第69話 秧真との再会
文字数 5,134文字
慈衛堵には護衛と案内役を兼ねて、塁 を同伴してはどうかと提案されたが、丁重に断った。まっすぐ慧焔都 には向かわず、浦野にいる知人を訪ねることを伝える。
「そうですか。では私は一足早く明呉 まで行って、新しい情報を集めておきましょう。明呉に着いたら《堂楽 》という酒楼に来て、ぜひ私を訪ねて下さい。必ずお役に立てるはずです」
塁はそう言って手を差し伸べた。明呉は嘉南州最大の港町で、物流の要でもある。彼に情報を集めておいてもらえれば、動きやすくなるのは間違いなかった。
「必ず伺いましょう」
答えて、塁の手を握りしめる。大きな手のひらだった。指も長く、剣や楽器に向いた手だ。厚い皮に覆われた指の付け根には、まめが潰れた痕がある。剣を使い慣れている証拠だった。
以前、これとよく似た手の持ち主を知っていた。その彼を、藍那はこれから斬りに行く。そんな藍那の思惑をよそに、塁は屈託のない笑顔で言った。
「《堂楽 》は魚介を使った料理が絶品でしてね。ご馳走しましょう」
慈衛堵たちに暇を告げ、急ぎ足で部屋に戻る。気をもみながら帰りを待っていた杏奈に、塁から聞いたことを伝えた。
例の救い主が紫園と瓜二つであったこと、しかし彼はついこないだまで為異喇 で大工の修行をしていたこと、生き別れた双子の兄がいたこと。
神の子の名前は芳也 。その兄の名前は劉哉 。
杏奈はそれらの報告を聞いて、憂いを含んだ表情になり、ため息をついた。
「では、その姿を消した劉哉 が、紫園ってことなんでしょうか」
「たぶん。これは憶測なのですが、彼に剣と絵を教えた画家の名前は、迭戈 じゃないかと思っています」
「その可能性は、あるかもしれませんね」
藍那は窓際に立ち、秧真の部屋のある方を眺めた。
「安慰 が神の子を名乗ったことには、なにか裏があるように思えるのです。最近、暗躍している髑髏党 とやらも気になりますし。これらに、なんらかの形で、紫園が関係しているとすれば……」
「では、行かれるのですね。慧焔都 に」
「はい、明朝発つことにしました。お嬢さまのことを、よろしく頼みます」
「そうですか……」
「師匠にもずいぶんとお世話になりました。なにも御恩は返せませんが、どうかお元気で」
杏奈は黙って首を横に振る。
考えてみれば、彼女も数奇な運命に振り回された一人だ。泉李の火事により妹を失った。その焼け跡で紫園を拾い、面倒を見た。そして半年前の金亀楼の事件である。
命を助けた相手が、このような形で恩を仇で返すとは、夢にも思っていなかっただろう。
今はこの屋敷で、愛紗だけでなく第一夫人の讃良 にも弦楽 を教えていた。しかし、事件が彼女の心に落とした影は、思いのほか色濃く、屋敷での華やかな暮らしに虚 しさを覚えていることを藍那は知っている。
「では、今日は夕食を早めにしましょうか」
「そうですね、それから……」
書き物机に歩み寄り、油紙の包みを手に取った。
「これを姐さんに渡しておいてくれますか? 私が戻るまで、預かっておいてと」
「……分かりました」
包みを胸に抱いて、杏奈はなにか言いたげに立ち尽くす。
「師匠、」
「もうお会い……できないんですよね……」
「たぶん、そういうことになるでしょう」
杏奈の唇が震えている。
「先生、あたしは……ずっと考えてました。あの子を、紫園を金亀楼に預けるべきじゃなかったって。そもそも、焼け跡であの子を拾ったりしなければ、こんなことには……。あんな男の面倒なんか、見なきゃ良かったんです」
「師匠」
「男でさんざん苦労したってのに、あたしは……、なんて馬鹿だったんだろうって……」
藍那は無言で杏奈の手を取る。包みを握りしめた指先は冷たかった。
「師匠、これは師匠だから打ち明けることですが……。私はこんな事になってしまった今でも、紫園のことを愛しているのです」
「先生……」
「忘れられませんでした。誰より優しく、純粋だった彼のことを……。ですから、どうかご自分のことを責めないで下さい。師匠は何一つ、間違ったことをしてません」
視線を合わせると、杏奈はいたたまれない表情で顔を背ける。そのまま藍那から離れると、扉を開けた。
「浴室を使えるようにしておきます」
背を向けたまま言い残し、部屋を出ていった。声が震えていたから、たぶん泣いていたのだろう。
***
踵を返し、大股で部屋を横切ると、衣装箪笥の扉を開けた。背嚢を取り出して中身を確かめる。荷造りはすでに終わって、両替商あての慈衛堵の紹介状も入手済みであった。
ほかには財布に銀粒と銅鈔。用心に用心を重ねて、浦野までは徒歩で行く。船で行ったほうが早いのだが、船内で襲われると逃げ場がないうえ、巻き添えを生む危険があった。これ以上、無関係の人間が死ぬのを見たくない。
背嚢を寝台へ置くと、浴室に行って湯浴みをし、髪を洗った。明日からしばらくは、のんびりと湯に浸かることもできなくなるだろう。浦野まで歩けば、どれほど見積もってもひと月はかかる。最悪の場合、野宿も考えなくてはならない。
杏奈の給仕で夕食を済ませ、早めに休んだ。明日は夜明け前に目覚め、開門と同時に帝都を出る。夢も見ずに眠り、愛紗に身体を揺すられたときはまだ暗かった。
「姐さん?」
燭台を手にした愛紗が、
「予定より早く起こしちゃって悪いわね」
いささかも悪びれていない顔で笑った。胸元が開いた夜着姿のままで、柔らかな薄布が、膨らんだ腹を余計に目立たせている。
「見送りならしなくていいと、言ったはずですが」
憮然とした口調の藍那に、目を細めて告げた。
「秧真がね、出立前に、あなたにどうしても会って話したいのですって」
「お嬢さま、が?」
「ええ、お願い、どうか会ってやってくれないかしら。彼女の部屋で待っているから」
「それは、本当なのですか」
愛紗が嘘を言う訳はないと分かっていながら、訊いてしまった。正直なところ、藍那に向き合えるほど、あの娘は強くはない。そう思っていたのだ。
あの惨劇の日、柴門が龍三辰 を携 えていたのは、秧真の協力があったからに違いない。あの娘がなぜそんなことをしたのか、なぜ藍那の信頼を裏切ったのか、その理由は未だに分からなかった。
あえて知りたくもなかった、というのもある。理由を知ったところで、失われたものが戻ってくるわけでもないのだから。
ただ、秧真が途方もない罪悪感を抱えていることは分かるし、それ故に、藍那に合わせる顔がないだろう――そう考えていた。
「本当よ、もうこれで最後かもしれないから、顔を見て、直に話したいのですって」
「分かりました。では今から支度をしますので、少しお待ち下さい」
「それからもう一つ。これをあなたに返すわ」
その時初めて、左手に握られたものに気がついた。先刻、杏奈に届けてもらった油紙の包みである。
「これは、あなたが持っているべきものだと思う。いつか、何かの形で藍那の役に立ってくれる、そんな気がするの」
差し出されたものを受け取ると、その手を取り、愛紗は微笑んだ。
「私はこれで部屋に戻るわ。外で秧真づきの侍女が待っているから。彼女についていって」
「分かりました」
「いいこと、藍那、生まれた子がもし女の子だったら、あなたの名前をつけるから。だから絶対帰ってきて。そして、この子を抱いてちょうだい」
「分かっています。それから、ひとつお願いがあるのですが」
「なに?」
「藍那ではなく、璃凜と名付けてくれませんか」
「璃凜?」
「私の本当の名前です。訳あって、ずっと以前に捨てた名前ですが……」
「璃凜……綴りは?」
そう訊ねた愛紗の手のひらに、指で文字をなぞる。それで理解したらしい。うなづいて
「分かった。璃凜ね。そうつけることにする」
「楽しみにしています。姐さん、どうか身体をお大事に」
暗がりのなか、足元に畳んであった旅装を身につける。華羅風の長衣は瑠璃色、細袴を履き、帯を締めてから長靴 を履いた。
油紙の包みをしまってから背嚢を背負い、続けて天星羅 を佩く。真新しい革の剣帯は、慈衛堵からの贈り物で、驚くほどしなやかだった。
扉の外で待っていたのは、うら若い侍女だ。手にした燭台が照らす顔立ちには幼さが残り、それは否応なしに由真を思い出させる。
藍那の顔を見るなり、すまなそうに頭を下げた。
「ご出立の朝に、申し訳ありません。秧真さまのお部屋はこちらでございます」
第一夫人と秧真の部屋は、奥 でも一番格式の高い北側だ。お互い、なるべく接触しないように過ごしていたせいで、藍那も北側の方には近寄らないようにしていた。
初めて通る廊下の奥に、豪奢な草木模様を彫り込んだ扉が見える。ひと目でそこが第一夫人の部屋だと分かった。
「どうぞ、こちらでございます」
「讃良さまを起こしてしまうのでは?」
「奥さまは今、礼拝所で朝のお勤めをなさっています。秧真さまがこちらにいらしてから、毎日、夜明け前にお勤めをなさるのです。秧真さまのご健勝を願って」
「そう……」
侍女が扉を開ける。甘い香の匂いが鼻をくすぐった。窓際近くの卓上で、揺れる蝋燭の明かりが、長椅子に座る彼女の姿を照らしている。
色白の痩せた娘だった。薄物の夜着の上から長衣をはおり、藍那と侍女を穴が空くほど見つめている。頬の肉が削げ落ちているせいか、目ばかりがずいぶん大きい。
「お嬢さま、藍那さまをお連れいたしました」
侍女が一礼すると
「ありがとう、もう下がっていいわ」
そう言って上げた手のひらは骨の形がはっきりと分かる。昔、剣を習いたいとねだる彼女の手をとったときは、焼きたての饢 のように、ふっくらとしていたのに。
「先生、お久しぶり……です……」
立ち上がり、藍那へと頭 を深くたれた。そして再び顔を上げた秧真を、じっと眺める。以前の彼女を知っているものなら、別人と思うほどに痩せ細っていた。
繭玉のようにふくよかだった頬はそげ、痛々しい影を作っている。ややタレ気味の目が帯びていた愛らしさは失われ、どこか切迫した光をたたえた大きな目が、何かを訴えるように藍那を凝視していた。
極限の恐怖があの天真爛漫そのものだった娘を、こうまで変えてしまった。昔の彼女を知るものなら、正視できないほどの痛ましさだ。
それでも。
藍那は秧真を、目の前の痩せこけた娘を、初めて美しいと思った。過酷な運命がこの娘から余計なものをすべて削ぎ落とし、彼女の魂だけをこうして晒している。だから
「はいお嬢さま。意外とお元気で安心しました」
そう言って微笑む。意外なほどに言葉がすっと出た。
「先生も、お元気そうですね。昔と何もお変わりにならない」
傍らの椅子を示されて、藍那はそこへ腰掛けた。
「私に話があるとか」
すかさず水を向けると、秧真はうつむき、唇を噛んだ。
「夜明けにお発ちになると聞いて、どうしてもお尋ねしたかったのです」
膝上で重ねた手に視線を落としたまま、秧真が言った。
「先生は……憎んでいらっしゃらないのですか? 私は、わたしは……先生の信頼を裏切ってしまったのに……」
藍那は秧真の視線の先、骨の浮いた手の甲を眺め、考えた。しばしの沈黙のあいだ、頭のなかで言うべきことをまとめ、口を開く。
「もし、あの日……。紫園が警邏に連れて行かれて、牢に入れられるか処刑されるかしていたら、私はあなたを恨んだでしょう。恨んで、憎んだと思います。ですが、」
藍那は大きく息を吐いた。
「実際はそうはならなかった。お嬢さまも私も、あまりに多くのものを失ってしまいました」
「つまらない嫉妬だったのです」
吐き出すように秧真が言って、こぶしを握りしめる。
「ほんとうに、つまらない嫉妬でした。どうしてあんな……あんなことが……」
嫉妬という言葉を藍那は頭のなかで繰り返した。嫉妬、つまりそれは――。
「わたしは……」
声をつまらせ、しばし逡巡したのち、秧真が言葉を継いだ。
「私は、先生のことが好きでした。心から、お慕いしておりました」
「そうですか。では私は一足早く
塁はそう言って手を差し伸べた。明呉は嘉南州最大の港町で、物流の要でもある。彼に情報を集めておいてもらえれば、動きやすくなるのは間違いなかった。
「必ず伺いましょう」
答えて、塁の手を握りしめる。大きな手のひらだった。指も長く、剣や楽器に向いた手だ。厚い皮に覆われた指の付け根には、まめが潰れた痕がある。剣を使い慣れている証拠だった。
以前、これとよく似た手の持ち主を知っていた。その彼を、藍那はこれから斬りに行く。そんな藍那の思惑をよそに、塁は屈託のない笑顔で言った。
「《
慈衛堵たちに暇を告げ、急ぎ足で部屋に戻る。気をもみながら帰りを待っていた杏奈に、塁から聞いたことを伝えた。
例の救い主が紫園と瓜二つであったこと、しかし彼はついこないだまで
神の子の名前は
杏奈はそれらの報告を聞いて、憂いを含んだ表情になり、ため息をついた。
「では、その姿を消した
「たぶん。これは憶測なのですが、彼に剣と絵を教えた画家の名前は、
「その可能性は、あるかもしれませんね」
藍那は窓際に立ち、秧真の部屋のある方を眺めた。
「
「では、行かれるのですね。
「はい、明朝発つことにしました。お嬢さまのことを、よろしく頼みます」
「そうですか……」
「師匠にもずいぶんとお世話になりました。なにも御恩は返せませんが、どうかお元気で」
杏奈は黙って首を横に振る。
考えてみれば、彼女も数奇な運命に振り回された一人だ。泉李の火事により妹を失った。その焼け跡で紫園を拾い、面倒を見た。そして半年前の金亀楼の事件である。
命を助けた相手が、このような形で恩を仇で返すとは、夢にも思っていなかっただろう。
今はこの屋敷で、愛紗だけでなく第一夫人の
「では、今日は夕食を早めにしましょうか」
「そうですね、それから……」
書き物机に歩み寄り、油紙の包みを手に取った。
「これを姐さんに渡しておいてくれますか? 私が戻るまで、預かっておいてと」
「……分かりました」
包みを胸に抱いて、杏奈はなにか言いたげに立ち尽くす。
「師匠、」
「もうお会い……できないんですよね……」
「たぶん、そういうことになるでしょう」
杏奈の唇が震えている。
「先生、あたしは……ずっと考えてました。あの子を、紫園を金亀楼に預けるべきじゃなかったって。そもそも、焼け跡であの子を拾ったりしなければ、こんなことには……。あんな男の面倒なんか、見なきゃ良かったんです」
「師匠」
「男でさんざん苦労したってのに、あたしは……、なんて馬鹿だったんだろうって……」
藍那は無言で杏奈の手を取る。包みを握りしめた指先は冷たかった。
「師匠、これは師匠だから打ち明けることですが……。私はこんな事になってしまった今でも、紫園のことを愛しているのです」
「先生……」
「忘れられませんでした。誰より優しく、純粋だった彼のことを……。ですから、どうかご自分のことを責めないで下さい。師匠は何一つ、間違ったことをしてません」
視線を合わせると、杏奈はいたたまれない表情で顔を背ける。そのまま藍那から離れると、扉を開けた。
「浴室を使えるようにしておきます」
背を向けたまま言い残し、部屋を出ていった。声が震えていたから、たぶん泣いていたのだろう。
***
踵を返し、大股で部屋を横切ると、衣装箪笥の扉を開けた。背嚢を取り出して中身を確かめる。荷造りはすでに終わって、両替商あての慈衛堵の紹介状も入手済みであった。
ほかには財布に銀粒と銅鈔。用心に用心を重ねて、浦野までは徒歩で行く。船で行ったほうが早いのだが、船内で襲われると逃げ場がないうえ、巻き添えを生む危険があった。これ以上、無関係の人間が死ぬのを見たくない。
背嚢を寝台へ置くと、浴室に行って湯浴みをし、髪を洗った。明日からしばらくは、のんびりと湯に浸かることもできなくなるだろう。浦野まで歩けば、どれほど見積もってもひと月はかかる。最悪の場合、野宿も考えなくてはならない。
杏奈の給仕で夕食を済ませ、早めに休んだ。明日は夜明け前に目覚め、開門と同時に帝都を出る。夢も見ずに眠り、愛紗に身体を揺すられたときはまだ暗かった。
「姐さん?」
燭台を手にした愛紗が、
「予定より早く起こしちゃって悪いわね」
いささかも悪びれていない顔で笑った。胸元が開いた夜着姿のままで、柔らかな薄布が、膨らんだ腹を余計に目立たせている。
「見送りならしなくていいと、言ったはずですが」
憮然とした口調の藍那に、目を細めて告げた。
「秧真がね、出立前に、あなたにどうしても会って話したいのですって」
「お嬢さま、が?」
「ええ、お願い、どうか会ってやってくれないかしら。彼女の部屋で待っているから」
「それは、本当なのですか」
愛紗が嘘を言う訳はないと分かっていながら、訊いてしまった。正直なところ、藍那に向き合えるほど、あの娘は強くはない。そう思っていたのだ。
あの惨劇の日、柴門が
あえて知りたくもなかった、というのもある。理由を知ったところで、失われたものが戻ってくるわけでもないのだから。
ただ、秧真が途方もない罪悪感を抱えていることは分かるし、それ故に、藍那に合わせる顔がないだろう――そう考えていた。
「本当よ、もうこれで最後かもしれないから、顔を見て、直に話したいのですって」
「分かりました。では今から支度をしますので、少しお待ち下さい」
「それからもう一つ。これをあなたに返すわ」
その時初めて、左手に握られたものに気がついた。先刻、杏奈に届けてもらった油紙の包みである。
「これは、あなたが持っているべきものだと思う。いつか、何かの形で藍那の役に立ってくれる、そんな気がするの」
差し出されたものを受け取ると、その手を取り、愛紗は微笑んだ。
「私はこれで部屋に戻るわ。外で秧真づきの侍女が待っているから。彼女についていって」
「分かりました」
「いいこと、藍那、生まれた子がもし女の子だったら、あなたの名前をつけるから。だから絶対帰ってきて。そして、この子を抱いてちょうだい」
「分かっています。それから、ひとつお願いがあるのですが」
「なに?」
「藍那ではなく、璃凜と名付けてくれませんか」
「璃凜?」
「私の本当の名前です。訳あって、ずっと以前に捨てた名前ですが……」
「璃凜……綴りは?」
そう訊ねた愛紗の手のひらに、指で文字をなぞる。それで理解したらしい。うなづいて
「分かった。璃凜ね。そうつけることにする」
「楽しみにしています。姐さん、どうか身体をお大事に」
暗がりのなか、足元に畳んであった旅装を身につける。華羅風の長衣は瑠璃色、細袴を履き、帯を締めてから
油紙の包みをしまってから背嚢を背負い、続けて
扉の外で待っていたのは、うら若い侍女だ。手にした燭台が照らす顔立ちには幼さが残り、それは否応なしに由真を思い出させる。
藍那の顔を見るなり、すまなそうに頭を下げた。
「ご出立の朝に、申し訳ありません。秧真さまのお部屋はこちらでございます」
第一夫人と秧真の部屋は、
初めて通る廊下の奥に、豪奢な草木模様を彫り込んだ扉が見える。ひと目でそこが第一夫人の部屋だと分かった。
「どうぞ、こちらでございます」
「讃良さまを起こしてしまうのでは?」
「奥さまは今、礼拝所で朝のお勤めをなさっています。秧真さまがこちらにいらしてから、毎日、夜明け前にお勤めをなさるのです。秧真さまのご健勝を願って」
「そう……」
侍女が扉を開ける。甘い香の匂いが鼻をくすぐった。窓際近くの卓上で、揺れる蝋燭の明かりが、長椅子に座る彼女の姿を照らしている。
色白の痩せた娘だった。薄物の夜着の上から長衣をはおり、藍那と侍女を穴が空くほど見つめている。頬の肉が削げ落ちているせいか、目ばかりがずいぶん大きい。
「お嬢さま、藍那さまをお連れいたしました」
侍女が一礼すると
「ありがとう、もう下がっていいわ」
そう言って上げた手のひらは骨の形がはっきりと分かる。昔、剣を習いたいとねだる彼女の手をとったときは、焼きたての
「先生、お久しぶり……です……」
立ち上がり、藍那へと
繭玉のようにふくよかだった頬はそげ、痛々しい影を作っている。ややタレ気味の目が帯びていた愛らしさは失われ、どこか切迫した光をたたえた大きな目が、何かを訴えるように藍那を凝視していた。
極限の恐怖があの天真爛漫そのものだった娘を、こうまで変えてしまった。昔の彼女を知るものなら、正視できないほどの痛ましさだ。
それでも。
藍那は秧真を、目の前の痩せこけた娘を、初めて美しいと思った。過酷な運命がこの娘から余計なものをすべて削ぎ落とし、彼女の魂だけをこうして晒している。だから
「はいお嬢さま。意外とお元気で安心しました」
そう言って微笑む。意外なほどに言葉がすっと出た。
「先生も、お元気そうですね。昔と何もお変わりにならない」
傍らの椅子を示されて、藍那はそこへ腰掛けた。
「私に話があるとか」
すかさず水を向けると、秧真はうつむき、唇を噛んだ。
「夜明けにお発ちになると聞いて、どうしてもお尋ねしたかったのです」
膝上で重ねた手に視線を落としたまま、秧真が言った。
「先生は……憎んでいらっしゃらないのですか? 私は、わたしは……先生の信頼を裏切ってしまったのに……」
藍那は秧真の視線の先、骨の浮いた手の甲を眺め、考えた。しばしの沈黙のあいだ、頭のなかで言うべきことをまとめ、口を開く。
「もし、あの日……。紫園が警邏に連れて行かれて、牢に入れられるか処刑されるかしていたら、私はあなたを恨んだでしょう。恨んで、憎んだと思います。ですが、」
藍那は大きく息を吐いた。
「実際はそうはならなかった。お嬢さまも私も、あまりに多くのものを失ってしまいました」
「つまらない嫉妬だったのです」
吐き出すように秧真が言って、こぶしを握りしめる。
「ほんとうに、つまらない嫉妬でした。どうしてあんな……あんなことが……」
嫉妬という言葉を藍那は頭のなかで繰り返した。嫉妬、つまりそれは――。
「わたしは……」
声をつまらせ、しばし逡巡したのち、秧真が言葉を継いだ。
「私は、先生のことが好きでした。心から、お慕いしておりました」