第47話 不覚春暁

文字数 3,714文字

 知らせてくれたのは、波群(ハム)という見習いだ。
 晴夫(セイフ)は弟子を取らない主義であったが、この若者だけは工房に出入りを許され、手伝いをさせていた。

 乾物屋の次男として生まれ、東大参道の近くに、両親並びに兄夫婦と住んでいる。毎朝工房まで通っているのだが、裏口の扉を開けたときから、なにか嫌な感じがしたのだという。
 いつもなら火が入れられ、粥が煮られているはずの竈が使われていない。つまり、野明(ノア)が朝起きてこなかったことを示す。これはただごとではなかった。

 万が一にと、台所の包丁を手にする。忍び足で作業場へ進んだ。おっかなびっくり中を覗き込むと、彼の予感は的中していた。
 なかは、足の踏み場もないほど荒らされている。道具が床にぶちまけられ、片隅に、野明が仰向けに倒れていた。白い長衣の胸元が、血で染まっている。

 自分でもびっくりするくらい大きな声が出たという。
 悲鳴を上げながら外へ出る。それを見た近隣の者たちが、異変に気づいて集まってきた。彼らで工房内をくまなく探索したところ、《診察所》で、奇妙な格好で死んでいる晴夫を発見した。
 
 服は作業用の、薄汚れた長衣のまま。
 まるで蛙のような姿勢で床に座り込んでいた。
 薄目を開けた顔は眠っているようで、しかし何度呼びかけても、返事はない。駆けつけた医師の填土(ハメド)が検めたところ、四肢は硬直し、皮膚は冷たくなっていた。

 填土(ハメド)は死んでいると言ったが、それにしては外傷がない。奇妙な姿勢も不自然だった。

 ――これは、藍那さんに尋ねるのがいいだろう。

 混乱していたが、波群(ハム)はそう判断した。師匠は水蛙功の達人。武術のことは武術の手練に訊くに限る。それに、天星羅のことも知らせなければならない。
 遺体のことを近隣のものに頼み、走りに走った。金亀楼にたどり着くなり

 ――せ、先生を、先生をおねげえします!

 そう叫んで、勝手口で倒れ込んだらしい。
 知らせが来たとき藍那はまだ眠っていて、血相を変えた由真に起こされた。慌てて身支度をし、代わりの剣を佩いて勝手口へと急ぐ。
 たどり着いたとき、床に座り込んだ波群は、柄杓で水を飲まされているところだった。立ち上がろうとしたのを手で制し、

晴夫(セイフ)は? 天星羅はどうなったの?」

 訊ねると、しょんぼりとうなだれる。

「それが……まだわからねえんで……」

 波群(ハム)がことの仔細を説明するあいだも、正直なところ気が気ではなかった。天星羅は藍那にとって、単なる剣以上の存在だ。母の形見であり、歴戦をともにした戦友。晴夫は剣などただの道具というが、どうしてもそうは思えない。

 ようやく話が晴夫に及んで、耳を疑った。いつか用心棒仲間から、水蛙功の奥義(不覚春暁)のことを聞いたことがある。しかし、いわゆる大げさな作り話だろうと信じていなかった。

「本当に死んでいたの? 身体が冷たくなっていたんだね?」
「は、はい。でもお顔は眠っているみてえで、とっても死んだとは思えねえんです」

 波群は答えてからべそをかいた。

野明(ノア)はあんなになっちまって……。昨日工房を出るときだって、普通にしてたのに。先生、なにがいったいどうなっちまったんだか、俺さっぱりですよ」

 藍那は黙って波群の肩を叩いた。気持ちは痛いほど分かる。しかし、ぐずぐずしていられなかった。

「波群、落ち着いて聞いて。晴夫は死んでいない。それは《不覚春暁》といって、水蛙功の奥義だ」
「ふ、ふかく……?」
「蛙が冬眠するみたいに、まるで死んだようになるんだよ。もしそのまま土に埋めてしまっても、誰かが目覚めさせないかぎり、ずっと眠り続ける。歳も取らずにね」

 そばで聞いていた由真が訊ねた。

「そんなことが……本当にあるんですか?」 
「私もこの目で見たわけじゃないからね。本当かどうかは分からない。でも波群の話から、今の晴夫(セイフ)が死んでいるとは思えないのさ」
「でも、だとしたら……し、師匠はこの先も、ずうっとあのままで?」
「私が小耳に挟んだところでは、百年経ったら自然に目覚めるらしい」
「ひゃ、百年?」

 波群と由真、その場に居たものたち全員が声を上げた。

「ひゃ、百年って……そんな、俺、困ります……」

 波群が赤い目をしばたいた。

「俺、師匠に憧れて……まだなんにも教わっちゃいねえのに……百年なんて……」
「そりゃそうだ。私だって困る。何があったのか、晴夫の口から説明してもらわないとね。だから、彼にはどうしても目覚めてもらわなきゃ」
「なにかいい方法が?」
「いや、知らない。まずは晴夫の状態を調べてみる。そこに経絡(けいらく)の理論を応用すれば、どうすればいいのかは、おのずと分かるはずだ。波群、お前は少し休んでから工房に戻って。私は一足先に、医者のところへ行ってくる。野明(ノア)の遺体を調べておきたい」
「へ、へえ」
「晴夫を見てくれた、近所の医者の名前は?」
填土(ハメド)先生です。工房から西側へ進んで、葡萄牙(プタオヤ)街の東境通りを、一本裏に入ってください。そこに診療所が」
「分かった。そういえば、紫園は台所?」

 由真に訊ねた。

「はい。感謝祭で食べるお菓子の準備に」
「そうか……」

 紫園を同伴しようかとも思ったが、晴夫を襲った連中がどう出てくるかわからなかった。万が一、藍那の留守中に金亀楼になにかあれば、彼の腕を頼るしかない。台所にいるなら、武器には不自由しないはずだ。

「出かけてくる。波群、工房でまた」
「気をつけてください、先生。晴夫さんを襲った奴ら、まだ近くにいるかも」

 心配そうな由真にうなずき、金亀楼をあとにした。

 * * *

《大尊》の伽藍が見えるころには腹をくくっていた。天星羅のことについては、今更慌てたところで仕方がない。

 流浪の用心棒暮らし。そのあいだ、天星羅を盗まれたり売られそうになったことは、一度や二度ではない。同じ用心棒稼業の女に盗まれ、足を棒にして探し回ったこともある。
 それでも不思議なことに、あの剣は自分のところにちゃんと戻ってきてくれるのだ。

 ――だから、きっと今回も大丈夫だ。

 藍那のなかでそんな確信めいたものがあった。
 東境通りは迷路のようだ。初めて訪れたものが、すんなりと目的地にたどり着くのは難しい。藍那も少し迷い、人に道を訊ねつつ、ようやく填土(ハメド)の診療所にたどり着いた。

 応対に出たのは助手らしき老人だ。明らかに眼前の訪問者を疑いの目で見ていたが、名を名乗り、波群からの依頼できたというと、ようやく中へ通してくれた。
 医師の填土(ハメド)は五十代くらいの羅典人で、痩せぎすで、珍しく眼鏡をかけている。長衣の袖をまくりながら、藍那を診察室へと通した。かすかに死臭が漂って、藍那は顔をしかめる。この匂いにはどうしても慣れない。

 中央に、白布を掛けられた診察台が据えられていた。

「傷口を見ても、相当の手練とわかりますな」

 填土(ハメド)が掛け布をめくった。
 ほぼ全裸になった野明が仰向けに横たわり、ぱっくりと開いた喉を晒している。白く痩せた身体は、風雨に洗われた倒木を思わせた。顔を寄せてみると、断面が揃っていて乱れがない。死は一瞬で、苦しむこともなかったろう。
 遺体に手を合わせてから医者に訊ねた。

「他に外傷は?」
「ありませんでした。喉が致命傷だったようです。横払いですっと切ったんですな。腕が悪くちゃこうはならない」
「ところでこの右手ですが」

 藍那は遺体の右手首をつかむ。硬直した指先は、人差し指から小指が、揃えて折り曲げられていた。人差し指に添えられた親指を、藍那は示した。

「死に際、彼は剣を握っていたようですが、近くにそれらしい剣は?」
「作業場の片隅で死んでおりましたが、床一面、足の踏み場もないほど荒らされておりましたよ。ですが、ざっと見ただけですが、剣のようなものはなかったと思いますね」
「そうですか……大丈夫、もうけっこうです」

 填土(ハメド)は野明の姿を覆う。

「それで晴夫ですが、先生は死んでいるとお考えとか」
「議論の余地はありませんな。死後の四肢硬直と体温の低下。心音が聞こえず、息をしていない。死んでいると考えるのが妥当でしょう」

 医者は当然だという表情で答えた。

「なるほど。ところで野明の遺体は役人に?」
「役人に検死の報告をして、あとは晴夫と一緒に、葬儀屋に引き渡しますよ。火葬か土葬か、あの弟子に決めてもらわにゃなりません」
「だとすると、野明と晴夫の葬儀代はどこから?」
「弟子によれば、台所の床下に埋めていた壺に、相当の金が貯めてあったそうです。盗まれていなければ、の話ですがね」
「なるほど」

 丁重に礼を言って、診療所をあとにする。そこから晴夫の工房まで走った。工房にたどり着くと、あたりは野次馬で人だかりが出来ている。

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登場人物紹介

紫園ㅤ

記憶を失くした青年。奥尔罕オルハンの帝都阿耶アヤから東にある港街、泉李イズミルの大火で生き残っていたところを助けられ、金亀楼コンキろうに下男として引き取られる。読み書きができ、剣も使える謎多き人物。赤みがかった栗色の髪に、珍しい紫色の瞳の持ち主。

璃凛リリン藍那アイナ
母から伝えられた双極剣の遣い手であり、女ながら用心棒で生計を立てている。現在は帝都随一の色街、紅籠ヴェロ街の娼館、金亀楼で働くが、訳あって母の名前である藍那アイナを名乗っている。十八歳。

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