第62話 旅立ちの朝
文字数 4,883文字
浅い眠りから覚めたのは、まだ暗いうちだった。すでに彼の姿はなく、かすかに残るぬくもりを惜しむように、枕へ顔を埋める。
部屋の空気は驚くほどに冷えていた。感謝祭の終わりは寒季の始まりでもある。掛布のなかでしばらくぐずぐずしていたが、いつまでもそうしてはいられない。暗闇に目がなれた頃合いを見計らい、思い切って上体を起こす。
「ううっ、さむっ」
一糸まとわぬ素肌が総毛立った。
震えながら慌てて下着をつける。毛織の下履きを履いて、旅仕様の細袴と長衣をまとった。帯革をつけると、身も心も引き締まる。
寒さで着替えを急かされたのは、かえって良かったかもしれない。そうでなければ、肌に赤く印された昨夜の名残に、羞恥で身悶えたであろう。
(これだけは、ちゃんとしておかないと)
寝台から敷布をはがし、まるめてから抱えて部屋を出た。足音を忍ばせながら廊下を歩いて、裏口の扉を開ける。露を含んだ朝 の空気が、骨にしみるほど冷たい。十九夜の月は梢 の向こうに輝き、水場を明るく照らしていた。
今はまだ、下働きの者たちも眠りの最中だ。なるべく音をたてぬよう、顔を洗ってから、敷布についた血の染みを水に浸して揉んだ。
流れる水は氷のようだった。洗っていると指先が痛くなるし、血のシミはなかなか落ちない。諦めて自室に戻ったときは、すっかり体は冷えてしまっていた。
とりあえず麻ひもを張って干し、考える。
月のものだと言っても、変に勘ぐられるだけだろう。それなら言い訳めいたことは一切なしで、このまま出立したほうがまだましだ。
天星羅 を佩いてから、厚い毛織の外套を体に巻き付け、布留 を留めた。柔らかな革靴を脱ぎ、冬用の長靴 を履く。これを最後に履いたのは、初めて金亀楼の敷居をまたいだ時だ。あれからすっかり旅とは縁遠くなったせいで、ずっと長持ちにしまいこんだままだった。
(なんだか、不思議な心持ちだな)
これまでの自分にとって、旅とはあてがなく、帰るということを想定しないものだった。帰るべき場所を持たない、浮き草のような旅暮らし。しかしこの二年で、状況はなんと変わったのだろう。今の自分には帰るべき場所が、この金亀楼があるのだ。そして自分を待ってくれている人々が。
外套の裏に留めた布留 を、手のひらでそっと押さえた。昨夜のことを思い出せば、後ろ髪を引かれてしまう。
今は己の使命を果たさねば――。
名残惜しさを振り切るよう、顔を左右に振った。
室内は藍色の闇に満ちている。窓を上げ、鎧戸を開いて天を見上げた。すみれ色の空高く月は輝いていたが、迫りくる夜明けの明るみに、その姿を薄っすらと溶け込ませている。
周囲に漂うのは、水気を含んだ青臭い葉叢 の匂い。やがて、風のなかにかすかな煙くささをかいだ。亜慈 が、厨房でかまどに火を入れたのだろう。そろそろ他の使用人たちも目を覚ますころだ。
文机においた手鏡を懐に入れ、背嚢を肩から背へと負った。
「そろそろ行こうか、藍那」
そう自分に語りかけ、部屋を出る。
***
まずは、一番気がかりなことを確かめておきたい。藍那は秧真の部屋へと向かい、扉を叩いた。
「お嬢さま、藍那です」
しばらくして、開いた隙間から節が顔をのぞかせた。きちんと身支度はしていたが、髪は結わずにおろしたままだ。旅装の藍那を一瞥して、眠たげな表情を一変させた。
「あらまあ、先生、もうお支度が出来たのですか。出立はもう少し遅いのかと」
「いえ、直ぐにというわけではないのですが……賄い方にも顔を出さないといけませんし。それより、お嬢さまは?」
「さきほどお目覚めになられましたわ。先生のお見送りをするのに綺麗にしないとって、張り切って身支度されてますよ。ええ、それはそれは張り切って」
「そうでしたか。では『例のものをお願いします』とお伝え下さい」
「はい、分かりました。先生、どうか、お気をつけてくださいね。どうか……」
そう言って、節はなにかに急かされるように扉を締めた。出立に涙は不吉だと言っていたので、泣き顔を見られたくなかったのだろう。とりあえず、これで龍三辰 のことは大丈夫。
薄闇のなか、金亀楼の賄い方へと向かった。見慣れた寄木細工 の廊下ともしばらくお別れだ。
「ああ、先生、おはようございます」
顔を洗いに行くのだろう、起き抜けの安瑛 がひどい寝癖で、賄い方そばの階段から降りてきた。頭をかくと握った手ぬぐいを背に回し、笑みを浮かべる。
「お早いですね先生、俺は忙しくて見送れませんが、どうぞお気をつけて」
「そういえば、柴門は帰ってる?」
「真夜中過ぎに帰ってきましたよ。ですが、さっき起きて、どっか行ってます」
「どっかって……何処?」
「分かりません。ひょっとして厠かもしれませんが。野郎、もしかしたら先生が出かけるまで、そこに籠もってるつもりなんじゃ」
「厠に? どうして」
「あいつ、いささかガキ臭いところがありますからね。しばらく先生が留守にするんで、やっぱり寂しいんすよ。先生にそんな自分を見られるのが、嫌なんじゃないですか」
たしかに子供じみている。苦笑して
「もし厠に行って柴門を見つけたら、見送らなくていいから出るように言っておいて」
と言った。
「伝えておきますよ。こんな時間に長グソされちゃ、他のみんなにも迷惑すからね」
ニヤリと笑い、ひらひらと手を振りながら裏口へと去っていく。そんな安瑛を見送ってから、賄い方の扉を開けた。
「あ、先生、おはようございます」
竈 に薪 をくべていた由真が振り向く。亜慈 は
「先生、もうご出立ですかい。ほんにもう、先生がいなぐなると、金亀楼は火が消えたように寂しいすわ。紫園ももうすぐ出でぐし、なんがなあ……やっとここにも慣れたってのに。ま、仕方ないことですがね」
「なにも戻ってこないってわけじゃない。それよりお願いしたものは」
「ああ、ほれ、ちゃんと包んでおきました」
「ありがとう」
革袋に詰められたのは、固く焼き締めた菓子に、燻製肉、干酪 と干した果物だ。果物は胡桃にナツメ椰子、杏。
「こんなに詰めなくても良かったのに」
革袋を持ちあげると、ずっしりと重い。
「いんや、食いもんはあったほうがええ」
「これでも減ったほうなんですよ、最初はこれの倍くらいあって、さすがに重すぎて先生が大変だからって、私が止めたんですから」
由真が呆れた表情でいうと、亜慈は照れくさそうに頭をかいた。
「そうだったのか。でもありがとう、亜慈、由真。ありがたく頂戴するよ」
「なんも礼なんか、先生のお戻りを、首を長ぐして待っておりやす」
紫園は今ごろ水場だろうか。昨夜の今朝のこと、改めて顔を合わせるのが、なんだか気恥ずかしい。そんな藍那に
「もう、先生ったら」
由真がからかうように言った。
「紫園さんは裏に薪を取りに行ってます。戻ったら、すぐにお見送りに行きますから」
「べ、べつにそんなつもりじゃ……」
「先生、ここはあっしがやるので、由真と紫園に見送らせてやってください。あっしは見送りとか、湿っぽいのはどうも苦手で」
「そうそう、亜慈さん、絶対泣いちゃうよね」
「こら、由真。大人 をからがうんじゃね」
藍那はそこで懐の鏡を思い出した。渡すなら今が良いだろうか。しかし由真の両手は、竈の墨で真っ黒になってしまっていた。そこに下女の一人が顔を出し、
「ああ、先生、ここにいらしたんですね。旦那さまや他のみんなが、先生のお出ましを待っていますよ」
「ああ、そうですか。じゃあ由真、手を洗っていこうか」
「あ、でも旦那さまをお待たせするのも悪いので、先に行っててください」
裏口に行こうとすると下女が笑った。
「先生、そっちじゃないですよ。みんな、表口で待っています」
「表口?」
「ええ、旦那さまがね、表口からお見送りするようにって」
つまりそれは、杷萬 が藍那を《雇われ用心棒》としてではなく、《友人》として扱っているということだ。
「先生、よがっだじゃねえすか」
振り返れば、賄い方の入り口から身を乗り出した亜慈が、目尻を下げて言った。
「もう先生は、ここになぐちゃならねえお人だ。あっしもここから、旅の無事を祈ってまさ。ほら由真、さっさと手え拭いて、先生と一緒に行げ」
「は、はい。先生、私も」
表口では燈火が灯され、杷萬の他に圓湖 や苫栖 ら男衆たち、世話になった下女たちが揃っていた。意外なことに璃娃 もいる。藍那の顔を見ると、恥ずかしそうに頭を下げた。
「こんなに大勢で見送らなくても……」
困惑する藍那に圓湖が言った。
「先生はご存じないかもしれませんがね、ここら辺じゃ、大勢で見送ると無事に戻ってこられるって、縁起担ぎがあるんでさ」
「先生の変わりの用心棒を、いま口入れ屋に探してもらっていますよ。ま、見つかるまでは柴門や安瑛に頑張ってもらいますわ」
杷萬はそう言って眉根を寄せ、片手に掴んだ袋を差し出す。
「お預かりしていた路銀、たしかに渡しましたよ。それとこれを」
懐から出されたのは、丸められた羊皮紙の書簡である。路銀をしまうついでに開いてみると、両替商あての紹介状であった。杷萬の署名とともに、藍那が希望する金を用立てする旨が書かれてある。
「これは」
「もし金に困るようなことがあれば、これを両替商へ。言い値で貸してくれるはずです。名だたる金亀楼の楼主が保証人なら、断る相手はおらんでしょうな」
「そんな、そこまでしてもらっては」
「もちろん、借りた金は先生に返してもらいますがね」
杷萬の返しに周囲がどっと笑う。そのとき
「あ、紫園さん、早く」
由真の呼びかけに、つい反応してしまった。賄い方に続く廊下から、紫園が小走りに駆け寄ってくる。意識しているつもりもないのに、頬が熱くなるのを覚えた。
「先生……」
「あ、ああ、うん。い、行ってくる……から……」
伝えたいことはたくさんあるはずなのに、一握りほどの言葉すら出てこない。そんな二人をからかうように
「もう、紫園ったら、そんなに名残惜しいんなら、一緒に行けばいいのにさ」
下女の一人が言うと、もう一人も
「そうそう、留守ちゅう先生のことばかり考えて、使い物にならなくなっても困るしねえ」
訳知り顔でうなずいた。からかわれた紫園の顔がみるみるうちに赤くなり、それを見ていた藍那も俯 いてしまう。
「大丈夫ですよ、先生。紫園さんのことは、私たちがちゃあんと面倒見ますから」
由真が明るい口調で助け船を出し、手のひらで胸元を叩く。
「だから、安心して果たしてくださいね。蔵人さんとのお約束」
「うん」
しかし、肝心のモノがまだ来ていない。いや人というべきか。杷萬の方へ向き直り、訊ねた。
「その、お嬢さまは、見送りには?」
「ああ、どうも支度で手間取っているようですわ。たかが見送りなんですがねえ。申し訳ないですが、待ってやってください。まもなく来るはずです」
「そうですか」
それならばと、懐に忍ばせた油紙の包みを取り出し、由真に差し出した。差し出された方の由真はキョトンとした表情で、藍那と包みを交互に見る。
「先生、これは?」
「ああ、由真、これね――」
そのとき、表口の扉がはげしく叩かれる。杷萬の目配せで圓湖が声をかけると、答えたのは門番の吾力 であった。
鍵を開けると、血相変えて飛び込んでくる。
「だ、旦那さま、大変です! け、警邏の方々が、旦那さまにお会いしたいと……」
部屋の空気は驚くほどに冷えていた。感謝祭の終わりは寒季の始まりでもある。掛布のなかでしばらくぐずぐずしていたが、いつまでもそうしてはいられない。暗闇に目がなれた頃合いを見計らい、思い切って上体を起こす。
「ううっ、さむっ」
一糸まとわぬ素肌が総毛立った。
震えながら慌てて下着をつける。毛織の下履きを履いて、旅仕様の細袴と長衣をまとった。帯革をつけると、身も心も引き締まる。
寒さで着替えを急かされたのは、かえって良かったかもしれない。そうでなければ、肌に赤く印された昨夜の名残に、羞恥で身悶えたであろう。
(これだけは、ちゃんとしておかないと)
寝台から敷布をはがし、まるめてから抱えて部屋を出た。足音を忍ばせながら廊下を歩いて、裏口の扉を開ける。露を含んだ
今はまだ、下働きの者たちも眠りの最中だ。なるべく音をたてぬよう、顔を洗ってから、敷布についた血の染みを水に浸して揉んだ。
流れる水は氷のようだった。洗っていると指先が痛くなるし、血のシミはなかなか落ちない。諦めて自室に戻ったときは、すっかり体は冷えてしまっていた。
とりあえず麻ひもを張って干し、考える。
月のものだと言っても、変に勘ぐられるだけだろう。それなら言い訳めいたことは一切なしで、このまま出立したほうがまだましだ。
(なんだか、不思議な心持ちだな)
これまでの自分にとって、旅とはあてがなく、帰るということを想定しないものだった。帰るべき場所を持たない、浮き草のような旅暮らし。しかしこの二年で、状況はなんと変わったのだろう。今の自分には帰るべき場所が、この金亀楼があるのだ。そして自分を待ってくれている人々が。
外套の裏に留めた
今は己の使命を果たさねば――。
名残惜しさを振り切るよう、顔を左右に振った。
室内は藍色の闇に満ちている。窓を上げ、鎧戸を開いて天を見上げた。すみれ色の空高く月は輝いていたが、迫りくる夜明けの明るみに、その姿を薄っすらと溶け込ませている。
周囲に漂うのは、水気を含んだ青臭い
文机においた手鏡を懐に入れ、背嚢を肩から背へと負った。
「そろそろ行こうか、藍那」
そう自分に語りかけ、部屋を出る。
***
まずは、一番気がかりなことを確かめておきたい。藍那は秧真の部屋へと向かい、扉を叩いた。
「お嬢さま、藍那です」
しばらくして、開いた隙間から節が顔をのぞかせた。きちんと身支度はしていたが、髪は結わずにおろしたままだ。旅装の藍那を一瞥して、眠たげな表情を一変させた。
「あらまあ、先生、もうお支度が出来たのですか。出立はもう少し遅いのかと」
「いえ、直ぐにというわけではないのですが……賄い方にも顔を出さないといけませんし。それより、お嬢さまは?」
「さきほどお目覚めになられましたわ。先生のお見送りをするのに綺麗にしないとって、張り切って身支度されてますよ。ええ、それはそれは張り切って」
「そうでしたか。では『例のものをお願いします』とお伝え下さい」
「はい、分かりました。先生、どうか、お気をつけてくださいね。どうか……」
そう言って、節はなにかに急かされるように扉を締めた。出立に涙は不吉だと言っていたので、泣き顔を見られたくなかったのだろう。とりあえず、これで
薄闇のなか、金亀楼の賄い方へと向かった。見慣れた
「ああ、先生、おはようございます」
顔を洗いに行くのだろう、起き抜けの
「お早いですね先生、俺は忙しくて見送れませんが、どうぞお気をつけて」
「そういえば、柴門は帰ってる?」
「真夜中過ぎに帰ってきましたよ。ですが、さっき起きて、どっか行ってます」
「どっかって……何処?」
「分かりません。ひょっとして厠かもしれませんが。野郎、もしかしたら先生が出かけるまで、そこに籠もってるつもりなんじゃ」
「厠に? どうして」
「あいつ、いささかガキ臭いところがありますからね。しばらく先生が留守にするんで、やっぱり寂しいんすよ。先生にそんな自分を見られるのが、嫌なんじゃないですか」
たしかに子供じみている。苦笑して
「もし厠に行って柴門を見つけたら、見送らなくていいから出るように言っておいて」
と言った。
「伝えておきますよ。こんな時間に長グソされちゃ、他のみんなにも迷惑すからね」
ニヤリと笑い、ひらひらと手を振りながら裏口へと去っていく。そんな安瑛を見送ってから、賄い方の扉を開けた。
「あ、先生、おはようございます」
「先生、もうご出立ですかい。ほんにもう、先生がいなぐなると、金亀楼は火が消えたように寂しいすわ。紫園ももうすぐ出でぐし、なんがなあ……やっとここにも慣れたってのに。ま、仕方ないことですがね」
「なにも戻ってこないってわけじゃない。それよりお願いしたものは」
「ああ、ほれ、ちゃんと包んでおきました」
「ありがとう」
革袋に詰められたのは、固く焼き締めた菓子に、燻製肉、
「こんなに詰めなくても良かったのに」
革袋を持ちあげると、ずっしりと重い。
「いんや、食いもんはあったほうがええ」
「これでも減ったほうなんですよ、最初はこれの倍くらいあって、さすがに重すぎて先生が大変だからって、私が止めたんですから」
由真が呆れた表情でいうと、亜慈は照れくさそうに頭をかいた。
「そうだったのか。でもありがとう、亜慈、由真。ありがたく頂戴するよ」
「なんも礼なんか、先生のお戻りを、首を長ぐして待っておりやす」
紫園は今ごろ水場だろうか。昨夜の今朝のこと、改めて顔を合わせるのが、なんだか気恥ずかしい。そんな藍那に
「もう、先生ったら」
由真がからかうように言った。
「紫園さんは裏に薪を取りに行ってます。戻ったら、すぐにお見送りに行きますから」
「べ、べつにそんなつもりじゃ……」
「先生、ここはあっしがやるので、由真と紫園に見送らせてやってください。あっしは見送りとか、湿っぽいのはどうも苦手で」
「そうそう、亜慈さん、絶対泣いちゃうよね」
「こら、由真。
藍那はそこで懐の鏡を思い出した。渡すなら今が良いだろうか。しかし由真の両手は、竈の墨で真っ黒になってしまっていた。そこに下女の一人が顔を出し、
「ああ、先生、ここにいらしたんですね。旦那さまや他のみんなが、先生のお出ましを待っていますよ」
「ああ、そうですか。じゃあ由真、手を洗っていこうか」
「あ、でも旦那さまをお待たせするのも悪いので、先に行っててください」
裏口に行こうとすると下女が笑った。
「先生、そっちじゃないですよ。みんな、表口で待っています」
「表口?」
「ええ、旦那さまがね、表口からお見送りするようにって」
つまりそれは、
「先生、よがっだじゃねえすか」
振り返れば、賄い方の入り口から身を乗り出した亜慈が、目尻を下げて言った。
「もう先生は、ここになぐちゃならねえお人だ。あっしもここから、旅の無事を祈ってまさ。ほら由真、さっさと手え拭いて、先生と一緒に行げ」
「は、はい。先生、私も」
表口では燈火が灯され、杷萬の他に
「こんなに大勢で見送らなくても……」
困惑する藍那に圓湖が言った。
「先生はご存じないかもしれませんがね、ここら辺じゃ、大勢で見送ると無事に戻ってこられるって、縁起担ぎがあるんでさ」
「先生の変わりの用心棒を、いま口入れ屋に探してもらっていますよ。ま、見つかるまでは柴門や安瑛に頑張ってもらいますわ」
杷萬はそう言って眉根を寄せ、片手に掴んだ袋を差し出す。
「お預かりしていた路銀、たしかに渡しましたよ。それとこれを」
懐から出されたのは、丸められた羊皮紙の書簡である。路銀をしまうついでに開いてみると、両替商あての紹介状であった。杷萬の署名とともに、藍那が希望する金を用立てする旨が書かれてある。
「これは」
「もし金に困るようなことがあれば、これを両替商へ。言い値で貸してくれるはずです。名だたる金亀楼の楼主が保証人なら、断る相手はおらんでしょうな」
「そんな、そこまでしてもらっては」
「もちろん、借りた金は先生に返してもらいますがね」
杷萬の返しに周囲がどっと笑う。そのとき
「あ、紫園さん、早く」
由真の呼びかけに、つい反応してしまった。賄い方に続く廊下から、紫園が小走りに駆け寄ってくる。意識しているつもりもないのに、頬が熱くなるのを覚えた。
「先生……」
「あ、ああ、うん。い、行ってくる……から……」
伝えたいことはたくさんあるはずなのに、一握りほどの言葉すら出てこない。そんな二人をからかうように
「もう、紫園ったら、そんなに名残惜しいんなら、一緒に行けばいいのにさ」
下女の一人が言うと、もう一人も
「そうそう、留守ちゅう先生のことばかり考えて、使い物にならなくなっても困るしねえ」
訳知り顔でうなずいた。からかわれた紫園の顔がみるみるうちに赤くなり、それを見ていた藍那も
「大丈夫ですよ、先生。紫園さんのことは、私たちがちゃあんと面倒見ますから」
由真が明るい口調で助け船を出し、手のひらで胸元を叩く。
「だから、安心して果たしてくださいね。蔵人さんとのお約束」
「うん」
しかし、肝心のモノがまだ来ていない。いや人というべきか。杷萬の方へ向き直り、訊ねた。
「その、お嬢さまは、見送りには?」
「ああ、どうも支度で手間取っているようですわ。たかが見送りなんですがねえ。申し訳ないですが、待ってやってください。まもなく来るはずです」
「そうですか」
それならばと、懐に忍ばせた油紙の包みを取り出し、由真に差し出した。差し出された方の由真はキョトンとした表情で、藍那と包みを交互に見る。
「先生、これは?」
「ああ、由真、これね――」
そのとき、表口の扉がはげしく叩かれる。杷萬の目配せで圓湖が声をかけると、答えたのは門番の
鍵を開けると、血相変えて飛び込んでくる。
「だ、旦那さま、大変です! け、警邏の方々が、旦那さまにお会いしたいと……」