第8話 緋炎
文字数 4,045文字
舞い散る火の粉は、まるで血色に染められた雪のようであったという。
時は栄禄 十二年水瓶月、場所は帝都阿耶 より東の街、泉李 。
夜明けにまだ遠い街の大部分に、既に火の手が回っていた。
のちの証言によれば、始まりは真夜中を少し過ぎたころ。富裕地区である北の邸宅街から出火し、風にのって東の地区へと燃え広がった。
東には《どぶ川》と呼ばれる貧民窟がある。密集した粗末な木小屋が、格好の燃え種となったのは想像に難くない。あっという間に火勢を増した炎は南へと移り、染め物問屋、並びに油問屋を飲み込んでは新たな紅蓮を噴き上げた。
その頃。まだ火の回っていない西側は、城門へと続く通りに避難民が群れをなしていた。警護兵たちの先導で、皆、これだけはと思う財産を抱えながら疲れた表情で歩いて行く。
寒季もそろそろ終わろうとしていたその晩、風は西から吹いていた。風が迫り来る炎から身を守ってくれる――誰もがそう信じ、街の外へと無事たどり着けると思っていたのだ。
そのとき、人の波にもまれながら通りを進んでいた一人の青年が、いち早く
――おい、あれ、なんだ?
隣にいた見ず知らずの中年男に、思わず問いかける。彼が指さした先は通りの右手前方、曾妃耶 寺院の高くそびえる尖塔であった。
青年のただならぬ表情に、問われた方も視線をやった。
――なんだ、あれ。
足を止めた中年男に、気の立った背後のものたちが罵声を浴びせる。しかし男は全く耳に入っていない表情で、呆然と
男の様子をさすがにおかしいと思った周囲が、彼の視線を追って――、皆一様 に息をのむ。
曾妃耶寺院の尖塔に、炎をまとった龍がとぐろを巻いていた。
刹那――。
地を揺るがせる轟音が耳朶を震わせる。まるで地の底から吹き出したように、通りの左右から火柱が上がった。そして焔の帯が生き物のように身をよじらせ、またたくまに通りを奔 りぬけていく。
悲鳴と叫喚。怒号と罵声。
猛々しい熱風と黒煙に顔をそむけたときは既に遅かった。逃れることもできぬまま群衆たちが炎にまかれ、焼かれていく。
肉と髪が焼ける悪臭たち込めるなか、人影たちが踊り狂う。
男に女に子ども。犬に猫、牛に馬に羊。
老若男女、獣を問わず、炎はあらゆるものを焼き尽くす。
それはまさに、地獄さながらの様相であった。
街を東西に流れる釧 川には、難を逃れようと多くの者がなだれ込み、多くの者がそのまま溺れ死んだ。この街の大動脈ともいえる川は川幅も広く、流れはやや速い。その川面を、黒焦げになった人々が死んだ魚とともに、すき間なく埋め尽したのだった。
自警団による決死の消火活動も空しく、炎は街全体を舐めていく。巻き上げられた煙が赤く照らされ、空は不吉な明るさで輝いた。
物見の鐘つき番は不眠不休で半鐘を鳴らし続ける。
その不吉な響きは、灼熱のなかを逃げ惑う者たちにとって、世の終わりの知らせにも等しい。
すさまじい焔は夜が明けても消えることはなく、ようやく鎮火したのは、三日後の夕刻。すでにあちこちで腐りかけた遺体が、壮絶な匂いを放ちはじめていた。
この大火事は、のちに「泉季 の大火」として記録される。この惨事を生き残った僅かなものたちは、口々にこう語った。
あれは伝承に出てくる火龍のようだった。
あの焔はまるで、生きて意志を持っていたように見えた、と――。
***
火の粉はまるで血に染まった雪のようだ――。
彼は思った。
最初で最後に雪を見たのは、彼がまだ幼く、父と母が存命で《あの砦》に住んでいたときだ。
大人たちの事情はともかく、砦の生活は楽しかった。砦は逃げ延びた都よりはるか北にあり、険しい岩山の上に築かれていた。それ故夏は暑さが厳しく、冬には霜が降りるほどの寒さになる。
その砦で一度だけ、雪が降るのをこの目で見た。
地上に落ちるとすぐに消えてしまうそれを、彼と弟は手でなんとか受け止めようと走り回り、うまく捕まえられた時は二人ではしゃぎまわった。期待とともに掌を開くと、そこにはわずかな雫が残るのみで、すでに雪粒は消えてしまった後だ。
悲しげに手のひらを見つめる弟を、彼はそっと抱き寄せて頭を撫でてやった。
あれから全てが変わってしまった。
自分も弟も、もう幼いあの頃には戻れない。
己の宿命から逃げ出した《奴》とは違う。自分はこうして果たすべきことを果たしただけだ。それが多くの人命を犠牲にすることでも。
手に入れるべきものは手に入れた。はやくこの街を出なければ――。
彼がそのとき歩いていたのは、すでに灰塵と化した東の区域。文字通り人っ子ひとりいなかった。とうに夜は明けていたが、白煙にかすむ空は朝の光をさえぎったまま依然と薄暗く、はるか西へと勢いをうつした焔の明りを赤銅色に映していた。
東の亜銘 門から延びる通りの奥、市街地の中心には四半遥嵯歩 (※一遥嵯歩=五キロ)にかけ、大きな市場が広がっている。街一番の賑わいをみせた繁華街も全てが焼き尽くされ、日頃の喧騒が嘘のようにしんと静まり返っていた。
黒焦げと化した死体がそこかしこに転がる道を、彼は一人さまよう。
煤けた全身は幽鬼を思わせたが、もし誰かが彼を目にしたら、そのような風体など問題ではなかっただろう。なぜなら彼の左手に握られていた両刃の剣、鞘を抜かれた白刃が、自ら光を発して輝いていたのだから。
冷たい青白さをまとうそれは、月の光を凝 らせたようだ。
剣身を納める鞘は彼の右手にあったが、木で造られたそれは随分と古びたものだ。もともと白木であったものが年を経て手垢にまみれ、所々に浮かぶ赤茶けた染みが斑 模様に広がっている。
ふと――。
崩れ落ちた建物の隙間に、動く人影があった。このような場に現れるものといえば、燃え残った貴金属目当ての火事場泥棒と決まっている。
柄を握る手に力を込め、足を速めた。死肉をあさる浅ましき獣たち。故郷が帝国兵によって蹂躙されたのち、彼らの同類が行った暴虐の限りを忘れたことはない。
予想どおり、そこにいたのは貧相な姿の中年男であった。この店の主人が地中に埋めた箱を、めざとく見つけたらしい。背後に忍び寄ったときには掘り返した穴の底、蓋にかかる土を掌で払いのけていたが、声をかけると飛び上るほど驚き、痩躯 を振り向かせて立ち上がる。
黒く煤けた顔に、用心深く光らせた金壺眼 。視線の端に光る抜き身をとらえていたが、動揺を腹の底に押し隠し、肩をいからせてごろつきらしい虚勢を張るのを忘れなかった。
――なんだテメエ。横取りしやがったらタダじゃおかねえぞ。言っとくがこちとら播帑 の兄弟分よ。テメエが横取りなんざしようもんなら、兄貴が黙っちゃいねえ。いいからおとなしくケツまくって帰んな。
そう啖呵を切った。しかし。
全てを言い終わらぬうちに、距離をつめた白刃が中段を一閃する。
金壺眼が血濡れた切っ先をとらえたときは、すでに裂かれた腹から桃色の腸がはみ出していた。痛みを感じる間も、悲鳴を上げる隙も与えぬまま、返す刃が男の肩から上をとばす。
噴き出た鮮血が、飛沫となって降りかかる。糞便くさい血の匂いが、くすぶる煙と混じり合って辺りに立ちこめた。
頭部を失った身体が血だまりに倒れこむ。
粘ついた表面に焦げた灰を浮かせた血の海が、赤黒い筋を蛇のようにうねらせ、石床に広がるさまは……。
あの時と同じ。
濃厚な血の匂いに、嘔吐とは違う感覚が身体の奥からせりあがる。指先がしびれ、手を離れた剣が石床に落ちて乾いた音をたてた。白刃がまとっていた光りが消え、彼は崩れ落ちるように膝をつく。
唇を震わせながら、血濡れた両手を凝視した。
恐怖と混乱のなかで彼は問いかける。
この血は誰の血だ。
いつものように耳朶の奥で
お前の父親の血だ。
殺したのは誰だ。
そりゃあ、お前だ。そんなこと、とうに分かっているじゃないか。
せせら笑う口調のアレに、彼は必死に抗った。
ちがうちがう! 殺したのは俺じゃない! 殺したのはあいつだ。あいつが、この俺を、かばって……。
じゃあさ。
必死の抗弁に、アレは冷徹な声で彼を追い詰める。
殺したのがあいつなら、ここにいるお前は、誰なんだ。
なあ、おまえは誰だ?芳也 か? 劉哉 か? いったいどっちなんだ?
分からない――。
ひどい眩暈に襲われた。
記憶の糸がもつれ始め、ぐるぐると地面が回り始める。前のめりに突っ伏し、蛙のように這いつくばって、途切れかける意識を保とうと必死になった。
気づけば横たわる刃を無我夢中で掴んでいた。白刃に食い込む手の痛みなどものともせず、
これをどこかに隠さなければ――。
その執念ただひとつに突き動かされ、血だまりのなかを這いずりながら、火事場泥棒が掘った穴へとにじり寄る。
光を失った白刃に刻まれるのは、太陽と月、その周囲を取り巻く六つの星の三辰紋。
そして紋を抱くよう左右に配された雌雄の龍であった。
かつて嘉南 の地に栄え、千年の王国と讃えられた慧焔都 。
その高祖であり、最高の武人との誉れ高い六星王荒弩 が、自らの手で鍛えた覇者の剣。さまざまな伝承に彩られたそれは、いま彼の手で粗末な木鞘に納められ、しばしの眠りについた。
剣の名を龍三辰 という。
時は
夜明けにまだ遠い街の大部分に、既に火の手が回っていた。
のちの証言によれば、始まりは真夜中を少し過ぎたころ。富裕地区である北の邸宅街から出火し、風にのって東の地区へと燃え広がった。
東には《どぶ川》と呼ばれる貧民窟がある。密集した粗末な木小屋が、格好の燃え種となったのは想像に難くない。あっという間に火勢を増した炎は南へと移り、染め物問屋、並びに油問屋を飲み込んでは新たな紅蓮を噴き上げた。
その頃。まだ火の回っていない西側は、城門へと続く通りに避難民が群れをなしていた。警護兵たちの先導で、皆、これだけはと思う財産を抱えながら疲れた表情で歩いて行く。
寒季もそろそろ終わろうとしていたその晩、風は西から吹いていた。風が迫り来る炎から身を守ってくれる――誰もがそう信じ、街の外へと無事たどり着けると思っていたのだ。
そのとき、人の波にもまれながら通りを進んでいた一人の青年が、いち早く
それ
に気がついた。――おい、あれ、なんだ?
隣にいた見ず知らずの中年男に、思わず問いかける。彼が指さした先は通りの右手前方、
青年のただならぬ表情に、問われた方も視線をやった。
――なんだ、あれ。
足を止めた中年男に、気の立った背後のものたちが罵声を浴びせる。しかし男は全く耳に入っていない表情で、呆然と
それ
を見上げていた。男の様子をさすがにおかしいと思った周囲が、彼の視線を追って――、皆
曾妃耶寺院の尖塔に、炎をまとった龍がとぐろを巻いていた。
刹那――。
地を揺るがせる轟音が耳朶を震わせる。まるで地の底から吹き出したように、通りの左右から火柱が上がった。そして焔の帯が生き物のように身をよじらせ、またたくまに通りを
悲鳴と叫喚。怒号と罵声。
猛々しい熱風と黒煙に顔をそむけたときは既に遅かった。逃れることもできぬまま群衆たちが炎にまかれ、焼かれていく。
肉と髪が焼ける悪臭たち込めるなか、人影たちが踊り狂う。
男に女に子ども。犬に猫、牛に馬に羊。
老若男女、獣を問わず、炎はあらゆるものを焼き尽くす。
それはまさに、地獄さながらの様相であった。
街を東西に流れる
自警団による決死の消火活動も空しく、炎は街全体を舐めていく。巻き上げられた煙が赤く照らされ、空は不吉な明るさで輝いた。
物見の鐘つき番は不眠不休で半鐘を鳴らし続ける。
その不吉な響きは、灼熱のなかを逃げ惑う者たちにとって、世の終わりの知らせにも等しい。
すさまじい焔は夜が明けても消えることはなく、ようやく鎮火したのは、三日後の夕刻。すでにあちこちで腐りかけた遺体が、壮絶な匂いを放ちはじめていた。
この大火事は、のちに「
あれは伝承に出てくる火龍のようだった。
あの焔はまるで、生きて意志を持っていたように見えた、と――。
***
火の粉はまるで血に染まった雪のようだ――。
彼は思った。
最初で最後に雪を見たのは、彼がまだ幼く、父と母が存命で《あの砦》に住んでいたときだ。
大人たちの事情はともかく、砦の生活は楽しかった。砦は逃げ延びた都よりはるか北にあり、険しい岩山の上に築かれていた。それ故夏は暑さが厳しく、冬には霜が降りるほどの寒さになる。
その砦で一度だけ、雪が降るのをこの目で見た。
地上に落ちるとすぐに消えてしまうそれを、彼と弟は手でなんとか受け止めようと走り回り、うまく捕まえられた時は二人ではしゃぎまわった。期待とともに掌を開くと、そこにはわずかな雫が残るのみで、すでに雪粒は消えてしまった後だ。
悲しげに手のひらを見つめる弟を、彼はそっと抱き寄せて頭を撫でてやった。
あれから全てが変わってしまった。
自分も弟も、もう幼いあの頃には戻れない。
己の宿命から逃げ出した《奴》とは違う。自分はこうして果たすべきことを果たしただけだ。それが多くの人命を犠牲にすることでも。
手に入れるべきものは手に入れた。はやくこの街を出なければ――。
彼がそのとき歩いていたのは、すでに灰塵と化した東の区域。文字通り人っ子ひとりいなかった。とうに夜は明けていたが、白煙にかすむ空は朝の光をさえぎったまま依然と薄暗く、はるか西へと勢いをうつした焔の明りを赤銅色に映していた。
東の
黒焦げと化した死体がそこかしこに転がる道を、彼は一人さまよう。
煤けた全身は幽鬼を思わせたが、もし誰かが彼を目にしたら、そのような風体など問題ではなかっただろう。なぜなら彼の左手に握られていた両刃の剣、鞘を抜かれた白刃が、自ら光を発して輝いていたのだから。
冷たい青白さをまとうそれは、月の光を
剣身を納める鞘は彼の右手にあったが、木で造られたそれは随分と古びたものだ。もともと白木であったものが年を経て手垢にまみれ、所々に浮かぶ赤茶けた染みが
ふと――。
崩れ落ちた建物の隙間に、動く人影があった。このような場に現れるものといえば、燃え残った貴金属目当ての火事場泥棒と決まっている。
柄を握る手に力を込め、足を速めた。死肉をあさる浅ましき獣たち。故郷が帝国兵によって蹂躙されたのち、彼らの同類が行った暴虐の限りを忘れたことはない。
予想どおり、そこにいたのは貧相な姿の中年男であった。この店の主人が地中に埋めた箱を、めざとく見つけたらしい。背後に忍び寄ったときには掘り返した穴の底、蓋にかかる土を掌で払いのけていたが、声をかけると飛び上るほど驚き、
黒く煤けた顔に、用心深く光らせた
――なんだテメエ。横取りしやがったらタダじゃおかねえぞ。言っとくがこちとら
そう啖呵を切った。しかし。
全てを言い終わらぬうちに、距離をつめた白刃が中段を一閃する。
金壺眼が血濡れた切っ先をとらえたときは、すでに裂かれた腹から桃色の腸がはみ出していた。痛みを感じる間も、悲鳴を上げる隙も与えぬまま、返す刃が男の肩から上をとばす。
噴き出た鮮血が、飛沫となって降りかかる。糞便くさい血の匂いが、くすぶる煙と混じり合って辺りに立ちこめた。
頭部を失った身体が血だまりに倒れこむ。
粘ついた表面に焦げた灰を浮かせた血の海が、赤黒い筋を蛇のようにうねらせ、石床に広がるさまは……。
あの時と同じ。
濃厚な血の匂いに、嘔吐とは違う感覚が身体の奥からせりあがる。指先がしびれ、手を離れた剣が石床に落ちて乾いた音をたてた。白刃がまとっていた光りが消え、彼は崩れ落ちるように膝をつく。
唇を震わせながら、血濡れた両手を凝視した。
恐怖と混乱のなかで彼は問いかける。
この血は誰の血だ。
いつものように耳朶の奥で
アレ
が囁く。お前の父親の血だ。
殺したのは誰だ。
そりゃあ、お前だ。そんなこと、とうに分かっているじゃないか。
せせら笑う口調のアレに、彼は必死に抗った。
ちがうちがう! 殺したのは俺じゃない! 殺したのはあいつだ。あいつが、この俺を、かばって……。
じゃあさ。
必死の抗弁に、アレは冷徹な声で彼を追い詰める。
殺したのがあいつなら、ここにいるお前は、誰なんだ。
なあ、おまえは誰だ?
分からない――。
ひどい眩暈に襲われた。
記憶の糸がもつれ始め、ぐるぐると地面が回り始める。前のめりに突っ伏し、蛙のように這いつくばって、途切れかける意識を保とうと必死になった。
気づけば横たわる刃を無我夢中で掴んでいた。白刃に食い込む手の痛みなどものともせず、
これをどこかに隠さなければ――。
その執念ただひとつに突き動かされ、血だまりのなかを這いずりながら、火事場泥棒が掘った穴へとにじり寄る。
光を失った白刃に刻まれるのは、太陽と月、その周囲を取り巻く六つの星の三辰紋。
そして紋を抱くよう左右に配された雌雄の龍であった。
かつて
その高祖であり、最高の武人との誉れ高い六星王
剣の名を