第48話 百年の眠り
文字数 3,970文字
「ごめんよ、ちょっと通しておくれ」
人混みをかき分け、隙間を縫うように、ようやく入り口へとたどり着いた。木戸を叩くと、のぞき窓が開く。明るい栗色の瞳が藍那を認めると、すかさず閂 が外される音がした。ひと一人通れる隙間が開けられ、
「先生、急いで入ってきてください」
波群 の声が扉の影から促した。藍那がすべりこむと、急いで扉が閉められる。
「すみません、さっきから野次馬がひどくて。こんな物騒なこと、ここらじゃ珍しいんですよ」
「まあ、そうだろうね。そういや役人は来たのかい」
「今、師匠のところです。お役人も、まず間違いなく死んでいる……って」
「知らない人がそう考えるのも無理ないさ。作業場を見てもいいかな」
「はい」
作業場は工房の奥、北の裏通りに面している。なかは聞いたとおりの惨状で、素焼き煉瓦を敷き詰めた床に、晴夫が使っていた道具が散らばっていた。
大槌に小槌、火箸、研ぎ舟に砥石、タガネにヤスリ。室内を見渡すと、左の壁際だけが物が散らかっておらず、その代わり、床が黒く変色していた。どうやら、ここに野明 が倒れていたようだ。
「ここは野明を動かした以外、誰も触っていないんだね」
「はい」
「作業場からなくなっていたものは?」
「床に落ちていたものをざっと見てみましたが、なかったです」
「つまり、物盗りが目的ではない」
「ですが、お役人は、師匠が貯めていた金が目当てだろうって」
「そのとおり」
声のした方へと振り返った。
見ると、現場に駆けつけた警邏の役人が二人。いずれも藍那に厳しい視線を投げている。片方はつい先日、香良楼が倒壊した現場で藍那を捕らえた男だ。
帝都の警邏隊は屈強、かつ勇猛果敢で知られている。その強面二人が、苦虫を噛み潰した表情で、仁王立ちになっていた。
口を開いたのは、先日も世話になったほうだ。
「金亀楼の藍那、またあんたか。最近、随分と物騒な厄介事に縁があるようだな」
「お役目お疲れさまです。別に好きで縁付いているわけでもないのですが」
「ふん、お役目でもないものが、現場をうろうろされてもらっては困るな。ただでさえ、最近のお前はどこか胡散臭い」
そこに波群が口を挟んだ。
「しかしお役人さま。先生はきのう、師匠に剣を預けなさったんです。ですが、工房じゅうを探しても見つからなくて。ですから先生が、自分で探すためにこうして……」
波群を役人がにらみつける。その一瞥で縮み上がったらしく、しょんぼりとうなだれてしまった。
「この弟子によれば、晴夫は随分と金を溜め込んでいたらしいな。その金が目当ての強盗だと、こちらでは考えている」
「たしかにそうかも知れませんね。その金は見つかったのですか?」
「台所の床下に隠し場所があったが、埋めていたはずの壺がなかった。これで間違いないだろう?」
そうなのかと藍那は波群 に目で訊ねた。弟子は無言でうなずき、再びうなだれる。
「そうですか。ではおそらく物盗りの線で間違いなさそうですね。もしかしたら、私の剣も盗られてしまったのかもしれません」
「お前の剣が盗られたとは、なんとも気の毒なことだな。盗品が見つかれば、そのなかにあるかもしれん。気を落とさずに待つことだ」
興味なさそうに髭をなでつけた男へ、藍那は続けた。
「ところで、さきほど医者の填土 のところへ行ってきたのですが、遺体をあらかた調べてしまったので、来てほしいとのことでした。それから、盗られたかもしれない私の剣を、探す許可を頂きたいのですが」
「この弟子のほかは、しばらく立ち入りを禁じているんだがな」
藍那は懐から小さな袋を取り出し、役人の鼻先へと差し出した。彼は眉をひそめ、面倒そうに受け取り、中身をしらべる。とたんに彼の表情が一変し、満足そうな笑みを浮かべて、懐へと忍ばせた。
晴夫に支払うはずだった銀鈔十枚。しかし決して無駄にはならないはずだ。
「よかろう、特別に許可してやる。だが剣を探すだけだ、いいな」
「お気遣い痛み入ります」
役人たちは出ていった。おそらくしばらくは戻ってこないはずだ。
「よし、じゃあ晴夫のところへ行こう」
波群の返事を待たずに踵 を返し、《診察所》へと向かう。
昨日剣を交えた場の中央に、彼はいた。服は汚れた長衣のまま。瞑目し、両手のひらをぴったりと、素焼き煉瓦の床に這わせていた。
「これはまた、役人たちは驚いたろうね」
「あの二人で師匠を動かそうとしてましたが、びくともしませんでしたよ」
「水蛙功は内勁で自重を増して、身体を沈墜させる技だ。内勁の達人でなければ、晴夫を動かすのは至難の技だろうね。どれ」
背中に耳を当てても、心音が聞こえない。四肢は硬直し、触れた皮膚は冷たくなっている。役人や医者が遺体と断じるのも、無理はなかろう。
「しかしおかしいとは思わないかい。昨夜死んだのなら、そろそろ匂い始めてもいいころだ。今日はこのとおり、秋にしては暑いくらいだからね」
「た、たしかに……じゃあ、やっぱり師匠は」
「死んでいないなら、勁の動きがどこかに感じられるはずだ。おそらく体内のどこか一点に、勁を集中させているんだろう。そこを探り当て、目覚めさせるための勁力を注いでやれば――」
「どこか一点って、心臓とかですか?」
「人の身体には、七つの経穴 がある。気の流れる道のことを経絡というんだが、経穴はその要点にあたるのさ。勁を集中させているのは、そのうちのどれかだね。そこを聴勁でさぐり当てる」
「は、はあ……俺にはよく分かんないすが」
「とりあえず、そこにいてくれ。聴勁に意識を集中させるあいだ、どうしたって無防備になるからね。余計な邪魔が入らないよう、それだけ頼むよ」
「分かりました」
波群が表情を引き締めた。
藍那は晴夫の背後に回り、膝を折って、背中に手を当てた。目を閉じ、意識を手のひらから晴夫のなかへと潜り込ませる。勁のわずかな気配も漏らさぬよう、極限まで感覚を研ぎ澄ませた。
息づいているはずの勁の動き。まずは心臓の裏を探った。次に丹田。そこから恥骨、尾骨へと下がったが、何の動きも見られない。
(だとすると、喉から上……)
喉から眉間、そして頭頂部。この三つの経穴も外れであった。一度意識を引き上げ、背中に当てていた手を外す。立ち上がり、大きく息を吐いた。
「どうですか?」
「経穴を探ってみたけれど、それらしいものは見つからなかった」
「そ、それって……やっぱり死んでるんじゃ」
「さてね。ちょっと試してみようか」
藍那は佩いていた剣を抜いた。
「先生、な、なにを――」
驚く波群を尻目に、両手で握りしめた柄 を振り上げる。そのまま晴夫の後頭部めがけ、一気に振り下ろした。切っ先が、晴夫を貫くかに見えたその瞬間――
カッ――――!!!
「――!?」
波群が息を呑んだ。
剣尖 は禿頭 の手前、紙一枚もない寸前でぴたりと止まっている。まるで、薄い鎧に覆われているように。
「こ、これは?」
「どうだい? これでお前の師匠が生きているって分かったろう」
「は、はい」
「私も今ので分かったことがある。水蛙功の奥義は百年の眠り。勝手に目覚めさせられないよう、凝 らせた勁を経穴に隠している。おそらく、晴夫の勁は恥骨のあたりに隠されているはずだ。勁力をぶつけた時、そのあたりに、かすかな動きを感じた」
波群 へ剣を差し出し、再び晴夫の背後へと回った。膝を折って手を腰に当て、目を閉じる。聴勁をつかい、意識をなかへと沈ませた。
恥骨の経穴は、性器と関連している。だが晴夫はまだ少年の頃に宦官になり、男性器を切り取られた。
肉体的損傷が経穴に与える影響については、分からないことが多い。経穴に多大な影響を与えるほどの傷を負ったものは、その欠落を補うため、常人とは違う働きをすると聞いたことがある。
しんと静まり返っていた。
息を吐き、手のひらから勁を注ぎ込んだ。ゆっくりと、慎重に。凍えた鳥を息で温めるように。経験上、こういうときは焦らないのが一番だ。
恥骨の経穴が、ほんのかすかな熱を帯びてきた。それはほどなく、規則正しく脈打ち、確かな生命力を伝えてくる。
「よし」
目を見開き、すかさず立ち上がった。
「今度こそ目覚めてもらうよ、晴夫。ちと荒っぽいけどね!」
握りしめた右手は平拳。
地面を穿つほどの勢いをつけ、ありったけの勁を突きに込めた。
哈 ――――!
一瞬。
まばゆい光が晴夫の身体を覆う。それはすぐに消え、
「し、師匠!? せ、先生! 師匠が目を――開けて――」
波群が声を震わせた。
眠たげな視線が波群と藍那から、天井、床を舐める。
「晴夫、私の声が聞こえる?」
分厚い唇がにやりと笑った。そして這っていた上体を起こし、
「まったく、ずいぶんと荒っぽい起こし方じゃないか」
床にどっかりと腰を下ろした。
「師匠!」
「おう波群かい。悪いが水を一杯、持ってきとくれ」
「は、はい」
波群が《診察所》を出ていくと、藍那は腕を組み、晴夫を見つめる。
「晴夫、ゆうべ、一体何があったのです」
藍那の問いかけに、晴夫の表情がつかの間消えた。そして引きつったような笑いを、口元に浮かべる。
「は、何があったって? それはそうと藍那、おまえさん、最近妙に物騒だと思ったら、いつの間に花郎党 なんて連中と関わってたんだ?」
人混みをかき分け、隙間を縫うように、ようやく入り口へとたどり着いた。木戸を叩くと、のぞき窓が開く。明るい栗色の瞳が藍那を認めると、すかさず
「先生、急いで入ってきてください」
「すみません、さっきから野次馬がひどくて。こんな物騒なこと、ここらじゃ珍しいんですよ」
「まあ、そうだろうね。そういや役人は来たのかい」
「今、師匠のところです。お役人も、まず間違いなく死んでいる……って」
「知らない人がそう考えるのも無理ないさ。作業場を見てもいいかな」
「はい」
作業場は工房の奥、北の裏通りに面している。なかは聞いたとおりの惨状で、素焼き煉瓦を敷き詰めた床に、晴夫が使っていた道具が散らばっていた。
大槌に小槌、火箸、研ぎ舟に砥石、タガネにヤスリ。室内を見渡すと、左の壁際だけが物が散らかっておらず、その代わり、床が黒く変色していた。どうやら、ここに
「ここは野明を動かした以外、誰も触っていないんだね」
「はい」
「作業場からなくなっていたものは?」
「床に落ちていたものをざっと見てみましたが、なかったです」
「つまり、物盗りが目的ではない」
「ですが、お役人は、師匠が貯めていた金が目当てだろうって」
「そのとおり」
声のした方へと振り返った。
見ると、現場に駆けつけた警邏の役人が二人。いずれも藍那に厳しい視線を投げている。片方はつい先日、香良楼が倒壊した現場で藍那を捕らえた男だ。
帝都の警邏隊は屈強、かつ勇猛果敢で知られている。その強面二人が、苦虫を噛み潰した表情で、仁王立ちになっていた。
口を開いたのは、先日も世話になったほうだ。
「金亀楼の藍那、またあんたか。最近、随分と物騒な厄介事に縁があるようだな」
「お役目お疲れさまです。別に好きで縁付いているわけでもないのですが」
「ふん、お役目でもないものが、現場をうろうろされてもらっては困るな。ただでさえ、最近のお前はどこか胡散臭い」
そこに波群が口を挟んだ。
「しかしお役人さま。先生はきのう、師匠に剣を預けなさったんです。ですが、工房じゅうを探しても見つからなくて。ですから先生が、自分で探すためにこうして……」
波群を役人がにらみつける。その一瞥で縮み上がったらしく、しょんぼりとうなだれてしまった。
「この弟子によれば、晴夫は随分と金を溜め込んでいたらしいな。その金が目当ての強盗だと、こちらでは考えている」
「たしかにそうかも知れませんね。その金は見つかったのですか?」
「台所の床下に隠し場所があったが、埋めていたはずの壺がなかった。これで間違いないだろう?」
そうなのかと藍那は
「そうですか。ではおそらく物盗りの線で間違いなさそうですね。もしかしたら、私の剣も盗られてしまったのかもしれません」
「お前の剣が盗られたとは、なんとも気の毒なことだな。盗品が見つかれば、そのなかにあるかもしれん。気を落とさずに待つことだ」
興味なさそうに髭をなでつけた男へ、藍那は続けた。
「ところで、さきほど医者の
「この弟子のほかは、しばらく立ち入りを禁じているんだがな」
藍那は懐から小さな袋を取り出し、役人の鼻先へと差し出した。彼は眉をひそめ、面倒そうに受け取り、中身をしらべる。とたんに彼の表情が一変し、満足そうな笑みを浮かべて、懐へと忍ばせた。
晴夫に支払うはずだった銀鈔十枚。しかし決して無駄にはならないはずだ。
「よかろう、特別に許可してやる。だが剣を探すだけだ、いいな」
「お気遣い痛み入ります」
役人たちは出ていった。おそらくしばらくは戻ってこないはずだ。
「よし、じゃあ晴夫のところへ行こう」
波群の返事を待たずに
昨日剣を交えた場の中央に、彼はいた。服は汚れた長衣のまま。瞑目し、両手のひらをぴったりと、素焼き煉瓦の床に這わせていた。
「これはまた、役人たちは驚いたろうね」
「あの二人で師匠を動かそうとしてましたが、びくともしませんでしたよ」
「水蛙功は内勁で自重を増して、身体を沈墜させる技だ。内勁の達人でなければ、晴夫を動かすのは至難の技だろうね。どれ」
背中に耳を当てても、心音が聞こえない。四肢は硬直し、触れた皮膚は冷たくなっている。役人や医者が遺体と断じるのも、無理はなかろう。
「しかしおかしいとは思わないかい。昨夜死んだのなら、そろそろ匂い始めてもいいころだ。今日はこのとおり、秋にしては暑いくらいだからね」
「た、たしかに……じゃあ、やっぱり師匠は」
「死んでいないなら、勁の動きがどこかに感じられるはずだ。おそらく体内のどこか一点に、勁を集中させているんだろう。そこを探り当て、目覚めさせるための勁力を注いでやれば――」
「どこか一点って、心臓とかですか?」
「人の身体には、七つの
「は、はあ……俺にはよく分かんないすが」
「とりあえず、そこにいてくれ。聴勁に意識を集中させるあいだ、どうしたって無防備になるからね。余計な邪魔が入らないよう、それだけ頼むよ」
「分かりました」
波群が表情を引き締めた。
藍那は晴夫の背後に回り、膝を折って、背中に手を当てた。目を閉じ、意識を手のひらから晴夫のなかへと潜り込ませる。勁のわずかな気配も漏らさぬよう、極限まで感覚を研ぎ澄ませた。
息づいているはずの勁の動き。まずは心臓の裏を探った。次に丹田。そこから恥骨、尾骨へと下がったが、何の動きも見られない。
(だとすると、喉から上……)
喉から眉間、そして頭頂部。この三つの経穴も外れであった。一度意識を引き上げ、背中に当てていた手を外す。立ち上がり、大きく息を吐いた。
「どうですか?」
「経穴を探ってみたけれど、それらしいものは見つからなかった」
「そ、それって……やっぱり死んでるんじゃ」
「さてね。ちょっと試してみようか」
藍那は佩いていた剣を抜いた。
「先生、な、なにを――」
驚く波群を尻目に、両手で握りしめた
カッ――――!!!
「――!?」
波群が息を呑んだ。
「こ、これは?」
「どうだい? これでお前の師匠が生きているって分かったろう」
「は、はい」
「私も今ので分かったことがある。水蛙功の奥義は百年の眠り。勝手に目覚めさせられないよう、
恥骨の経穴は、性器と関連している。だが晴夫はまだ少年の頃に宦官になり、男性器を切り取られた。
肉体的損傷が経穴に与える影響については、分からないことが多い。経穴に多大な影響を与えるほどの傷を負ったものは、その欠落を補うため、常人とは違う働きをすると聞いたことがある。
しんと静まり返っていた。
息を吐き、手のひらから勁を注ぎ込んだ。ゆっくりと、慎重に。凍えた鳥を息で温めるように。経験上、こういうときは焦らないのが一番だ。
恥骨の経穴が、ほんのかすかな熱を帯びてきた。それはほどなく、規則正しく脈打ち、確かな生命力を伝えてくる。
「よし」
目を見開き、すかさず立ち上がった。
「今度こそ目覚めてもらうよ、晴夫。ちと荒っぽいけどね!」
握りしめた右手は平拳。
地面を穿つほどの勢いをつけ、ありったけの勁を突きに込めた。
一瞬。
まばゆい光が晴夫の身体を覆う。それはすぐに消え、
「し、師匠!? せ、先生! 師匠が目を――開けて――」
波群が声を震わせた。
眠たげな視線が波群と藍那から、天井、床を舐める。
「晴夫、私の声が聞こえる?」
分厚い唇がにやりと笑った。そして這っていた上体を起こし、
「まったく、ずいぶんと荒っぽい起こし方じゃないか」
床にどっかりと腰を下ろした。
「師匠!」
「おう波群かい。悪いが水を一杯、持ってきとくれ」
「は、はい」
波群が《診察所》を出ていくと、藍那は腕を組み、晴夫を見つめる。
「晴夫、ゆうべ、一体何があったのです」
藍那の問いかけに、晴夫の表情がつかの間消えた。そして引きつったような笑いを、口元に浮かべる。
「は、何があったって? それはそうと藍那、おまえさん、最近妙に物騒だと思ったら、いつの間に