はあたりへ散り、やがてはかなく消えていった。
陽虚歩撩陰弓歩撩
転身回抽並歩平刺
あのときと同じだった。初めて母の套路を見たあの時と。
母は月の光を斬っていたのではなかった。あのとき天星羅は自ら輝いていた。それを自分は、剣身が月光を照り返したと思っていたのだ。
迎風撣払順水推舟
流星赶月天馬行空
剣はしなやかに踊り続ける。ほのかな月明かりのもと、套路を打つ彼は、剣身に刻まれた龍そのものであった。
計り知れないと思った。
まるでどこまでも透明な、底の見えない淵を覗いている気分だ。
美しく、それでいて恐ろしい。
丁歩回抽懐中抱月
旋転平抹風掃梅花
套路が終わると同時に、放たれた光も失われる。
こちらを向いた紫園に、藍那は無言だった。何を言うべきなのか分からない。水音が二人の沈黙を際立たせ、いたずらに時間だけが過ぎていく。
口を開いたのは紫園だ。藍那へ歩み寄ると、天星羅を差し出して言った。
「剣身を見ろ」
言われるままに剣身を眺め、目をむいた。
「これは!」
蔵人の戦いでついた傷が、一つ残らずきれいに消えている。研ぎたてのような混じりけのない輝きに、藍那は瞬時に全てを理解した。
晴夫 が言っていた天星羅の秘密。
一見普通の鋼だが、なかには別の金属 が使われているのではないか――。
「これがこの剣の力だ。どんな傷でも己の力で治す。ただし遣い手には、それ相応の勁力 が必要だ。内勁と天星羅を同調させ、共鳴させる。今のように」
「あなたは……」
受け取った天星羅から視線を上げ、藍那は訊ねた。
「なぜそれを知っているの? 私は母から何も聞いていなかった。あなた、いったい何者?」
「俺は自分が誰か、なにも覚えていない。その点については、もうひとりの俺とたいして違いはない。ただ、その剣についてはなぜだか知っていた。それだけだ」
「それだけって……他に知っていることは?」
「さあ、どうだろうな……」
紫園はそう言って空を見上げた。いつの間にか月が、建物の影に姿を隠そうとしている。その月を眺め、ふいに口元に不敵な笑みが浮かんだ。
紫園の視線が、ふたたび藍那へと据えられる。からかうような口調で彼が言った。
「訊きたいことがあるなら、力づくで聞きだしてみたらどうだ」
ようやく手のひらを外し、大きく息を吐いた。頬に流れていた涙を拭う。我に返れば、額にも背中にもびっしりと汗をかいていた。この季節になれば、流石に夜中は冷える。
寝台をおり、窓から差し込む灯火を頼りに、衣装箱をさぐる。汗を吸った夜着を脱ぎ捨て、下着を取り替えた。
このまま眠る気になれなかった。満月まであと五日という夜。月は西に傾いていたが、沈むにはまだ間がある。中庭で套路を打つにはいい頃合いだ。
下着の上に、着慣れた木綿の長衣をまとう。袴を履いて帯を締める。急かされるように、寝台から天星羅を掴みだした。窓を背に
灯りに照らされる剣身はいつもと同じ。浮かび上がるのは、七星と一匹の龍。しかし研ぎに出せていないせいで、細かな傷が、あちこちついたままになっている。
深い溜め息をつき、その場に腰を下ろした。
淫らな夢を見たのは、これで二度目だ。最初は二日前、そして今日の悪夢。
――璃凜。お前も私と同じ過ちを犯すのかい。
あの声が耳にこびりついて離れない。
自死したものの魂は、天に上がることなくこの世に縛られると聞く。だとすると、母は成仏することなく、今でもこの世を
晴夫が帝都を出てから四日がたった。
あの夜から、紫園と藍那には、若干ぎこちない空気が漂っている。それは傍目にも分かるらしく、由真が心配して、
――先生、紫園さんと喧嘩でもしたのですか?
と訊ねたほどだ。
別に喧嘩をしたとか、行き違いがあったわけでもない。ただなぜか気まずいのだ。加えて、情を交わす夢など見てしまった。それ以降、顔を合わせるだけで赤面してしまう。
そんなわけで、このごろ、紫園との会話がまったく弾まなかった。
(母は私を戒めているのか。剣の道のさなかにあるものが、色恋沙汰などど……)
そもそも紫園は弟子だ。師匠と弟子は親子も同然、恋情などもってのほか――母はそう言いたいのかもしれない。
(だとしたら、やはり私は……)
藍那は立ち上がり、首を横に振った。
今は浮かれているときではない。
感謝祭が終わったら荒羅塔へと出立し、そこに
扉を開け、足音を立てぬよう勝手口から外へ出た。回廊をめぐり、中庭に出る。あたりの空気は、濃厚な水と緑の匂いに満ちていた。
大噴水からほとばしる飛沫が、周囲に冷気を漂わせている。藍那はぶるりと身を震わせた。昼間は盛夏を思わせる暑さだったのに、夜はまるで晩秋を思わせる肌寒さ。
噴水の前に立ち、内息に意識を集中した。呼吸を整えるうち、勁が全身をめぐり、寒さがどこかへ消えていく。
打つ套路は決まっていた。双極剣第三十四式《散華》。母の夢を見た夜に、これほどふさわしい套路はないだろう。
柄が握り直され、構えられた剣先が天を指す。
足が地を滑り、
独立反刺俯歩横掃
向陰平帯向陽平帯
――どうか母さま、心配なさらないでください。あなたの娘は道を誤りません。
そう祈りながら、剣を振り続ける。
独立天刺虚歩地戴
陽弓歩刺転身斜帯
とん。
藍那の足が地を蹴って、ひらりと宙を飛んだ。
そのとき何の前触れもなく、突如周囲の音が絶えた。
* * *
大噴水の水音が、風にそよぐ葉むらの音が、いっせいに消える。
ただならぬ気配に顔を上げ、思わず息を呑んだ。
水が絶えた噴水のてっぺんに、男が一人立っている。月光を受けて光る、赤みがかった栗色の髪。
鎮座する
「紫園……」
いや、いつもの紫園ではなかった。あの穏やかな光を宿した双眸が、今は冬の湖面のように、冷たく澄んでいる。藍那の動作を一挙一動、仔細に見聞し、値踏みするものの目だった。そう、璃凜に套路を教えていた母と同じ――。
「お前のその套路、双極剣第三十四式《散華》だな」
彼の視線が、藍那の顔から天星羅へと降りていく。
「十一番から十二番へかけて、動作が早すぎる。次の動作へ早く行こうと焦りすぎて、
「う……」
そういえばいつか遠い昔、同じようなことを母から言われなかったか。
「
そう言うと、黙って左手をこちらに差し出した。
気づいたときには、天星羅の
藍那が呆然とするまえで、紫園は視線を前方に据えた。
起式の動作。柄を握った左手と、剣指を作った右手を、肩の高さで揃える。柄が握り直され、構えられた剣先が天を指す。
足が地を滑る。空を突いた剣身が旋転し、すかさず前方を薙ぎ払う。
刃が虚空を切り裂いて再び旋転し、目に見えぬ眼前の敵を素早く突く――。
見事な套路であった。
既に藍那の一部と化した套路なのに、何もかもが違っている。
葉むらを揺らす風、二人をじっと見下ろす木々、溢れ出す水。
地を照らす月光、漆黒に瞬く星。
それら全てが、紫園の動作と呼応していた。連続する勁の流れは、一瞬と永劫を絶え間なく生み出す。それはこの世界で繰り返される、生と死の凝縮だ。技はたしかにそこにあったのに、気づいた時には残像でしかない。
まるで、無限に打ち寄せる波のよう――。
いや、もはや剣技の粋を超え、太陽や月、星々の運行とおなじ、大宇宙の営みだ。
(母さまの套路と同じ……)
地を蹴った紫園の身体が、宙を舞う。着地と同時に反転した。
一瞬の
ため
。それから振り向きざま、刃が大きく「――――!?」
藍那は我が目を疑った。
* * *
なんということだろう。
自分の目がまだ信じられない。驚愕のあまり声も出なかった。
西へと傾いた月は、満月まであと五日。その光を受けた刃が、自ら発光している。放たれた光は細かな粒となって、剣身をすべりおちていった。
そこから一閃、二閃、三閃。
紫園の剣が宙を斬り裂いた。輝く
陽虚歩撩陰弓歩撩
転身回抽並歩平刺
あのときと同じだった。初めて母の套路を見たあの時と。
母は月の光を斬っていたのではなかった。あのとき天星羅は自ら輝いていた。それを自分は、剣身が月光を照り返したと思っていたのだ。
迎風撣払順水推舟
流星赶月天馬行空
剣はしなやかに踊り続ける。ほのかな月明かりのもと、套路を打つ彼は、剣身に刻まれた龍そのものであった。
計り知れないと思った。
まるでどこまでも透明な、底の見えない淵を覗いている気分だ。
美しく、それでいて恐ろしい。
丁歩回抽懐中抱月
旋転平抹風掃梅花
套路が終わると同時に、放たれた光も失われる。
こちらを向いた紫園に、藍那は無言だった。何を言うべきなのか分からない。水音が二人の沈黙を際立たせ、いたずらに時間だけが過ぎていく。
口を開いたのは紫園だ。藍那へ歩み寄ると、天星羅を差し出して言った。
「剣身を見ろ」
言われるままに剣身を眺め、目をむいた。
「これは!」
蔵人の戦いでついた傷が、一つ残らずきれいに消えている。研ぎたてのような混じりけのない輝きに、藍那は瞬時に全てを理解した。
一見普通の鋼だが、なかには別の
「これがこの剣の力だ。どんな傷でも己の力で治す。ただし遣い手には、それ相応の
「あなたは……」
受け取った天星羅から視線を上げ、藍那は訊ねた。
「なぜそれを知っているの? 私は母から何も聞いていなかった。あなた、いったい何者?」
「俺は自分が誰か、なにも覚えていない。その点については、もうひとりの俺とたいして違いはない。ただ、その剣についてはなぜだか知っていた。それだけだ」
「それだけって……他に知っていることは?」
「さあ、どうだろうな……」
紫園はそう言って空を見上げた。いつの間にか月が、建物の影に姿を隠そうとしている。その月を眺め、ふいに口元に不敵な笑みが浮かんだ。
紫園の視線が、ふたたび藍那へと据えられる。からかうような口調で彼が言った。
「訊きたいことがあるなら、力づくで聞きだしてみたらどうだ」