第63話 破局の足音
文字数 3,893文字
「こんな朝早くに? 一体何の用件だ」
杷萬 の言葉は、その場にいた多方の総意であった。しかし藍那だけは違う。思いがけぬ来訪の知らせに、血の気が引く思いで足元を見つめた。
(もしや柴門が、紫園のことを警邏に?)
まさかそこまでするとは――。
瞬時に頭に血がのぼって、腹の底から怒りがこみ上げる。しかし落ち着けと己に言い聞かせ、こちらの出方に素早く考えを巡らせた。
たとえ紫園の過去を知ったとしても、その柴門にだって確たる証拠があるわけでもない。全ては韋蛮 から聞いたことに過ぎないのだ。放火や龍三辰 の盗難だって、全ては憶測だ。ここは自分が警邏に応じて、そのことを説明するしかない。
だから、誰よりも冷静にならなければ。
「それが、し、紫園さんのことで話があるそうで」
「紫園ね、ふん、なるほど」
杷萬は面倒そうに答え、
「ま、追い返すわけにもいかないでしょう。よろしいですか、先生」
と藍那へ顔を向けた。もしかしたら杷萬は、いつかこういう日が来ることを、どこかで分かっていたのかもしれない。藍那もうなずき、踵を返した吾力 を見送りながら、拳を握りしめた。
大丈夫、上手く切り抜けられる。幸いなことに、この場にお嬢さまと龍三辰 は不在だ。いまは絶対に、龍三辰を警邏たちに見せてはならない。彼らがあれを目にしたら必ず――。
「先生……」
気がつけば、由真が怯えた瞳で見上げていた。
「紫園さん、連れて行かれちゃうんですか?」
「ううん、大丈夫だよ。ちょっと誤解があるだけ。私がちゃんと説明するから、由真は心配しないで」
言い終わると同時に、すばやく紫園と視線を交わし合う。蒼白の面持ちではあったが、その目には藍那へのいたわりがあった。
――大丈夫です、璃凜、僕は大丈夫。だから、どうか安心して。
無言のうちに、そんな言葉を聞く。やがて腰の長剣を鳴らしながら、警邏が二人、表口から入ってきた。大股で近寄ると、尊大な目つきで藍那たちを眺める。その顔に見覚えがあった。
「あなた方は」
なんとつい先日、晴夫 の工房で会った連中だ。その一人は、香良楼で藍那を捕らえた男である。
「これはこれはお役人さま、お勤めご苦労さまでございます」
杷萬は余裕の笑みを浮かべ、丁重に頭 を垂れた。
「こんな朝早くにご足労いただくとは、さぞ急を要するご用件なのでしょうな」
「楼主、我等とて役目のこと。非礼は重々承知であるが、こちらで奉公している柴門 とやらに、文で呼び出されてな。なんでも泉李 の大火を起こした重罪人が、この楼 にいるとか」
金亀楼の常連には上級法吏 もいて、楼主・杷萬は彼らに顔が利く。下手に言いがかりをつければ、首が飛ぶのは警邏の方だ。だからこそ慎重に言葉を選んでいるのが分かった。
「ほう、柴門が。その重罪人とは、ここにおります紫園でしょうか」
杷萬の後ろで皆が息をのんだ。由真が藍那の手をギュッと握りしめる。藍那は息を吸って、吐いた。
落ち着け、ちゃんと彼らに説明しろ。なにも証拠はないのだから――。
杷萬はふんと鼻を鳴らす。
「私は柴門からなにも聞いておりませんな。しかし、下働きのものを連れて行かれるとなると、この金亀楼の評判にも大きく関わること。罪人だという動かざる証拠はあるのでしょうな」
証拠という言葉に警邏たちが怯む。
「証拠などない。しかし、泉李で手配されている迭戈 という絵かきが、この紫園に瓜二つというではないか。迭戈は世話になっていた屋敷に火をつけ、宝物庫から剣を盗んだかどで、州知事から死刑を宣告されている大罪人だ」
「そんな! それは紫園さんじゃない!」
由真が叫んだ。
「違います! 紫園さんは、そんなことが出来る人じゃありません!」
「由真……」
握られた手を握り返しながら、藍那は紫園を見た。呆然と警邏たちを見つめる顔は土気色で、唇が小刻みに震えている。
最悪だ。まさか、こんな形で彼に知られてしまうとは――己の無力さに歯噛みし、それでもまだ反撃の余地はあると、警邏に向き直った。
「実はその話は、私もある者から聞かされておりました。しかし、お役人さま、迭戈 が屋敷から剣を盗み出したというのも、屋敷に火をつけたというのも、全て証拠のない憶測と聞いておりますが」
「貴様、州知事の宣告に異を唱えるか!」
「庇い立てするならお前も同罪だ!」
声を荒げた警邏たちに杷萬が
「まあまあ、お役人さま、所詮は用心棒の戯言です」
と割って入った。
「たしかに、紫園は泉李 で焼け跡に倒れていたところを、縁あって金亀楼で面倒を見ております。しかしですなあ、彼がその迭戈 だと、どうして言い切れるのです? よく言いますな、世の中には似た人間が三人いると。
他人の空似というだけで楼 の評判に傷をつけられては、こちらとしても困ります。紫園がその絵かきだという確たる証 しがあれば、私も心おきなく、そちらへこの男を引き渡しましょう。そうなれば、お二人は大火の犯人をあげて大手柄ですな」
ああ、そのときは――杷萬は濃いあごひげをなでつけた。
「殿盤 さまに、お二人の働きをお耳に入れておきますよ。先日もここにいらしてくださったのでね。きっと、刑部から良い知らせがありますでしょうな」
殿盤 さま――その名前に二人が動揺を顕 にする。
刑部長官は、彼らにとっては雲上人である。もしここで無理矢理にでも紫園を引っ張っていけば、杷萬から苦情がいくのは火を見るより明らかだ。その雲上人から二人に、どのような沙汰が下されるか分かったものではない。
警邏の職務をまっとうするか、おとなしく一度引き下がるか。
「し、しかし、柴門 という男に呼び出された以上、こちらも手ぶらで帰るわけには行かない」
葛藤を押し隠すように、片方が杷萬を睨みつけた。
「ならば柴門という男に会わせてもらおう。彼を警邏所へ連れていき、じっくりと話を聞きたい」
「それならよろしいでしょう。誰か、柴門をここへ」
杷萬がそう言ったとき、後ろで声がした。
「俺なら、ここにいますよ、逃げも隠れもしません。誰かさんと違ってね」
いつの間にか柴門が一同の背後に立ち、紫園から藍那、そして警邏へと視線を移した。圓湖 や苫栖 、他の男衆や女たちが怯えたように退く。そのせいで最初は首だけ出ていた柴門の姿が、全身顕 になった。その右手にあったのは――。
目の錯覚だと思った。
なにかの間違いではないかと。
あの布包み。あの形と大きさ。間違えようがない。
秧真に預けてあったはずの、龍三辰 ではないか。
***
「俺は逃げも隠れもしませんよ、誰かさんと違ってね」
柴門 は繰り返しそう述べると、薄ら笑いを浮かべながら紫園の顔を覗き込む。その目には熱に浮かされたような、どこか狂気すら感じさせる、ただならぬ光が浮かんでいた。
だめだ、あれを、なんとか取り返さないと――。あえぐように、藍那が口を開く。
「柴門、待って。あなたは……」
「先生、先生はこいつに騙されてる!」
右手の人差し指を紫園の鼻先に突きつけ、口を歪めて怒鳴った。
「先生だけじゃない、旦那さまもみんなも、騙されてるんですよ! こいつは旦那さまや先生の人の良さにつけ込んで、まんまと金亀楼に潜り込んだ。
放火の大罪人がずうずうしいこった。おまけに宮廷画家になりたいだあ? なんもかも手に入れようとしやがって。だが、そうは問屋が卸さねえんだよ!」
「柴門、ちがう、おねがい、話を聞いて」
「惚れた男だから、かばいたくなるのも分かりますがね、先生、こいつにそんな価値はない。お役人さま、この剣をご照覧下さい。これこそ、こいつが屋敷から盗み、巡り巡ってこの金亀楼に隠されていたもの。すべてはこの男の、賢 しらな策略にございます」
だめだ、その布を外しては――。
そう告げたかったのに、どうしてだか言葉が出てこない。眼前で柴門の左手が荒々しく包み布をはがし、粗末な木鞘があらわになった。
天井を指すのは、真鍮の剣首。黒檀の柄に、龍を彫り込んだ剣格。藍那が最後に見たのは大尊 で、卯夏 と席を共にしたときだ。そして……。
藍那は愕然とし、己の目を疑う。
なかった。
あるべきものが、漆で留められていたはずの霊符 が、ない。
「ほほう、では検めさせてもらう」
大股で歩み寄った警邏が、柄を手に掛け、一気に引き抜いた。輝く燈火を照り返し、冷たく光る剣身がさらされる――と同時に、禍々しい勁が周囲へと立ち込めた。息苦しいほどの瘴気に、藍那の全身が総毛立ち、冷たい汗が背中を伝う。
今直ぐにでもアレを取り返さなければ。だが身体がまったく言うことを聞かないのはどういうわけだ……。
警邏たちは、そんな藍那の様子に気がつかないようだった。無頓着に剣身に顔を寄せ、ためすすがめつ眺める。
「ふん。日輪と月と七つの星、それを囲む雌雄の龍。確かに、探されていた宝剣に相違ない――」
そのとき影が――。
藍那の眼前を過 った。
(もしや柴門が、紫園のことを警邏に?)
まさかそこまでするとは――。
瞬時に頭に血がのぼって、腹の底から怒りがこみ上げる。しかし落ち着けと己に言い聞かせ、こちらの出方に素早く考えを巡らせた。
たとえ紫園の過去を知ったとしても、その柴門にだって確たる証拠があるわけでもない。全ては
だから、誰よりも冷静にならなければ。
「それが、し、紫園さんのことで話があるそうで」
「紫園ね、ふん、なるほど」
杷萬は面倒そうに答え、
「ま、追い返すわけにもいかないでしょう。よろしいですか、先生」
と藍那へ顔を向けた。もしかしたら杷萬は、いつかこういう日が来ることを、どこかで分かっていたのかもしれない。藍那もうなずき、踵を返した
大丈夫、上手く切り抜けられる。幸いなことに、この場にお嬢さまと
「先生……」
気がつけば、由真が怯えた瞳で見上げていた。
「紫園さん、連れて行かれちゃうんですか?」
「ううん、大丈夫だよ。ちょっと誤解があるだけ。私がちゃんと説明するから、由真は心配しないで」
言い終わると同時に、すばやく紫園と視線を交わし合う。蒼白の面持ちではあったが、その目には藍那へのいたわりがあった。
――大丈夫です、璃凜、僕は大丈夫。だから、どうか安心して。
無言のうちに、そんな言葉を聞く。やがて腰の長剣を鳴らしながら、警邏が二人、表口から入ってきた。大股で近寄ると、尊大な目つきで藍那たちを眺める。その顔に見覚えがあった。
「あなた方は」
なんとつい先日、
「これはこれはお役人さま、お勤めご苦労さまでございます」
杷萬は余裕の笑みを浮かべ、丁重に
「こんな朝早くにご足労いただくとは、さぞ急を要するご用件なのでしょうな」
「楼主、我等とて役目のこと。非礼は重々承知であるが、こちらで奉公している
金亀楼の常連には上級
「ほう、柴門が。その重罪人とは、ここにおります紫園でしょうか」
杷萬の後ろで皆が息をのんだ。由真が藍那の手をギュッと握りしめる。藍那は息を吸って、吐いた。
落ち着け、ちゃんと彼らに説明しろ。なにも証拠はないのだから――。
杷萬はふんと鼻を鳴らす。
「私は柴門からなにも聞いておりませんな。しかし、下働きのものを連れて行かれるとなると、この金亀楼の評判にも大きく関わること。罪人だという動かざる証拠はあるのでしょうな」
証拠という言葉に警邏たちが怯む。
「証拠などない。しかし、泉李で手配されている
「そんな! それは紫園さんじゃない!」
由真が叫んだ。
「違います! 紫園さんは、そんなことが出来る人じゃありません!」
「由真……」
握られた手を握り返しながら、藍那は紫園を見た。呆然と警邏たちを見つめる顔は土気色で、唇が小刻みに震えている。
最悪だ。まさか、こんな形で彼に知られてしまうとは――己の無力さに歯噛みし、それでもまだ反撃の余地はあると、警邏に向き直った。
「実はその話は、私もある者から聞かされておりました。しかし、お役人さま、
「貴様、州知事の宣告に異を唱えるか!」
「庇い立てするならお前も同罪だ!」
声を荒げた警邏たちに杷萬が
「まあまあ、お役人さま、所詮は用心棒の戯言です」
と割って入った。
「たしかに、紫園は
他人の空似というだけで
ああ、そのときは――杷萬は濃いあごひげをなでつけた。
「
刑部長官は、彼らにとっては雲上人である。もしここで無理矢理にでも紫園を引っ張っていけば、杷萬から苦情がいくのは火を見るより明らかだ。その雲上人から二人に、どのような沙汰が下されるか分かったものではない。
警邏の職務をまっとうするか、おとなしく一度引き下がるか。
「し、しかし、
葛藤を押し隠すように、片方が杷萬を睨みつけた。
「ならば柴門という男に会わせてもらおう。彼を警邏所へ連れていき、じっくりと話を聞きたい」
「それならよろしいでしょう。誰か、柴門をここへ」
杷萬がそう言ったとき、後ろで声がした。
「俺なら、ここにいますよ、逃げも隠れもしません。誰かさんと違ってね」
いつの間にか柴門が一同の背後に立ち、紫園から藍那、そして警邏へと視線を移した。
目の錯覚だと思った。
なにかの間違いではないかと。
あの布包み。あの形と大きさ。間違えようがない。
秧真に預けてあったはずの、
***
「俺は逃げも隠れもしませんよ、誰かさんと違ってね」
だめだ、あれを、なんとか取り返さないと――。あえぐように、藍那が口を開く。
「柴門、待って。あなたは……」
「先生、先生はこいつに騙されてる!」
右手の人差し指を紫園の鼻先に突きつけ、口を歪めて怒鳴った。
「先生だけじゃない、旦那さまもみんなも、騙されてるんですよ! こいつは旦那さまや先生の人の良さにつけ込んで、まんまと金亀楼に潜り込んだ。
放火の大罪人がずうずうしいこった。おまけに宮廷画家になりたいだあ? なんもかも手に入れようとしやがって。だが、そうは問屋が卸さねえんだよ!」
「柴門、ちがう、おねがい、話を聞いて」
「惚れた男だから、かばいたくなるのも分かりますがね、先生、こいつにそんな価値はない。お役人さま、この剣をご照覧下さい。これこそ、こいつが屋敷から盗み、巡り巡ってこの金亀楼に隠されていたもの。すべてはこの男の、
だめだ、その布を外しては――。
そう告げたかったのに、どうしてだか言葉が出てこない。眼前で柴門の左手が荒々しく包み布をはがし、粗末な木鞘があらわになった。
天井を指すのは、真鍮の剣首。黒檀の柄に、龍を彫り込んだ剣格。藍那が最後に見たのは
藍那は愕然とし、己の目を疑う。
なかった。
あるべきものが、漆で留められていたはずの
「ほほう、では検めさせてもらう」
大股で歩み寄った警邏が、柄を手に掛け、一気に引き抜いた。輝く燈火を照り返し、冷たく光る剣身がさらされる――と同時に、禍々しい勁が周囲へと立ち込めた。息苦しいほどの瘴気に、藍那の全身が総毛立ち、冷たい汗が背中を伝う。
今直ぐにでもアレを取り返さなければ。だが身体がまったく言うことを聞かないのはどういうわけだ……。
警邏たちは、そんな藍那の様子に気がつかないようだった。無頓着に剣身に顔を寄せ、ためすすがめつ眺める。
「ふん。日輪と月と七つの星、それを囲む雌雄の龍。確かに、探されていた宝剣に相違ない――」
そのとき影が――。
藍那の眼前を