第53話 歪(ひず)み

文字数 5,046文字

「まさか、由真が……」

 そう言って笑おうとしたのに、うまくいかなかった。急な喉の渇きを覚え、卓上の杯を取ろうとして指が滑る。傾いた杯が転がって、茶が流れた。
 まさか、由真が……。たしかにあの二人はとても仲がいい。しかしそれは、あくまで兄妹のようなもので――。

「藍那ったら、本当に気がついていないのね。杏奈や上良から話を聞いただけの私にだって、由真が紫園を想っていることくらい分かるわ。あの子さいきん、ずいぶん大人っぽくなったそうね。由真は誰かに恋をしているに違いないって、みんな言っているそうよ」

 そんな話は初耳だった。今朝、由真に言われたことを思い出す。

 ――先生、いい加減、紫園さんを許してあげたらどうでしょう。紫園さん、気の毒なくらいしょげちゃって、私まで悲しくなってしまいます。

「男女の仲ってほんのささいなことで変わるわ。由真は聡明だし、年の割に大人びているもの。兄のように慕っていた気持ちが、いつの間にか恋になっても不思議じゃないわよね」

 そうなのかもしれない。
 いや、自分はどこかで気がついていたのではないか。
 たとえば、藍那の部屋で羅典語を勉強している時の、二人の仲睦まじさ。
 由真の紫園を見上げる視線に、兄以上の気持ちを感じ取ってはいなかったか。

 だとしたら、あの時の自分の焦燥感は……。
 藍那は無言で立ち上がった。喉の奥になにかがつかえて、おまけにひどく気分が悪い。

「藍那、大丈夫?」
「すみません、今日はこれで失礼いたします。少し気分が……。感謝祭の件は、あとで使いをやりますので……」

 天星羅をつかみ、扉へと向かう。悪い酒に酔ったような気分だ。

「先生、先生……」

 上良が慌てて引き止めたのでふりむく。

「先生、お帰りは向こうの扉ですよ。そちらは寝室です」
「あ……」

 それから金亀楼までどう帰ったのか、よく覚えていない。
 勝手口で柴門(シモン)になにか言われたようだったが、まるで耳に入らなかった。部屋に入るなり椅子に腰掛け、ぼんやりと外を眺めながら、思いを馳せる。

 この文机で、羅典語の勉強に励んでいた由真。紫園を見上げる由真の表情は、花が咲いたように愛らしかった。それは勉強の楽しさばかりではなく、恋の喜びだったのだろう。
 その由真に微笑んだ紫園の表情を思い出す。そして自分が覚えた焦燥も。

「嫉妬なのか……」

 分かってしまえば単純なことだった。単純でひどく下らない。
 なにを嫉妬することがあるというのか。由真が恋を知った、素晴らしいことではないか。それなら自分はそれを応援するだけだ。自分が望むのは、由真の幸せなのだから……。

 どれくらいそうしていたのか。
 部屋の扉が遠慮がちに叩かれ、由真が顔を覗かせる。

「先生、あの、よろしいですか?」
「ああ、いいよ。お入り」

 目の前に立った由真を見つめた。神妙な表情を浮かべた顔をしげしげと。
 なぜ気が付かなかったのだろう、由真がこんなに美しい少女に変わっていたことに。

 瓜実(うりざね)顔に形のよい鼻筋、そして杏仁を思わせる目。頬の瑞々(みずみず)しさは、熟れはじめの果実のよう。ほどよく日に焼けた肌はつややかで、健やかそのものだった。

 ついこないだまで子どもだと思っていたのに。
 彼女を覆っていた幼さの薄皮ははがれ落ちた。背がまた伸びて、裾が短くなっている。感謝祭のよそゆきは、丈を伸ばしてやらなければならないだろう。

「先生、どうしたんですか? 私の顔になにかついてます?」
「ああ、いや、なんでもない……」
「おかしな先生」

 くすりと笑った顔が眩しい。ふと申武(サリム)のことを考えた。由真への思いを抱いていたあの少年は、どこにいるのだろう。
 由真は真顔になって言った。

「あのう先生。先生に余計なお世話だって、何度も言われましたけど……、でもやっぱり、どうしても納得がいきません。紫園さんのこと、このままでいいんですか?
 先生は感謝祭が終わったら浦野(ウラノ)に出立されるのでしょ。お帰りはずっと先になるのに、心残りになりませんか? 紫園さんは謝罪したいと仰ってるのですから、もう一度機会を与えてあげてはどうでしょう」

 とうとう由真にまで諭されるようになってしまった。苦笑して目を閉じる。

 ――僕は先生の弟子ですから……だから……。

 そう。紫園は弟子で、由真は養女だ。だから自分は、大切な二人の幸せをなにより願う。師として、養親として、この二人が結ばれれば、これ以上のことはない。
 顔を上げたときには、心は決まっていた。

「分かった。紫園をこちらへ呼んで。今は夕食の支度で忙しいだろうから、暇になってからでいいよ」
「ほ、本当ですか?」
「うん。それと由真、お祭りは、誰かと行く約束はしているの?」

 由真は恥ずかしそうに、黙って首を横に振った。

「今年は、私、賄い方のみなさんと出かけます。お嬢さまは、愛紗さまのとこへ行かれますし。お輿に乗ってお祭り見物なんて、羨ましいです」
「そうだね。お嬢さまも、少し気晴らしになればいいんだけど」

 ここ数日、秧真(ナエマ)は部屋にこもってばかりいる。口数もめっきり減って、暇さえあればため息をついていた。

 理由は明白。年明けに迫った、後宮出仕が不安でたまらないという。感謝祭は愛紗たちと過ごし、祭り明けから、慈衛堵(ジェイド)の屋敷に住み込むことになっていた。出仕のための行儀見習いだが、それも気が晴れないことの一因らしい。

 気持ちは分かる。世間知らずのうえ、由真のように利発というわけでもない。それを自覚しているからこそ、怯えている。
 だがこればかりは、飛び込んで経験を積むしかないのだ。無知で蒙昧な璃凜という娘が、藍那という用心棒になったように。

「じゃあ私、さっそく紫園さんのところに行ってきますね」

 笑みを浮かべ、由真は部屋を出ていった。その背中を見送り、自分に言い聞かせる。これでいいのだと。
 由真は聡明で心が清らかだ。紫園がこれからどうなるかは分からない。だが、そばにいるのが由真なら、なにもかもが上手く行きそうな気がした。きっと彼のこれからを、良き方向へと導いてくれるだろう。

 廊下の向こうから、こちらへ来る足音を聞いた。扉が叩かれ、藍那の返事でゆっくりと開く。

「先生……」

 紫園の身体から、獣脂の濃い匂いが漂ってきた。
 明日が断食月(サウム)の最終日。賄い方は、断食明けに振る舞う滋養湯(チョルパ)の仕込みで忙しい。
 大量の干した羊肉を水で戻し、大鍋で香草と一緒に煮る。根気よく灰汁(あく)を取り、冷やして、固まった脂を取り除く――これを何度も繰り返すのだ。

「ああ、忙しいところすまなかったね。どうしても話しておきたいこともあったし。なに、大したことじゃない、すぐに済む」

 師匠の顔を作り、紫園の顔をまっすぐ見た。動揺はない……はずだ。

「こないだのことはお互いに忘れよう。私もいささか大人気(おとなげ)なかった。だからおまえが、改めて私に謝罪する必要はない。いいね」
「はい……それで……あの、」
「実は、紫園にお願いがある」

 文机の椅子に腰掛け、緊張気味の紫園を見上げた。

「明後日からは感謝祭だ。金亀楼のみんなも、交代でお休みをもらえる。たしか紫園は由真と同じ、三日目だったね」
「は、はい」
「由真をお祭りに誘ってやってくれないかな。今のところ、誰とも約束していない。紫園に誘われたら、あの子、きっと喜ぶと思う」

 床に視線を落とす。紫園の顔をまともに見られなかった。いま彼はどんな顔で、この話を聞いているのだろう。
 それでも顔を上げ、悲しげな目と視線を合わせる。

「言いたいことはそれだけ。お願い、きいてくれる……よね?」

 黙って紫園はうなずいた。沈黙が流れる。大聖堂の鐘楼が五つないて、夕刻の祈りのときを告げた。
 胸の奥が――痛い――。

「それが先生の望むことでしたら、仰るとおりにします。僕は……先生の、弟子ですから」
「紫園……」
「ではこれで失礼します」

 口元に、寂しげなほほ笑みが浮かんでいる。正視できず、思わず顔を背けた。
 扉が開いて閉まる。足音が遠ざかる。
 それらを背中で聞いてから、藍那は文机に額をつけた。
 
 * * * 

 断食月(サウム)の最終日。
 藍那が最初にしたことは、愛紗に手紙を書くことだった。感謝祭の三日目に休みをもらえたこと。先日の言葉に甘えて、祭り見物を一緒にしたいこと。それら諸々をしたため、金亀楼お抱えの配達人へ託す。

 朝の茶を出しに来た由真に、特別変わったところはなかった。ただなんとなく紫園の話を避けているようであり、あえて藍那も触れようとはしない。
 そのあと秧真の部屋を訪ねた。要件はただひとつ、預けてあった龍三辰(ルシダ)のことである。
 開口一番

「今年のお祭りは、姐さんたちと過ごすことにしました」

 そう告げた。とたんに秧真の目が輝き、寧々に薄荷水を申し付ける。

「それじゃ、お祭りは先生とご一緒できるのですね?」

 満面の笑みを浮かべ、顔の前で手のひらを合わせた。

「ああ、なんてこと。夢みたいです。これもきっと……」
「きっと、なんですか?」
「いいえ、なんでもありませんわ。ささ先生、お水をどうぞ」
「ところでお嬢さま」

 藍那は居住まいを正し、声をひそめた。

「お話というのは、例の預けてあったものです。出立は四日後に迫っておりますし、お嬢さまも行儀見習いのことでお忙しいはず。今日のうちにお返し願えれば、これ以上お嬢さまのお手をわずらわせることもない――そう思いまして」
「ま、待ってください。その……、そのことについてですが……」

 頬を赤らめた秧真が、膝においたこぶしを握りしめる。

「お祭りのときは、なにかと不用心になりますわ。三年くらい前……そう、先生がこちらに来る前のことですが、感謝祭の最中に、父の書斎が泥棒に入られましたの」
「ほう」
「いつもより人の出入りも多いので、あちこちのお店で、同じようなことがあります。ですから、鍵のついていない先生のお部屋に置くより、こちらの隠し場所のほうが、安心ですわ。ぜったい誰にもわからない場所ですもの」

 感謝祭のあいだ、空き巣や泥棒が多いというのは事実だ。
 ただでさえ浮足だっているところに、大勢の客がくる。いつもより守衛の警護もゆるくなり、泥棒にとっては、かきいれ時なのだ。これはなにも妓楼に限った話ではなく、大きな構えの屋敷も同様である。

「それに私が不在のときも、(ハレム)には(セツ)がおります。節にはなにも言っておりませんが、用心のために泥棒が入らないよう、しっかり見張ってもらいますわ」
「そうですか」
「わたし、先生にこのお役目を任された時、とても嬉しかったのです。先生が私を信頼して、大切なものを託してくださったことが。ですから出立の時まで、お役目を果たさせていただけませんか?」
「しかし、それでは……」
「どうせ、先生のお見送りに、こちらへは戻ってくるのです。出立の朝、お預かりしたものをお渡ししますわ。ね?」

 真剣な表情でお願いされてしまった。
 たしかに秧真の言うことは理にかなっている。感謝祭はいつもより不用心になるし、自分も四六時中、龍三辰(ルシダ)を監視できるわけでもない。このまま預けておくほうが、得策と言えた。

「分かりました。ここは最後までお嬢さまのお世話になることにします」
「ぜひそうなさって。ああ、なんだか今から楽しみ」

 子どものようにはしゃぐ秧真が微笑ましい。そのとき節が、藍那を呼びに顔を見せた。なんでも娼妓と揉めている客がいるらしい。柴門(シモン)安瑛(アンデレ)が手を焼くというのだから、かなり厄介な相手のようだ。

「ではお嬢さま、お祭りのときにまた」

 そのとき初めて、かすかに漂う香の匂いに気がついた。
 甘く乾いた芳香は、寺で使う線香の匂いとも違う。たしか秧真に香を炊く趣味はなかったはずだが――。

「ええ、先生。愛紗のお屋敷でお会いしましょう」

 屈託のない笑顔に見送られ、藍那は妓楼へと急いだ。

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登場人物紹介

紫園ㅤ

記憶を失くした青年。奥尔罕オルハンの帝都阿耶アヤから東にある港街、泉李イズミルの大火で生き残っていたところを助けられ、金亀楼コンキろうに下男として引き取られる。読み書きができ、剣も使える謎多き人物。赤みがかった栗色の髪に、珍しい紫色の瞳の持ち主。

璃凛リリン藍那アイナ
母から伝えられた双極剣の遣い手であり、女ながら用心棒で生計を立てている。現在は帝都随一の色街、紅籠ヴェロ街の娼館、金亀楼で働くが、訳あって母の名前である藍那アイナを名乗っている。十八歳。

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