第44話 果たされるべき約束

文字数 3,447文字

 店のなかの商品はほとんどが運び去られた後である。がらんとした店内から奥へと入り、廊下を時折人足たちとすれ違いながら進んだ。
 そういえば女中の祖尼娃(ソニア)はどうしたのか。さすがに老体に旅はきついと、主人たちには同行しなかったと見える。台所にでもいるのかもしれない。

 途中木箱を抱えた人足に緋霧(ファヒム)の所在を訊ねた。客間にいるとの答えに、紫園を案内しながら迷うことなくたどり着く。

 ここで茶会に招かれたのはまだ夏の盛り、およそふた月前のことだ。
 透かし彫りの扉の向こうに楼主とおぼしき男がいる。華風の長衣は翡翠色。髭をたくわえた面持ちは、予想していたより品がいい印象だった。

 一緒に居るのは大工の棟梁だろう。腰に工具を下げ、辮髪に布帽(チュルバン)を巻き、しきりと楼主の言葉に頷いていた。

「忙しいところすみませんね、あなたが緋霧(ファヒム)さん?」

 声をかけ入室した藍那に、翡翠のほうが拱手一礼する。

「いかにも、私が緋霧(ファヒム)です。藍那さまと紫園さまですね。蔵人からあなた方がここに来るだろうと言われておりました。このとおり、あいにく取り込み中ゆえ、茶も出せませんが」
「いえ、おかまいなく。店があのようなことになり、私としてもたいそう心を痛めております」

 すすめられるまま客間の椅子に腰掛け、緋霧(ファヒム)と差し向かいになった。

「いえ、それについてはお気遣いなく。あの店はもともと私ではなく蔵人の持ち物でしたので。私は、彼からそれを預かっていただけでございます」
「なんと、そうでしたか」

 武器屋の他に酒家もやっていたとは。蔵人という男のことを、やはり自分は何も知らなかったのだ。

「はい、これは私と蔵人、花蓮さまだけの秘密でした。昔、着の身着のままでこの帝都に流れ着いたとき、蔵人には世話になりましてね。店があのようになりましたのは残念ですが、このとおり」

 緋霧(ファヒム)の手のひらが客間をぐるりと示した。

「この建物をそっくりお譲りくださいました。あの店と比べようのないほどささやかではありますが、茶館を開くつもりでございます。花蓮さまはたいそう目が高く、ここにある調度品も香良楼に(まさ)るものばかり。少しばかり改装すれば良い店になるでしょう」
「では店の名前は前と同じ香良楼――」
「いいえ、この店の名前、《狼々軒》をそのまま使うつもりです」
「それは私としても嬉しい限りです。この店には何度も世話になりましたので。看板を残していただけるとは、ありがたいことです」

 藍那は窓へと目を向ける。
 ふた月ばかり前、龍三辰(ルシダ)を前に剣の処遇を話し合った頃は、日よけを掛けられていた。今は秋の柔らかな日射しが室内へと差し込んでいる。

「ところで、ここで働いていた祖尼娃(ソニア)という女中は」
「なんでも親類縁者を頼って帝都を離れたそうでございます。私もどこへ行ったかは……」
「そうですか」
「そうそう、花蓮さまからあなたに預かっているものがございます」

 緋霧(ファヒム)は立ち上がり、両手をならした。しばらくして現れた初老の男に

「例のものを」

 と命じる。男は一礼し立ち去ると、ほどなく再び姿を見せた。両手に白い大きな布包みをかかえ、それを丁重に卓上へと置いてから一礼、退室する。

「こちらを。どうぞなかを検めてください」

 包みの端をめくると鮮やかな牡丹色が目に飛び込んできた。つややかな絹地の長衣に白い袴。下にはもう一つ渋い鬱金(ウコン)色の長衣と白袴。金糸で刺繍の施された白帯までついている。

「これは」
「あなたと由真に仕立てていたそうです。別れの言葉の代わりとして、どうか受け取って欲しいと」

 明らかに祭りのための装いだった。
 それにしても由真はともかく、藍那にはいささか華やかすぎではないか。藍那がこのような女らしいいでたちが苦手であることを、花蓮は知っていたはずなのだが。

「これは、なんとも痛み入ります。由真がたいそう喜ぶでしょう。それはそうと花蓮さまの書斎はいかがなさるので」
「あの部屋はしばらくそのままにしておくつもりです。陦蘭さまがあの部屋を書庫として使いたいと仰っていますので、いずれは貸すという形になるかと」
「そうでしたか。それは安心いたしました」
「いずれも貴重な書物ですが、たとえ売りに出したとて、本当に価値の分かるものの手に渡ることはまれです。花蓮さまのお志どおり、陦蘭さまの研究の一助になれば幸いかと」
「それはとても立派なことです。花蓮さまもさぞ喜んでいらっしゃることでしょう」

 そこへ人足頭が木箱を全て外に運び終わったと伝えに来た。聞けば、商品は全てほかの武器商が高値で買い取ってくれるという。

「ぜひ自宅にも一度、遊びにいらしてください」
「うかがいましょう。ではこれにて」

 一礼し、藍那と紫園は客間を辞した。
 店先では人足たちが木箱を荷車に載せている。藍那は《狼々軒》の木看板を一瞥し、人足たちの声を背に歩き出した。

 もうここに来ることはないだろう――。
 なぜか、そんな予感がした。

 * * *

 金亀楼への道を二人で歩いた。東大参道ではなく西大参道を選んだのは必然だ。
 なにしろ昨夜、建物一つが崩壊したのだ。巻き込まれたかたちとはいえ、藍那は当事者の一人である。さすがにあの界隈を歩くのは(はばか)られた。

 西大参道は茶や香道具、仏具といった寺にまつわる店が軒を並べている。普段は僧侶や信仰の篤い客たちが行き交う閑静な通りだ。
 しかし大斎が始まったせいか、線香や写経用の墨を買い求める客たちでいつもよりたいそう賑わっている。普段は経の一つもあげない不信心ものも、この時ばかりは写経に励んで無病息災を祈るからだ。

 往来の人たちがときおり、藍那の方を見て耳打ちする。ここ最近の東大参道でのあれこれを考えれば、仕方のないことではある。
 紫園は花蓮からの布包みを両手に抱え、しばらくしてから遠慮がちに

「先生、訊ねてもよろしいでしょうか」

 と口を開いた。

「なんだい」
「その……蔵人さんと花蓮さまが、こんなに急に帝都から引き払われたのは……僕がなにか、関係して――」
「いいや、違うよ」

 即座に否定した。

「蔵人たちが帝都を離れたのは、彼ら自身の事情があってのことだ。紫園はなにも関係ない」
「でも……」
「余計なことは考えなくていい。私は師匠として、紫園の面倒を最後まで見るって決めたんだ。そのことをお前が負い目に思うこともないし、誰かに(そし)られたって、気にする必要はないからね」
「はい……」
「感謝祭が終わったら、しばらく旅に出る。私が金亀楼に戻るまで、由真たちをしっかり頼むよ」
「はい、頑張ります」

 ふと紫園が足を止めた。
 つられて立ち止まった藍那を紫色の瞳がまっすぐ見つめた。
 日射しが赤みを帯びた栗色の髪を輝かせ、端正な顔立ちを際立たせる。紫色の瞳が優しく藍那を見下ろしていた。深い感謝と、それ以上の言葉にならない《なにか》をたたえて――。

 その視線が胸の深いところへすっと入り込み、藍那は不覚にも狼狽(うろた)えてしまった。頬が赤くなり、鼓動が早くなって慌てて目をそらせる。

「た、頼もしいね。うん、それでこそ私の弟子だ」
「先生……蔵人さんたちには、またいつか会えるでしょうか」
「あ、ああ、もちろん――」

 昨夜は《新月斎(ヒラル)》であった。
 この日、奥尔罕では家長が曾妃耶寺院に赴いて、残りの断食をやり遂げることを神官に誓う。そのことから《新月斎(ヒラル)》に交わした約束は必ず果たされるという言い伝えがあった。

 どこかから風に乗って揚餅(ロクム)の香ばしい匂いが漂ってくる。祖尼娃(ソニア)お手製の揚餅が懐かしい。やがて近くで《大尊(ダイソン)》の梵鐘が、遠くで曾妃耶寺院の鐘楼が、祈りの刻を告げた。

 ――藍那、生きていたらまた会いましょう!

 蔵人の言葉がまだはっきりと耳に残っている。
 そう、きっと――。

「きっと会えるさ。蔵人がそう約束したのだから」

 藍那は自分に言い聞かせるように答え、天星羅の柄をそっと握りしめた。
 とりあえず明日にも、研ぎ師の晴夫(セイフ)を訪ねなければならないだろう。

 第五章へ続く
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登場人物紹介

紫園ㅤ

記憶を失くした青年。奥尔罕オルハンの帝都阿耶アヤから東にある港街、泉李イズミルの大火で生き残っていたところを助けられ、金亀楼コンキろうに下男として引き取られる。読み書きができ、剣も使える謎多き人物。赤みがかった栗色の髪に、珍しい紫色の瞳の持ち主。

璃凛リリン藍那アイナ
母から伝えられた双極剣の遣い手であり、女ながら用心棒で生計を立てている。現在は帝都随一の色街、紅籠ヴェロ街の娼館、金亀楼で働くが、訳あって母の名前である藍那アイナを名乗っている。十八歳。

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