第42話 訣別
文字数 3,585文字
あの男とは誰なのか、問うべくもなかった。藍那は蔵人を凝視する。
静かな口調だか、眼光は闘気を孕んでいた。卓上の両手には指先まで勁が巡り、藍那は固唾をのんでその動きを追う。
右手が動いて懐へと忍んだ。取り出されるのは飛鏢 かそれとも小剣か。
あに図らんや、指先がつまみ出したのは白い薬包だ。卓へと置いてそのまま藍那の方へ音もなく滑らせる。
「もちろん。殺し方はあなたにお任せしますが、あなたがあの男を斬れるとは私も思っていない。それは《花郎党 》でも使われている強力な毒です」
「毒」
「飲んだ人間は苦しまずに死ぬ。飲めばしばらくして眠くなり、眠っているあいだに静かに事切れる。疑いようがない。誰もが病死と思うでしょう。
これを飲ませられるのは藍那、帝都広しといえどあなただけだ。今の彼はあなたを信頼しきっていますからね」
つまりそれは――。
「要するに、剣で殺せないのなら毒を盛れと」
「剣客としての沽券に関わりますかな」
「沽券などはどうでもいい。彼を殺さなければならない理由を伺いたい」
藍那の問いに、一呼吸おいて蔵人が答えた。
「あなたにもお分かりのはずだ。あの男がどれほどの化け物か。《花郎党》でも三指に入る手練れがまるで子ども扱いです。そして見たところ、あれは本気の一部も出していなかった」
「見ていたのですか?」
「見ておりましたよ、一部始終」
藍那から外れた視線が、彼の手元を見つめる。卓に置かれた指先は虎爪 を思わせた。隅々まで勁が満ち、いつなんどき、牙をむいてもおかしくはない。
「あの時、私は確信したのです。あれは生かしておいてはならないものだと。今なら……あの化け物が記憶を失い、龍三辰が封印されている今なら、まだ間に合う。藍那――」
蔵人は面を上げた。
冬の湖水のように冷たく澄んだ双眸が、藍那をしばし見つめる。
奥底に殺意を沈めた静寂が続いたのち、蔵人は告げた。
「あれを、決して目覚めさせてはならない」
藍那は薬包に目を落とし、天星羅の柄に手をかけた。
静かだ。
気がつけば、扉の向こうの喧噪が今はない。
酔っぱらいたちの哄笑 。
食器がぶつかりあう音。
給仕女たちの世辞と嬌声。
すべて消えた。
この香良楼から客、給仕、料理人、全員いなくなった。
つまりそれの意味するところは――。
藍那が問う。
「もし断れば?」
蔵人が答える。
「あなたを斬る」
そして藍那が答えた。
「――ならば断る」
* * *
斬撃。
瞬間椅子を蹴り、藍那の身体が宙へとひるがえった。同時に木卓と椅子が真っ二つに裂ける。滑り落ちた椀と銚子が鋭い音を立てながら破砕し、舞い上がった湯と茶葉の匂いが辺りにたちこめた。
着地とともに次の一撃が襲ってくる。いや一度に二撃。
蔵人の武器は左右の小剣。
エンドウ豆に似た剣で、片刃がゆるやかな曲線を描いている。華羅の西域に住む浛流 と呼ばれる遊牧民たちが使う豌 刀に似ていた。
その剣筋はまさに縦横無尽。
対する藍那は右手に天星羅、左手に鞘。
カンカカッカンカンカンカカッ―――!!
鋼が打ち合うたびに火花が奔る。六閃の攻撃をかろうじて受け流し、ほころびを慎重に探っていった。
打ち込みからはかる技量はほぼ互角。しかし互角というのが一番厄介なのだ。
とりあえずこの部屋は戦うには狭すぎる。
繰り出された左の上段斬りからの中段蹴りを旋転でよけ、背後にあった壁を一気に駆け上がった。壁面を蹴って天星羅を逆手に構え、左の鞘と揃える。そして落下と同時に渾身の勁を床へと振り下ろした。
ガッ――!
打ち込まれた剣首と鞘尻からすさまじい勁がほとばしる。
一瞬で周囲のあらゆるものが吹き飛んだ。
床に転がった欠けた陶器片から木屑に椅子や卓だったもの。それらと一緒に蔵人の身体が壁へと叩きつけられる。その隙をついて素早く天星羅を鞘に収め、
「哈 !」
右の掌打が扉を打ち砕いた。
飛び出してみると案の定、店はもぬけの殻だった。壁の燭台がこうこうと照らすなか、人っ子一人見当たらない。
先ほどまでの喧噪からとり残された酒杯に椀に皿。食べかけの煮卵は箸をつけられたばかりで、粥からは湯気が立っている。
酒家は三階建て円形状の建物で、中央が吹き抜けという造り。吹き抜けをぐるりと囲むようにらせん階段がしつらえてある。天井には見事な硝子細工の釣り燭台が下がり、まるで真昼のような明るさで楼内を照らしていた。
来るときには給仕に案内されながら上ったそこを、藍那は一気に駆け下りる。
ヒュン――!
耳がその音を捕らえるより前に身体が動いた。背後から飛んできた脅威を振り向きざまに抜剣、天井へと流した。続けざまに飛んできたもう一つは壁へ。
だが
「――!?」
先の二つは陽動。尻輪の紅巾をなびかせた飛鏢が、すぐ眼前に迫っていた。切っ先は真っ直ぐ藍那の眉間を狙っている。
剣では無理。
悟ったときには横に飛んでいた。階段の手すりを飛び越え、吹き抜けを真っ直ぐ落下する。すかさず勁壁を張りめぐらせて着地の衝撃をやわらげたが、あおりを食らった周囲の卓と椅子が派手な音を立ててはじき飛んだ。
「たいしたものですね。あの東大参道の時から確実に腕を上げられている」
顔を上げるとすぐ傍の踊り場に蔵人がいた。
「さぞや功夫 を積まれたに違いない。その努力には敬意を表します」
ひらりと手すりを飛び越え着地、震脚で瞬時に距離を詰められた。
カンカンカカッカンカンカンカカッ―!
素早く動く双剣はまさに雷撃のごとく。
上下左右、振りの短い攻撃をかわすのは楽ではない。長剣と距離感がまるで違う。さらに軽業のような身のこなしから不意に鋭い足技が飛んでくる。
これが泰雅の剣客とやり合う前の藍那であれば、勝機を探れずにいたかもしれない。しかしそこは修羅をくぐり抜けただけのことはある。
中段の回し蹴りから上段の剣首の打ち込み。それらを紙一重でかわし、巻き込んだ右手の剣を軸にして右、左と蹴りを突き入れる。
蔵人の身体が大きく後退し、着地してから身を沈めた。
すかさず、右手の剣を口に咥えてから手のひらを一振り。まるで手品のように取り出された三つの飛鏢が投擲される。
左、中、右。
放たれた飛鏢の二つは弧を描き、一つは直進して藍那へと飛んでいく。たとえ正面から来る一つをたたき落としたとしても、続けざまに左右からの刃が迫ってくる。
「せいっ!」
唯一の活路、宙へと高く跳ね上がった。
見定めたように飛んできた四投目を鞘で払いのけ、機を逃さずと天星羅で蔵人の足元をなぎ払う。飛び退きざま、蔵人が放った三つの飛鏢が、正確な三角形を描いて床に打ち込まれた。。
「藍那、あなたの紫園を守ろうとする覚悟、この剣で確かめさせてもらいました」
真っ二つに裂かれた木卓にちぎれた龍の壁掛け。それらを背に蔵人は言った。
「今のところ、あなたと私の力は互角。このまま千日戦ったとしても勝負はつきますまい。ですが藍那、もう引き返すことは出来ない。あなたは今この時から、あの男の業をその身に背負うのです。
これまであの男が振りまいてきた、そしてこれから振りまくであろう多くの不幸から、あなたは決して逃れることはできない」
「蔵人、あなたは何故」
「藍那、あなたは私にとっても、花蓮にとっても大切な友人だった。だからこそ、とても残念です」
ふいに。
床に打ち込まれた飛鏢が鋼の身を震わせながら発勁した。
地脈から吸い上げられた強烈な勁が、尻輪の紅巾を垂直になびかせる。三角の頂点を弧を描くように巡ってから、床を這い、壁へと伸びていく。
蔵人が放ち、藍那がかわした飛鏢は七つ。
それらの六つは壁に、一つは天井に下がる大燭台の根元へと刺さっていた。壁に刺さった六つの飛鏢はまるで龍の尾のようなかたちをなし、天井のそれへとつながっている。
「まさか――! 蔵人!」
飛鏢を伝いながら上った勁が、天井の飛鏢その一点を中心に大きな渦をまいた。渦に巻かれた燭台の火は消えることなく、むしろ勢いを増して燃え上がり、触れあう硝子の音がカタカタとあたりに鳴り響く。
「蔵人、待って!」
「藍那、生きていたらまた会いましょう!」
蔵人が大きく手を振り上げた。
指先から放たれた飛鏢が、渦の中央へと吸い込まれる。
刹那。
耳を聾 する爆音とすさまじい衝撃が藍那をのみ込んだ。
静かな口調だか、眼光は闘気を孕んでいた。卓上の両手には指先まで勁が巡り、藍那は固唾をのんでその動きを追う。
右手が動いて懐へと忍んだ。取り出されるのは
あに図らんや、指先がつまみ出したのは白い薬包だ。卓へと置いてそのまま藍那の方へ音もなく滑らせる。
「もちろん。殺し方はあなたにお任せしますが、あなたがあの男を斬れるとは私も思っていない。それは《
「毒」
「飲んだ人間は苦しまずに死ぬ。飲めばしばらくして眠くなり、眠っているあいだに静かに事切れる。疑いようがない。誰もが病死と思うでしょう。
これを飲ませられるのは藍那、帝都広しといえどあなただけだ。今の彼はあなたを信頼しきっていますからね」
つまりそれは――。
「要するに、剣で殺せないのなら毒を盛れと」
「剣客としての沽券に関わりますかな」
「沽券などはどうでもいい。彼を殺さなければならない理由を伺いたい」
藍那の問いに、一呼吸おいて蔵人が答えた。
「あなたにもお分かりのはずだ。あの男がどれほどの化け物か。《花郎党》でも三指に入る手練れがまるで子ども扱いです。そして見たところ、あれは本気の一部も出していなかった」
「見ていたのですか?」
「見ておりましたよ、一部始終」
藍那から外れた視線が、彼の手元を見つめる。卓に置かれた指先は
「あの時、私は確信したのです。あれは生かしておいてはならないものだと。今なら……あの化け物が記憶を失い、龍三辰が封印されている今なら、まだ間に合う。藍那――」
蔵人は面を上げた。
冬の湖水のように冷たく澄んだ双眸が、藍那をしばし見つめる。
奥底に殺意を沈めた静寂が続いたのち、蔵人は告げた。
「あれを、決して目覚めさせてはならない」
藍那は薬包に目を落とし、天星羅の柄に手をかけた。
静かだ。
気がつけば、扉の向こうの喧噪が今はない。
酔っぱらいたちの
食器がぶつかりあう音。
給仕女たちの世辞と嬌声。
すべて消えた。
この香良楼から客、給仕、料理人、全員いなくなった。
つまりそれの意味するところは――。
藍那が問う。
「もし断れば?」
蔵人が答える。
「あなたを斬る」
そして藍那が答えた。
「――ならば断る」
* * *
斬撃。
瞬間椅子を蹴り、藍那の身体が宙へとひるがえった。同時に木卓と椅子が真っ二つに裂ける。滑り落ちた椀と銚子が鋭い音を立てながら破砕し、舞い上がった湯と茶葉の匂いが辺りにたちこめた。
着地とともに次の一撃が襲ってくる。いや一度に二撃。
蔵人の武器は左右の小剣。
エンドウ豆に似た剣で、片刃がゆるやかな曲線を描いている。華羅の西域に住む
その剣筋はまさに縦横無尽。
対する藍那は右手に天星羅、左手に鞘。
カンカカッカンカンカンカカッ―――!!
鋼が打ち合うたびに火花が奔る。六閃の攻撃をかろうじて受け流し、ほころびを慎重に探っていった。
打ち込みからはかる技量はほぼ互角。しかし互角というのが一番厄介なのだ。
とりあえずこの部屋は戦うには狭すぎる。
繰り出された左の上段斬りからの中段蹴りを旋転でよけ、背後にあった壁を一気に駆け上がった。壁面を蹴って天星羅を逆手に構え、左の鞘と揃える。そして落下と同時に渾身の勁を床へと振り下ろした。
ガッ――!
打ち込まれた剣首と鞘尻からすさまじい勁がほとばしる。
一瞬で周囲のあらゆるものが吹き飛んだ。
床に転がった欠けた陶器片から木屑に椅子や卓だったもの。それらと一緒に蔵人の身体が壁へと叩きつけられる。その隙をついて素早く天星羅を鞘に収め、
「
右の掌打が扉を打ち砕いた。
飛び出してみると案の定、店はもぬけの殻だった。壁の燭台がこうこうと照らすなか、人っ子一人見当たらない。
先ほどまでの喧噪からとり残された酒杯に椀に皿。食べかけの煮卵は箸をつけられたばかりで、粥からは湯気が立っている。
酒家は三階建て円形状の建物で、中央が吹き抜けという造り。吹き抜けをぐるりと囲むようにらせん階段がしつらえてある。天井には見事な硝子細工の釣り燭台が下がり、まるで真昼のような明るさで楼内を照らしていた。
来るときには給仕に案内されながら上ったそこを、藍那は一気に駆け下りる。
ヒュン――!
耳がその音を捕らえるより前に身体が動いた。背後から飛んできた脅威を振り向きざまに抜剣、天井へと流した。続けざまに飛んできたもう一つは壁へ。
だが
「――!?」
先の二つは陽動。尻輪の紅巾をなびかせた飛鏢が、すぐ眼前に迫っていた。切っ先は真っ直ぐ藍那の眉間を狙っている。
剣では無理。
悟ったときには横に飛んでいた。階段の手すりを飛び越え、吹き抜けを真っ直ぐ落下する。すかさず勁壁を張りめぐらせて着地の衝撃をやわらげたが、あおりを食らった周囲の卓と椅子が派手な音を立ててはじき飛んだ。
「たいしたものですね。あの東大参道の時から確実に腕を上げられている」
顔を上げるとすぐ傍の踊り場に蔵人がいた。
「さぞや
ひらりと手すりを飛び越え着地、震脚で瞬時に距離を詰められた。
カンカンカカッカンカンカンカカッ―!
素早く動く双剣はまさに雷撃のごとく。
上下左右、振りの短い攻撃をかわすのは楽ではない。長剣と距離感がまるで違う。さらに軽業のような身のこなしから不意に鋭い足技が飛んでくる。
これが泰雅の剣客とやり合う前の藍那であれば、勝機を探れずにいたかもしれない。しかしそこは修羅をくぐり抜けただけのことはある。
中段の回し蹴りから上段の剣首の打ち込み。それらを紙一重でかわし、巻き込んだ右手の剣を軸にして右、左と蹴りを突き入れる。
蔵人の身体が大きく後退し、着地してから身を沈めた。
すかさず、右手の剣を口に咥えてから手のひらを一振り。まるで手品のように取り出された三つの飛鏢が投擲される。
左、中、右。
放たれた飛鏢の二つは弧を描き、一つは直進して藍那へと飛んでいく。たとえ正面から来る一つをたたき落としたとしても、続けざまに左右からの刃が迫ってくる。
「せいっ!」
唯一の活路、宙へと高く跳ね上がった。
見定めたように飛んできた四投目を鞘で払いのけ、機を逃さずと天星羅で蔵人の足元をなぎ払う。飛び退きざま、蔵人が放った三つの飛鏢が、正確な三角形を描いて床に打ち込まれた。。
「藍那、あなたの紫園を守ろうとする覚悟、この剣で確かめさせてもらいました」
真っ二つに裂かれた木卓にちぎれた龍の壁掛け。それらを背に蔵人は言った。
「今のところ、あなたと私の力は互角。このまま千日戦ったとしても勝負はつきますまい。ですが藍那、もう引き返すことは出来ない。あなたは今この時から、あの男の業をその身に背負うのです。
これまであの男が振りまいてきた、そしてこれから振りまくであろう多くの不幸から、あなたは決して逃れることはできない」
「蔵人、あなたは何故」
「藍那、あなたは私にとっても、花蓮にとっても大切な友人だった。だからこそ、とても残念です」
ふいに。
床に打ち込まれた飛鏢が鋼の身を震わせながら発勁した。
地脈から吸い上げられた強烈な勁が、尻輪の紅巾を垂直になびかせる。三角の頂点を弧を描くように巡ってから、床を這い、壁へと伸びていく。
蔵人が放ち、藍那がかわした飛鏢は七つ。
それらの六つは壁に、一つは天井に下がる大燭台の根元へと刺さっていた。壁に刺さった六つの飛鏢はまるで龍の尾のようなかたちをなし、天井のそれへとつながっている。
「まさか――! 蔵人!」
飛鏢を伝いながら上った勁が、天井の飛鏢その一点を中心に大きな渦をまいた。渦に巻かれた燭台の火は消えることなく、むしろ勢いを増して燃え上がり、触れあう硝子の音がカタカタとあたりに鳴り響く。
「蔵人、待って!」
「藍那、生きていたらまた会いましょう!」
蔵人が大きく手を振り上げた。
指先から放たれた飛鏢が、渦の中央へと吸い込まれる。
刹那。
耳を