第36話 師弟の契り

文字数 4,966文字

 水場から桶に水を汲んできた。それを顔にかけてやると藩座は目を覚まし、のっそりと起き上がる。蹴りの当たった右手を握っては開き、指の動きを観察する。

「すこし痺れるだろうが、明日には治っているはずだ」
「どうも不思議な打撃ですな。皮と肉にはまるで効かないのに、骨に直接衝撃が届く」
「なに、発勁のちょっとした応用だ。たいしたことじゃない」

 流れる滴も拭わず、藩座は深々と頭を下げた。

「さすが先生だ、お見それしました。功夫(コンフー)の違いを見せつけられた思いです」
「それにしてもずいぶんと鍛錬を積んだようだね。ここに来たときとはまるで別人のような動きだった」
「いや、それを言われるとお恥ずかしい。たった三月(みつき)前ですが、あの頃を思い出すと穴に入りたい気分ですよ」

 大きな手のひらで水をはらうように拭う。その表情は晴れやかで清々しかった。

「これほど鍛錬を積んだのに、きっぱり止めてしまうのも惜しい気がするけれど。でも潔いのが藩座らしいね。魯米利でも元気でやっとくれ」

 固い握手を交わす。だが大きな手のひらは藍那の手をしばし離さず、奇妙に思って見上げた先に、何か言いたげな表情があった。

「先生、このお話は出立の前に、どうしても先生のお耳に入れておこうと思っていたのですが……」
「話……?」

 ようやく大きな手のひらが離れた。

「はい。先生は東大参道の呉椅(ゴイス)のところで、頬に火傷をした男に会いましたね」
「……たしかに、会ったね。」
「彼は韋蛮(イヴァン)といって、遙水(バルナ)の講武所で一緒だった男です。なかなかの腕でしたが、それがしより前に遙水(バルナ)を飛び出しましてね」

 右手の木剣を眼前に掲げた。

「これは華羅人街の《狼々(ロウロウ軒)で買い求めたものです。店は小ぶりだが、実にいい品を揃えておりますな。その帰り、東大参道で奴に会いました」
「それはいつだい?」
「先生が呉椅(ゴイス)の茶館で一悶着あった日の、少し前のことです。」

 酒家の店先でばったりと再開し、懐かしさのままに杯を交わした。

「そこでいろいろ話したんですがね、奴は半年ほど前まで泉李(イズミル)に住んでいて、あの大火に遭ったらしいです。泉李でもおおきなシマを取り仕切る、播帑(ハリド)のところで用心棒を務めていたようで」

 播帑――その名前に聞き覚えがあるような気がした。いったいどこで聞いたのだったか。

「あの大火のすぐあとで、親分の播帑は亡くなった。火事で焼けた街をあとにして、荒秦(アラジン)一家に世話になることにしたようで。なんでも荒秦と播帑は昔からの兄弟分だったとか」

 杯を重ねるうち、酔いに任せて韋蛮(イヴァン)が打ち明け話を始めた。

 ――実は俺はいま、この街である男を捜していてな。目が紫色の若い男なんだが、藩座、おめえ知らねえか?

「それで教えたの?」
「とんでもない。それに珍しい色だがこの世に二つとない――ってわけでもない。もしかしたら人違いってこともある。だからそれがしはなにも答えませんでした」

 だがなぜ韋蛮(イヴァン)が紫色の目の男を捜しているのか。
 好奇心から藩座は巧みに酒を勧め、詳細を聞き出した。昔からこの男が酔うと口が軽くなるのを知っていたからだ。
 
 酔いの勢いで韋蛮(イヴァン)が口にしたのは、実に興味深い事実だった。
 荒秦一家に少し前からある剣客が滞在している。名は宮遮那(クシャナ)といってそのなりから泰雅の出身だと分かる。整った容貌に一つに編まれた銀色の髪。涼しげな双眸(そうぼう)はまるで抜き身のように鋭利で

――ありゃな、数え切れないほどの人間を虫のように殺してきた目だぜ。

 韋蛮(イヴァン)はそう言った。
 なぜ荒秦一家に寄宿しているのかは不明だが、驚くことに彼は韋蛮(イヴァン)を名指しで呼び出した。そして泉李で焼死した貿易商の巧瑠(ウマル)について、あれこれと訊ねたのである。

巧瑠(ウマル)というのは泉李でも指折りの商人で、廻船業や香辛料やら手広くやっていたそうです。だが裏では麻薬(ハシシ)の取引に手を染めていて、播帑(ハリド)とつながりがあった」

 巧瑠(ウマル)には四人の妻の他に瑚々(ココ)という妾がいて、裏商売のことは瑚々が住む館で行っていたらしい。
 巧瑠が住まう大邸宅より離れた場所に館はあった。そこそこ裕福な文官や武官たちが居を構える閑静な屋敷町である。

韋蛮(イヴァン)麻薬(ハシシ)の取引で、何度もこの屋敷を訪れたことがあったそうです。妾の瑚々はもとは酒楼の踊り子で、彼女を世話したのも播帑(ハリド)だ。実は播帑(ハリド)のお下がりだという噂もあったらしいですがね。この瑚々の屋敷が、どうも大火の火元なんじゃないかと役人たちがかぎつけた」
「ほう」
「瑚々の屋敷にはお抱えの画家が一人、居候していた。彼が描いた瑚々の絵を巧瑠(ウマル)はたいそう気に入って、屋敷に住まわせ、面倒を見る代わりに何枚も絵を描かせたそうです。画家の名は迭戈(ディエゴ)といって、これがなかなかのいい男だったようで」

 藍那の脳裏で何かがうっすらと像を結び始める。泉李の大火、火元になった屋敷、そしてそこに住まっていた一人の画家……。

「もしかして、その画家の目は紫色――」
「ご明察。瑚々と迭戈(ディエゴ)は男女の仲だったそうですよ。それは巧瑠(ウマル)も黙認していたようです。おまけに巧瑠は珍しい武具の収集に凝っていて、妾宅の地下に宝物庫までつくっていた。
 古今東西の名剣や魔剣、槍や鉾のたぐい。頑丈につくってあったので、あの大火でも燃えることはなかったのですが、剣が一振り、大火のあと忽然と消えたそうです」
巧瑠(ウマル)はその夜、妾宅には居なかったの?」
「奴さん、その晩は本宅に居たそうで。その屋敷も燃えてしまいましたが。巧瑠は大火傷を負って火事から四日後に死んでます。火元になったらしい妾宅のほうはといえば、瑚々(ココ)や使用人の焼死体は見つかったのですが」

 藩座はそこで言葉を切った。

「死体が一人、足りないそうなんで」
「一人足りない」
「瑚々と使用人たち、そして画家。その夜屋敷にいたはずの人数と、見つかった死体の数が合わないそうです」
「つまり、誰かが剣と一緒に消えた、と」
「役人はそう考えて、剣とその誰かを血眼で探していた」
「ふむ」

 そこまでは杏奈が羽箭(ハヤ)から聞いたことと相違ない。
 巧瑠(ウマル)が宝物庫に収めていたのは例の剣、龍三辰(ルシダ)で間違いないだろう。だが龍三辰はその後、少なくとも二人の手に渡り、持ち主はいずれも悲惨な死を遂げている。宜栄(ヤロヴァ)の金持ちと振茶(ブルサ)の両替商。
 いや、確かもう一人――。

「たしか播帑とかいう親分は火事のあと亡くなったのだったね。彼はある男に役人たちが探している剣を闇で売って、それから間もなく死んでいる」
韋蛮(イヴァン)の話じゃ、剣を手放したあとの播帑は明らかにおかしかったそうです。まるで人が変ったように陰気になって、寝室から出てこなくなった。情婦(バシタ)が気味悪がって様子を見に行ったら案の定、首を吊って死んでいた――という訳です」
「自殺だったってことか」

 これで三人、あの剣がもとで不慮の死を遂げた。そして剣は振茶(ブルサ)の古道具屋から蔵人へ渡り、あの日藍那のもとへと。
 あのとき、宮遮那(クシャナ)とかいう剣客は藍那たちを茶館で待ち伏せていた。それは帝都に消えた剣と画家がいることを、前もってつかんでいたことになる。

「つまり、剣客の目的は消えた剣と画家を探すこと。妾宅で画家を見ている韋蛮(イヴァン)に紫色の目をもった男を捜させて、首実検させようってことか」

 藍那の言葉に藩座はうなずき、重苦しい沈黙が流れた。
 今の話が真実なら、紫園は迭戈(ディエゴ)という画家に相違ない。彼が妾宅から剣を盗み出し、屋敷に火をつけて姿をくらませた――そう考えれば合点はいく。
 だがそれなら――。

 なぜ杏奈の妹一家の焼け跡に倒れていたのか。記憶と言葉を失ったのか。
 彼が剣を盗んだのなら、なぜ播帑の手に渡って闇で売られたのか。それまでして手に入れた剣を手放してしまったのはなぜなのか。
 考えれば考えるほど、分からないことだらけだ。

「先生、大丈夫ですか?」

 藩座の呼びかけにふと我に返った。天星羅の柄をきつく握りすぎた手のひらが痛い。ため息をついて、藩座を見据えて訊ねる。

「藩座、なぜそれを……そんな大事なことを、今まで黙っていた?」
「逆に伺いますが、先生はあの紫園に惚れていなさるので?」

 惚れている――その意を理解すると同時に顔に血が上る。

「そ、そんなんじゃないって! し、紫園はただの、で、弟子だから! 惚れているとか、そういうのじゃ――」

 耳まで真っ赤になっているのが自分でも分かった。
 必死で否定する自分がとても滑稽に思えて、穴があったら入りたいくらいだ。
 どうしてこんなに顔が熱くなるのだろう。本当に、紫園のことなんてただの弟子としか思っていないはずなのに。

「ではあの男との師弟の縁を切って、彼をこの阿耶から追い出せとそれがしが言ったとしたら?」

 そう問いかける藩座の目はどこか悲しげだ。

「それは……それはできないよ。彼を弟子にして、ちゃんと面倒見るって約束したからね。一度師弟の契りを結んだからには、最後まで筋は通すつもりだ」
「やはり、そうおっしゃると思っていました……。ですがね先生、それがしは今すぐにでも、あの男をどこか遠くへやってほしいのです。 
 言っちゃ悪いがいやな予感しかしないのですよ。あれにはなにか不吉な陰がある。疫病神ってやつです。しかしそんな話を聞いたところで、義に篤い先生が筋を曲げるわけはない……そう考えておりました」

 藩座は巨躯をおりまげるように深々と(こうべ)を垂れた。

「しかし黙っていたことには詫びを申します。もっと早くお伝えしていたら、先生がお怪我を負うこともなかった」
「この話は、今までには誰にも?」
「しておりません。しかし……」
「しかし?」
「もしかしたら、柴門は何かを感づいているかもしれません」

 目を剥いた藍那に藩座は言った。

「実は先生が泰雅の剣客に襲われたあと、どうしても腹に据えかねまして、韋蛮(イヴァン)の住まいを訪ねたのです。奴の住まいは南の蟑螂(ビョジェイ)通りにありましてね。一発ぶん殴ってやるつもりで勇んで行ったのですが」

 蟑螂(ビョジェイ)通りといえば、帝都でも指折りの貧民街である。その筋の者が多く住まうことで知られ、掏摸や物乞い、私娼たちの巣窟だ。

「野郎、どうも姿をくらましたらしく、向かいの因業婆……いや老女に訊ねたところ、先生と一悶着あった日から戻ってきていないようでした。なにか分からないかと金を掴ませていろいろ聞いたところ、奴を訪ねて来た男が他にもいたようで」
「それが柴門――だった?」
「その男はもし韋蛮(イヴァン)が戻ってきたら教えて欲しいと、老女に金を渡して去ったそうです。金亀楼の柴門を訪ねろと。どうも紫園のことを、あれこれ嗅ぎ回っているようですな」
「そうか……」

 柴門はどこまで知っているのか――。
 腰に手を当て、しばし瞑目してから藩座を見据える。

「藩座、話してくれてありがとう。だがもし紫園がその迭戈(ディエゴ)だったとしても、彼が屋敷に火を放ったのか、宝物庫の剣を盗み出したのかはあくまで憶測でしかない。いずれ真実が明らかになるまでは、このまま紫園を見守っていこうと思う」
「先生がそのおつもりなら、それがしに言うことはなにもありません。まさに侠客の鏡ともいうべき心意気、恐れ入ります」

 再度一礼し、藩座はその場を去って行った。藍那は大きなくしゃみをし、いつの間にか夜風で身体が冷えていたことを知る。
 瞬く星々をちりばめ澄んだ夜空は、すっかり秋の気配であった。

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登場人物紹介

紫園ㅤ

記憶を失くした青年。奥尔罕オルハンの帝都阿耶アヤから東にある港街、泉李イズミルの大火で生き残っていたところを助けられ、金亀楼コンキろうに下男として引き取られる。読み書きができ、剣も使える謎多き人物。赤みがかった栗色の髪に、珍しい紫色の瞳の持ち主。

璃凛リリン藍那アイナ
母から伝えられた双極剣の遣い手であり、女ながら用心棒で生計を立てている。現在は帝都随一の色街、紅籠ヴェロ街の娼館、金亀楼で働くが、訳あって母の名前である藍那アイナを名乗っている。十八歳。

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