第28話 泰雅の剣客
文字数 4,621文字
いち早く反応したのは紫園の方だ。
彼にものすごい力で突きとばされると同時に激しい土煙が上がる。回転で勢いを殺し、腰を落とすと同時に抜いた天星羅 。その切っ先の向こう、収まりつつある土煙のなかで男が一人、右手に例の剣をつかんで立っていた。
男の足元には紫園が倒れてぴくりとも動かない。まさか。
「ふうーん、これがねえ」
そう言って貼られた霊符 をしげしげと眺める。
男はまだ若い。抜けるような白い肌と青い瞳。見惚れるような端正な面立ちと引き締まった長身。背には長刀。腰のあたりまで伸ばされた銀髪は一つに編まれ、肩から胸へと垂らされている。
明らかに北方の遊牧民、泰雅の特徴であった。
男は視線を転じ、青い瞳を藍那に見据えると屈託のない笑みを浮かべる。
「悪いけどこれは貰って行くよ。君には何の恨みもないのだけど、これも仕事でね。それから」
しゃがみ込み、足元に倒れた紫園の胸倉をつかんだ。
「よく分からないけど、こいつは殺さなくちゃならな――」
とっさに藍那の踏み込みが地を蹴る。奴めがけてまっすぐに繰り出した切っ先が空を裂いた。宙へと身をひるがえした男は柔らかく着地し、悠々と左手で背に負った長剣を抜き放つ。左利き。藍那はとっさに半身の構えを右前から左前へと変じた。
「言っておくけど僕は強いよ。逃げるなら今のうちだけど」
「それは大切な預かりもので、持っていかれると困るの」
「へえーっ。分かった、じゃあ君も殺しちゃうね」
瞬時に詰められた間合いから左のなぎ切り。
踏み込みの瞬間すらわからず大きな横払いを剣身で流すのがやっとだった。流したまま回転させた軸足に体重を乗せ、奴の足元へと繰り出した回し蹴りを悠々とかわされる。速い。速すぎる。
「ふうん、僕の剣を受けたのは褒めてあげるよ。あ、そうだ君、これ預かってて。どうやら少し時間がかかりそうだし」
茶館の物陰から眺めていたごろつきへ、手にしたものを軽々と放り投げた。
両手で刀身を目の高さに構えなおすや否や、正面からすかさず切り込んでくる。流す間もなく数度打ち合った刀身が火花を散らし、すさまじい衝撃が白刃から柄へと流れ込んで藍那の手を痺れさせた。
双極剣は相手の力を己の勁に転じるが、動きが速すぎてほころびが見えない。なんとか機をとらえなければと頭の片隅で考えながら、身体は勝手に動いて鳩尾 への蹴り込みを距離で殺す。
ここぞとばかりに打ち込んだ左の中段。距離も勢いも充分のはずだ。だが男は藍那の剣をあえて受けながら、その勁を防御に転じて一気に下がる。
おかしい。
藍那はかすかな違和感を覚えながら剣を構えた。いったい何がおかしいのか分からぬまま、男の出方を窺う。
一方の男は立てた剣を左に寄せた八双の構え。見合ったのは一瞬、震脚で距離を詰めた男の剣が天星羅と激しくぶつかり合う。
打ち合いの隙をぬって剣が藍那の首筋をかすめた。
だがあえて剣の勢いに逆らうことなく、まるで風に舞う木の葉のように藍那の身体が旋転する。回転の軸は右足、その勁を後ろ回し蹴りの踏み込みに使う。振りかぶった踵脚は見事に相手の脇腹にめり込み、蹴りの勢いのままにすばやく距離を取った。続けて上段からの袈裟懸け。
男の剣が天星羅を捕らえる。いなされ、続けて繰り出された下段からの打ちこみに藍那の反応がやや遅れた。刃を返して勢いを削ぐことが出来ぬまま、流れに巻き込まれた刀身が腕ごと大きく外側へとはじかれる。
がら空きになった右脇腹に、振りかぶった奴の剣首がめり込んだ。
ものすごく痛い。しかし。
――今だ。
激痛に意識が霞んでも、手は勝手に剣を離していた。そのまま奴の左手首をつかむと、すばやく懐へと入り込む。身体の重心をそのまま両足の裏へと移し、掴んだ手首へ体重を一気にかけた。
「な――!?」
奴の身体が否応なしに沈む。これで距離は充分。
勁を踏み込みに集中させた。狙うは人中。地を蹴った勢いを回転する軸へと流し、左の掌打を男の顔面へと突き入れる。
衝撃。
鼻骨の砕ける手応えに男がうめき声を上げ、手のひらに温い血が溢れ伝う。一撃目は上々。だがまだだ、次は――。そう欲を出したのが裏目に出た。
間 をおかず追撃の下突き。だが鳩尾を狙った動きは完全に読まれて、わずかな差で左脇腹へと回し蹴りをくらう。
吹き飛ばされた身体が土埃のなか転がりながら倒れ込む。勁力が身体の芯を突き抜け、内臓がひしゃげる感覚に一瞬意識がとんだ。
気がつくと、這いつくばって吐しゃ物のなかに顔をうずめている自分がいた。声も出なかった。四肢が痺れ、指先を動かすことも出来ない。舌を切ったのだろう、口のなか生ぬるい感触と、濃厚な鉄の味が染みていく。
それでも身体をなんとか転がして仰向けになった。痛む首を動かし奴を見つける。男は長身を折り曲げるように片膝をつき、手のひらで鼻を抑えていた。
やがて藍那の視線を感じたのか顔を上げ、袖で流れる鼻血を丹念にぬぐって立ち上がる。嫌悪を露わにした表情で近づき、切っ先を倒れた藍那の眼前へと突きつけた。
「いやあ、ちょっと危ないところだったな。あんたけっこう強いんだ」
鼻血はまだ止まらない。流れ出たものがあごを伝って襟元を汚し、染みを広げていく。抜けるような肌の白さのせいか鮮血がよけい赤々として、端正な顔立ちだけに壮絶な凄味があった。
「でもさ、残念だったけど僕の方が少し強かった。藍那だっけ? 悪いけど齢 を教えてくれるかな。強い君に敬意を表して、葬式くらい上げてあげるよ。齢が分からないと位牌に刻むとき困るだろ」
血濡れて光る唇を歪め、にやりと笑う。
ぬかせ。そう言いたかったが、舌がしびれて動かなかった。無言のままの藍那に興を削がれたのか、男の顔から表情が消える。ふたたび袖で口元をぬぐうと、剣を逆手に構えなおした。
「じゃあ、死んでよ」
振り下ろされようとする剣尖から目をそらさなかった。死の間際まで見届けてやる、そんな意地だった。ところが剣は突如として向きを変え、肩越しから男の背後へと回される。
鋭い金属音。同時に跳躍。
身をひるがえした男が藍那の視界から消え、すかさず跪 いた紫園に上体を起こされた。左手には――天星羅 ?
「大丈夫か?」
傍らに置いた布包みを取ると、あっけに取られた藍那に差し出した。
「剣は無事だ。安心しろ」
いったいいつの間に――そう尋ねたいのに声が出てこない。それに本当に紫園なのだろうか? 口調といい毅然とした態度といい、姿は同じだけど中身はまるで別人だ。
もしやあの剣のせいか?
そんな危惧をよそに、紫園は手ぬぐいを取り出して土にまみれた藍那の顔を丁寧にぬぐった。
「まったく、無茶しやがって」
苦々しくそう言いながら丸めた手ぬぐいを枕に、藍那の身体を地に横たえる。
「少しの間こいつを借りる。そこで待っていろ」
そう言って立ち上がり、剣を構えた男の方へ向き直った。上体を大きく半身 に落とし、肩の高さで剣を水平に倒す小魁星式 と呼ばれる構えをとる。
「ひとつ聞いておく。名前は」
静かな口調で紫園が尋ねた。問われた方は薄笑いを浮かべ答える。
「ああ、僕? 馬鹿だなあ、言うわけないじゃないか。それに、もし僕が死んだとしても葬式は要らないし」
「そうか。分かった」
踏み込みは双方同時。二三度繰り出した男のすばやい斬撃を紫園はわずかな動きでかわす。男が右への薙ぎ払いから踏み込みを切り替え、返した柄で紫園の腹を狙う。距離も勢いも充分なはずが、剣首がめり込む寸前でゆらりと逃げられた。
――あれが、紫園?
間違いなく勁の流れを読み切っている。そのことに藍那は驚きを通り越し、背筋が寒くなるのを覚えた。それは相手も同じ。繰り出す攻めをことごとく空振りに終わらされ、明らかに焦燥の色が見てとれる。
「こいつっ!」
男が地すれすれから斬りあげた。勢いよく土埃が巻き上がる。しかしあくまでこちらは陽動。土煙を目隠しに一瞬で距離を詰め、がら空きの左わき腹を狙って手刀を叩きこむ矢先――。
それが誘いだと気付いた男がとっさに身を引いて軸をぶれさせた。
一瞬の隙。
その次に起こったことを、藍那の目はとらえる事が出来なかった。
茶館の軒先へと吹き飛ばされた男が、ぶち当たった卓を木っ端微塵に粉砕する。そのまま倒れ込み、死んだように動かなかった。幾重にも人垣を作っていた野次馬も藍那も、あまりのことにまばたきを繰り返すばかりだ。
水をうったような沈黙が流れる。そのなかを周囲の注視をものともせず、紫園は木屑と化した卓へ近づいてのびている男へと目を遣った。
藍那は自分の身体が痛むのも忘れ、上体を起こして紫園を見つめた。
男を眺める横顔からは何の感情も読み取れない。眼前の全てに一切の興味を失った表情は、どこか死んでしまった鼠を放り出す猫を思わせる。
突っ伏した男は起き上がる気配を見せなかった。だが心配は無用。あの粉砕はぶつかる瞬間、男が強靭な勁壁を己の周囲に張ったためだ。衝撃で気を失っているだけで、時間がたてば目を覚ますだろう。
きびすを返し、藍那に歩み寄ると
「終わった。これは返す」
そう言って手にしていた天星羅 を鞘へ収めた。それから野次馬連中を舐めるように見渡し、不快そうに眉をひそめる。
「見世物じゃない、失せろ!」
忌々しそうに恫喝した。
とたんに人垣がどよめいて崩れ、まるで蜘蛛の子を散らすように逃げていく。左右の店は堅く鎧戸を閉じ、なかには何を勘違いしたのか
「こ、殺される」
と悲鳴を上げて走り去っていった。
またたく間に昼下がりの東大参道が閑散として、痩せた野良犬と紫園と藍那だけが往来に取り残される。
「紫園、あなた……」
「金亀楼に帰るぞ。それをよこせ」
鞘に収めた天星羅と布でくるんだ剣に、腰から出した紐をかけてまとめる。それを背中に負うと、藍那の身体を軽々と横抱きにかかえ上げた。
「ちょ、ちょっと!」
「こら、暴れるな」
「だって、ちゃんと立てるから……」
「いいから無理するな。腹をやられているんだ」
「でも……」
「大丈夫だ。安心して、金亀楼につくまでおとなしくしてろ」
子どもをなだめるような口調に力が抜けてしまった。
いったい、こんなことがあるのだろうか。台所の水瓶ひとつ動かすだけで息を荒げていたあの紫園が。その彼が、今は藍那を抱えながら悠々と歩みを進めている。
自分を抱える腕の逞しさ。見上げると紫色の瞳と視線が合い、とたんに胸の奥を掴まれたような息苦しさを覚えた。
顔が火照っているのは熱が出てきたせいだろうか……。
誰かにこうして身を預けることなど初めてだった。それがけっして嫌ではなくむしろ心地よいと思ってしまう――そんな自分に戸惑い、身体の痛みを堪えながらどくどく鳴る心臓の音に耳をすませた。
ほどなく意識が遠のく。
再び気がついたときには寝台に寝かされていた。
彼にものすごい力で突きとばされると同時に激しい土煙が上がる。回転で勢いを殺し、腰を落とすと同時に抜いた
男の足元には紫園が倒れてぴくりとも動かない。まさか。
「ふうーん、これがねえ」
そう言って貼られた
男はまだ若い。抜けるような白い肌と青い瞳。見惚れるような端正な面立ちと引き締まった長身。背には長刀。腰のあたりまで伸ばされた銀髪は一つに編まれ、肩から胸へと垂らされている。
明らかに北方の遊牧民、泰雅の特徴であった。
男は視線を転じ、青い瞳を藍那に見据えると屈託のない笑みを浮かべる。
「悪いけどこれは貰って行くよ。君には何の恨みもないのだけど、これも仕事でね。それから」
しゃがみ込み、足元に倒れた紫園の胸倉をつかんだ。
「よく分からないけど、こいつは殺さなくちゃならな――」
とっさに藍那の踏み込みが地を蹴る。奴めがけてまっすぐに繰り出した切っ先が空を裂いた。宙へと身をひるがえした男は柔らかく着地し、悠々と左手で背に負った長剣を抜き放つ。左利き。藍那はとっさに半身の構えを右前から左前へと変じた。
「言っておくけど僕は強いよ。逃げるなら今のうちだけど」
「それは大切な預かりもので、持っていかれると困るの」
「へえーっ。分かった、じゃあ君も殺しちゃうね」
瞬時に詰められた間合いから左のなぎ切り。
踏み込みの瞬間すらわからず大きな横払いを剣身で流すのがやっとだった。流したまま回転させた軸足に体重を乗せ、奴の足元へと繰り出した回し蹴りを悠々とかわされる。速い。速すぎる。
「ふうん、僕の剣を受けたのは褒めてあげるよ。あ、そうだ君、これ預かってて。どうやら少し時間がかかりそうだし」
茶館の物陰から眺めていたごろつきへ、手にしたものを軽々と放り投げた。
両手で刀身を目の高さに構えなおすや否や、正面からすかさず切り込んでくる。流す間もなく数度打ち合った刀身が火花を散らし、すさまじい衝撃が白刃から柄へと流れ込んで藍那の手を痺れさせた。
双極剣は相手の力を己の勁に転じるが、動きが速すぎてほころびが見えない。なんとか機をとらえなければと頭の片隅で考えながら、身体は勝手に動いて
ここぞとばかりに打ち込んだ左の中段。距離も勢いも充分のはずだ。だが男は藍那の剣をあえて受けながら、その勁を防御に転じて一気に下がる。
おかしい。
藍那はかすかな違和感を覚えながら剣を構えた。いったい何がおかしいのか分からぬまま、男の出方を窺う。
一方の男は立てた剣を左に寄せた八双の構え。見合ったのは一瞬、震脚で距離を詰めた男の剣が天星羅と激しくぶつかり合う。
打ち合いの隙をぬって剣が藍那の首筋をかすめた。
だがあえて剣の勢いに逆らうことなく、まるで風に舞う木の葉のように藍那の身体が旋転する。回転の軸は右足、その勁を後ろ回し蹴りの踏み込みに使う。振りかぶった踵脚は見事に相手の脇腹にめり込み、蹴りの勢いのままにすばやく距離を取った。続けて上段からの袈裟懸け。
男の剣が天星羅を捕らえる。いなされ、続けて繰り出された下段からの打ちこみに藍那の反応がやや遅れた。刃を返して勢いを削ぐことが出来ぬまま、流れに巻き込まれた刀身が腕ごと大きく外側へとはじかれる。
がら空きになった右脇腹に、振りかぶった奴の剣首がめり込んだ。
ものすごく痛い。しかし。
――今だ。
激痛に意識が霞んでも、手は勝手に剣を離していた。そのまま奴の左手首をつかむと、すばやく懐へと入り込む。身体の重心をそのまま両足の裏へと移し、掴んだ手首へ体重を一気にかけた。
「な――!?」
奴の身体が否応なしに沈む。これで距離は充分。
勁を踏み込みに集中させた。狙うは人中。地を蹴った勢いを回転する軸へと流し、左の掌打を男の顔面へと突き入れる。
衝撃。
鼻骨の砕ける手応えに男がうめき声を上げ、手のひらに温い血が溢れ伝う。一撃目は上々。だがまだだ、次は――。そう欲を出したのが裏目に出た。
吹き飛ばされた身体が土埃のなか転がりながら倒れ込む。勁力が身体の芯を突き抜け、内臓がひしゃげる感覚に一瞬意識がとんだ。
気がつくと、這いつくばって吐しゃ物のなかに顔をうずめている自分がいた。声も出なかった。四肢が痺れ、指先を動かすことも出来ない。舌を切ったのだろう、口のなか生ぬるい感触と、濃厚な鉄の味が染みていく。
それでも身体をなんとか転がして仰向けになった。痛む首を動かし奴を見つける。男は長身を折り曲げるように片膝をつき、手のひらで鼻を抑えていた。
やがて藍那の視線を感じたのか顔を上げ、袖で流れる鼻血を丹念にぬぐって立ち上がる。嫌悪を露わにした表情で近づき、切っ先を倒れた藍那の眼前へと突きつけた。
「いやあ、ちょっと危ないところだったな。あんたけっこう強いんだ」
鼻血はまだ止まらない。流れ出たものがあごを伝って襟元を汚し、染みを広げていく。抜けるような肌の白さのせいか鮮血がよけい赤々として、端正な顔立ちだけに壮絶な凄味があった。
「でもさ、残念だったけど僕の方が少し強かった。藍那だっけ? 悪いけど
血濡れて光る唇を歪め、にやりと笑う。
ぬかせ。そう言いたかったが、舌がしびれて動かなかった。無言のままの藍那に興を削がれたのか、男の顔から表情が消える。ふたたび袖で口元をぬぐうと、剣を逆手に構えなおした。
「じゃあ、死んでよ」
振り下ろされようとする剣尖から目をそらさなかった。死の間際まで見届けてやる、そんな意地だった。ところが剣は突如として向きを変え、肩越しから男の背後へと回される。
鋭い金属音。同時に跳躍。
身をひるがえした男が藍那の視界から消え、すかさず
「大丈夫か?」
傍らに置いた布包みを取ると、あっけに取られた藍那に差し出した。
「剣は無事だ。安心しろ」
いったいいつの間に――そう尋ねたいのに声が出てこない。それに本当に紫園なのだろうか? 口調といい毅然とした態度といい、姿は同じだけど中身はまるで別人だ。
もしやあの剣のせいか?
そんな危惧をよそに、紫園は手ぬぐいを取り出して土にまみれた藍那の顔を丁寧にぬぐった。
「まったく、無茶しやがって」
苦々しくそう言いながら丸めた手ぬぐいを枕に、藍那の身体を地に横たえる。
「少しの間こいつを借りる。そこで待っていろ」
そう言って立ち上がり、剣を構えた男の方へ向き直った。上体を大きく
「ひとつ聞いておく。名前は」
静かな口調で紫園が尋ねた。問われた方は薄笑いを浮かべ答える。
「ああ、僕? 馬鹿だなあ、言うわけないじゃないか。それに、もし僕が死んだとしても葬式は要らないし」
「そうか。分かった」
踏み込みは双方同時。二三度繰り出した男のすばやい斬撃を紫園はわずかな動きでかわす。男が右への薙ぎ払いから踏み込みを切り替え、返した柄で紫園の腹を狙う。距離も勢いも充分なはずが、剣首がめり込む寸前でゆらりと逃げられた。
――あれが、紫園?
間違いなく勁の流れを読み切っている。そのことに藍那は驚きを通り越し、背筋が寒くなるのを覚えた。それは相手も同じ。繰り出す攻めをことごとく空振りに終わらされ、明らかに焦燥の色が見てとれる。
「こいつっ!」
男が地すれすれから斬りあげた。勢いよく土埃が巻き上がる。しかしあくまでこちらは陽動。土煙を目隠しに一瞬で距離を詰め、がら空きの左わき腹を狙って手刀を叩きこむ矢先――。
それが誘いだと気付いた男がとっさに身を引いて軸をぶれさせた。
一瞬の隙。
その次に起こったことを、藍那の目はとらえる事が出来なかった。
茶館の軒先へと吹き飛ばされた男が、ぶち当たった卓を木っ端微塵に粉砕する。そのまま倒れ込み、死んだように動かなかった。幾重にも人垣を作っていた野次馬も藍那も、あまりのことにまばたきを繰り返すばかりだ。
水をうったような沈黙が流れる。そのなかを周囲の注視をものともせず、紫園は木屑と化した卓へ近づいてのびている男へと目を遣った。
藍那は自分の身体が痛むのも忘れ、上体を起こして紫園を見つめた。
男を眺める横顔からは何の感情も読み取れない。眼前の全てに一切の興味を失った表情は、どこか死んでしまった鼠を放り出す猫を思わせる。
突っ伏した男は起き上がる気配を見せなかった。だが心配は無用。あの粉砕はぶつかる瞬間、男が強靭な勁壁を己の周囲に張ったためだ。衝撃で気を失っているだけで、時間がたてば目を覚ますだろう。
きびすを返し、藍那に歩み寄ると
「終わった。これは返す」
そう言って手にしていた
「見世物じゃない、失せろ!」
忌々しそうに恫喝した。
とたんに人垣がどよめいて崩れ、まるで蜘蛛の子を散らすように逃げていく。左右の店は堅く鎧戸を閉じ、なかには何を勘違いしたのか
「こ、殺される」
と悲鳴を上げて走り去っていった。
またたく間に昼下がりの東大参道が閑散として、痩せた野良犬と紫園と藍那だけが往来に取り残される。
「紫園、あなた……」
「金亀楼に帰るぞ。それをよこせ」
鞘に収めた天星羅と布でくるんだ剣に、腰から出した紐をかけてまとめる。それを背中に負うと、藍那の身体を軽々と横抱きにかかえ上げた。
「ちょ、ちょっと!」
「こら、暴れるな」
「だって、ちゃんと立てるから……」
「いいから無理するな。腹をやられているんだ」
「でも……」
「大丈夫だ。安心して、金亀楼につくまでおとなしくしてろ」
子どもをなだめるような口調に力が抜けてしまった。
いったい、こんなことがあるのだろうか。台所の水瓶ひとつ動かすだけで息を荒げていたあの紫園が。その彼が、今は藍那を抱えながら悠々と歩みを進めている。
自分を抱える腕の逞しさ。見上げると紫色の瞳と視線が合い、とたんに胸の奥を掴まれたような息苦しさを覚えた。
顔が火照っているのは熱が出てきたせいだろうか……。
誰かにこうして身を預けることなど初めてだった。それがけっして嫌ではなくむしろ心地よいと思ってしまう――そんな自分に戸惑い、身体の痛みを堪えながらどくどく鳴る心臓の音に耳をすませた。
ほどなく意識が遠のく。
再び気がついたときには寝台に寝かされていた。