第65話 夢の水底
文字数 4,379文字
あの日。
金亀楼で気を失った藍那は、目覚めると呵鵡 の診療所で寝ていた。枕元で看護してくれていたのは杏奈だ。口数少なく、藍那を気遣う様子から悟ってしまった。想定したよりも、ずっと最悪のことが起こってしまったのだと。
杏奈の話によれば、藍那は高熱にうなされ、五日ものあいだ生死の境を彷徨っていた。助け出されたときは全身が血まみれで、助け出した警邏の男は、まさか生きているとは思わなかったという。
鏖殺 の現場を発見したのは、同僚がいつまでも戻らないことを訝 った警邏たちだ。暗いうちから出たのに、朝礼拝の鐘が鳴っても帰ってこない。
虫の知らせというのだろうか、不吉なものを感じ、三人ばかりで連れ立って金亀楼へと赴 いた。正門の鍵は開いていたので中を覗けば、不自然なほど人の影が見当たらない。
入るべきかどうか迷っていると、勝手口から回ってきた洗濯女の一人に声をかけられた。聞けば、いつもなら賑やかな勝手口が静まり返っている。なかへ声をかけても返事はなく、しかも、ひどく嫌な匂いが漂ってくると言う。
洗濯女たちも、卵や魚や野菜を配達に来た男たちも、気味悪がって誰も中に入りたがらず、そのうち野次馬も加わって、勝手口には人山が築かれていた。
屈強、かつ勇猛果敢で名高い警邏隊である。民の手前、ここで怯んではならぬと勇んで足を踏み入れた三人は、凄惨な殺戮の爪痕を目の当たりにすることとなった。
それについて杏奈はなにも語らない。警邏たちもおそらく、詳細なことは言わなかっただろう。慌てて応援を呼び、血眼で生存者を探して見つかったのは、たった二人だけだ。
表玄関に気を失い倒れていた藍那と、奥 の自室で震えていた秧真 。二人は金亀楼の御用医師、呵鵡 の診療所へと担ぎ込まれた。
知らせを聞いて飛んできた慈衛堵 が聞いたところでは、藍那は何者かにひどく乱暴されたあとがあり、その裂傷が発熱して昏睡状態にある。このまま熱が下がらなければ、命に関わるだろう――と。
一方、秧真 には怪我ひとつないが、精神錯乱がひどい。自死の恐れもあるので決して目を離さぬようにと、医師は慈衛堵にきつく申し付けた。
秧真は慈衛堵が屋敷に引き取ることにし、藍那の方は、同じく診療所に駆けつけた杏奈が看護を申し出た。それから五日間、杏奈は不眠不休で藍那の世話をしたのだった。
杏奈が弦楽 と唄を教えていたのは、なにも金亀楼の娼妓たちばかりではない。しかし杏奈は他の妓楼からの仕事をすべて断り、藍那が目覚めた後も、かいがいしく身の回りの世話をしてくれた。
杏奈はあえて口にしなかったが、藍那には分かっていた。杏奈が抱える激しい動揺と罪悪感に。藍那の世話をするのは、彼女なりの罪滅ぼしなのだということも。
分かりながら、藍那にはなにも言うことが出来なかった。
あの日から、声が出なくなってしまったからだ。
***
それからおよそ三 月を寝たきりで過ごした。とりあえず高熱は下がったものの、執拗な微熱と、裂傷の痛みに苦しみ続けた。
うめき声をあげたくても、喉からはかすれた息しか出てこない。熱に浮かされたまま夢を見れば、必ずあの《影》が出てきた。夢のなかで紫色 の炎に焼かれ、熱さに悶え苦しみ、叫ぼうとしたところでいつも目が覚める。
夢には時々、由真も出てきた。悲しそうな目でじっと藍那を見つめ、理不尽な自分の運命を嘆いている。炎も恐ろしいが、由真の沈黙のほうが藍那にはひどく堪えた。
なぜ自分が生き残ってしまったのかと、砂を噛むような思いが心を蝕んだ。自分がこうして生きていることはなにかの間違いなのだ。助かるべきは、由真と璃娃 ではなかったか。
いっそ気が狂ってしまえばよかったと、正気であることを呪う日々。寝たきりで食欲もわかず、身体の肉がごっそり落ちたのが自分でもわかる。このまま痩せ衰えて、飢えながら死んでしまおうとすら願った。
そんな思いとはうらはらに、ゆっくりであったが、確実に傷は癒えていく。
呵鵡 の処方した薬が良かったのだろう。年が明ける頃には、潮がひくように微熱は去り、眠れないほど痛んだ傷も、それほど気にならなくなった。
それなのに。
着実に回復しながら、寝台から起き上がることが出来なかった。一日の殆どを眠って過ごし、食事と排泄のためだけに起きた。呆けたように窓の外を降る雪を見上げ、そういえば天星羅 はどうしたのかとぼんやり考えたりした。
おそらく天星羅も鏡も、金亀楼に捨て置かれたままだろう。正直なところ、天星羅 のことも龍三辰 のことも、もうどうでも良かった。今後、剣を握ることは二度とないのだから。
時折、杏奈の口から秧真 の近況を聞くことがあったが、向こうも似たようなものだった。秧真の世話を引き受けたのは、第一夫人である讃良 だ。子に恵まれなかった夫人は、まるで実の娘のように、秧真の面倒を見ているらしい。
しかし憔悴がひどく、食事もほとんど取らず、このままでは死んでしまうのではないかと愛紗が危惧しているという。
そんな愛紗は、藍那を見舞いたくとも叶わないことを嘆いていた。奥尔罕 では、妊婦と不幸があった人間との接触をひどく忌み嫌う。お腹の子に《死の穢れ》がうつると言われ、身内の葬式さえ出ないのだ。
そのかわり、慈衛堵がときおり顔を見せた。
これまで慈衛堵とは数えるほどしか話をしたことがない。しかしその英傑ぶりは聞いていた。帝都でも老舗の染め物屋に生まれ、傾きかけていた家業を立て直したばかりか、若くして染め物組合の長となった。
そう聞くと、精力的で居丈高な人物を想像しがちだが、実際はとても親しみやすい、気取らない人柄である。年は四十であったが、見た目はずっと若い。妻を複数持てるにも関わらず、子に恵まれなかった五歳年上の第一夫人を長く大切にした。愛紗を第二夫人として迎えた今も、第一夫人に対する愛情は変わることがない。
そんな慈衛堵が藍那に語りかける口調は、まるで自分の妹に話すような親身さであった。治療代のことは気にしなくて良いこと。早く治って屋敷に住み、半年の喪が明けたら、愛紗の話し相手になってほしいこと。
金亀楼の事件は愛紗にも少なからぬ打撃を与え、一時期は早産の恐れさえあった。今は落ち着いたものの、秧真の憔悴ぶりに心を痛めている。
「先生が屋敷にいらしてくだされば、きっと彼女の心も晴れるでしょう。いえ、むしろ、ご自分の家に帰ると思っていただければ。妻の義姉妹 なら、私の妹も同然なのですから」
しかしそんな慰めもどこか他人事で、全てを拒絶するように目を固く閉じ、寝台の毛布にくるまり続けた。
昼間の短い寒季は、眠りに逃げ込むには都合がいい。
あの炎の夢を見なくなったかわりに、昔の金亀楼の夢を度々見た。賄い方で由真が笑っていて、亜慈が微笑みながら肉切り包丁を奮っている。そばには紫園がいて、大鍋で羊肉を煮ていた。
杷萬や柴門に圓湖 も出てきた。安瑛 や秧真、節 に寧々も。
あるべきはずだった金亀楼が、夢の水底にはあった。
明け方に目が覚め、懐かしさに枕を濡らし、再び眠りについて夢を貪る。たとえ幻だとしてもかまわない。笑っている由真に会えるなら、このまま死ぬまで眠り続けていたかった。
やがて厳しい寒さが緩み、日が少しずつ伸びていく。帝都に降り積もった雪が溶け、窓に差し込む日差しにも、どこか春めいた暖かさが感じられた。
愛紗が病室を訪れたのは、そんな寒季の終わり。晴れた日の午後である。
***
そもそも、上流の婦人が外出するということが珍しい土地柄だ。さらには身重の体で、病人が多い診療所に顔を出すということも、ある意味突飛な行動と言えた。
そのとき藍那はいつもどおり眠りを貪っていた。
慌てた杏奈に起こされ、扉を開いて姿を現した訪問客を、現 とは思えずにぼんやりと眺める。
慣習にならい、毛皮の外套を覆うように、頭から絹地の薄物をすっぽりと被っている。薄物の色は白であったが、これは杷萬や金亀楼の者たちへの弔意を表 してのことだろう。厚い外套の上からでも、大きくせり出した腹部が目立っている。めでたいことに腹の子は順調に育っているらしい。
これはまだ夢の続きなのか――。
霞のかかった頭で考え、薄物の奥へと目を凝らすと、
「久しぶりね、藍那」
そう言って、愛紗が片手で薄物を引き上げた。
薄化粧を施した顔は、想像していたよりふっくらしていた。想像を絶する惨劇も、彼女の美貌を損なうことは出来なかったようだ。顔色もつややかで、健康そのものに見える。
だが、その一見健やかそうな面 の奥に、深い悲しみが刻まれていた。どんな慰めも時間の流れも癒やすことの叶わない、喪失がもたらした傷跡が。
藍那が寝台からかろうじて上体を起こすと、杏奈が毛織の肩掛けを背に掛けてくれた。
姐さん――そう言いたくとも声が出てこない。眦 を曇らせる愛紗に、杏奈が黙って首を横にふった。
「痩せたわね、藍那」
そう言って杏奈の方へ向き直った。
「二人きりにしてくれる? 外に待っている警護たちに、なにか温かいものをいただけるかしら」
「承知いたしました。その前に、炭を足しておきましょうか?」
杏奈はそう言って、病室の片隅に置かれた炉炭へ視線をやった。寒さが緩んで炭を足すことも少なくなったが、なんと言っても身重である。体を冷やしてはとの心遣いであったが、愛紗は
「いいのよ、大丈夫。今日はずいぶんと暖かいもの」
とにこやかに笑う。杏奈が出ていくと、寝台脇に置かれた木椅子に座った。
「ずっと来られなくてごめんなさい」
藍那が差し出した右手を握りしめ、額に当てた。既婚を表す額の星は、今は安産を願う赤色の染料で印されている。
「本当はこの子のことを思うと、来ないほうがいいのかもしれない。でも、どうしても、あなたに伝えたいことがあるの。それから、これも……」
そのとき初めて愛紗が外套の下から左手を出した。いや、正確には、左手に抱えていた布包みを。
藍那の息が一瞬、止まる。見覚えのあるその形。寝台の上、藍那の足元にそれをおいた愛紗が、慎重な手付きで包みを開いていく。
ほどなく天星羅と、油紙に包まれたままの手鏡が姿を表した。
金亀楼で気を失った藍那は、目覚めると
杏奈の話によれば、藍那は高熱にうなされ、五日ものあいだ生死の境を彷徨っていた。助け出されたときは全身が血まみれで、助け出した警邏の男は、まさか生きているとは思わなかったという。
虫の知らせというのだろうか、不吉なものを感じ、三人ばかりで連れ立って金亀楼へと
入るべきかどうか迷っていると、勝手口から回ってきた洗濯女の一人に声をかけられた。聞けば、いつもなら賑やかな勝手口が静まり返っている。なかへ声をかけても返事はなく、しかも、ひどく嫌な匂いが漂ってくると言う。
洗濯女たちも、卵や魚や野菜を配達に来た男たちも、気味悪がって誰も中に入りたがらず、そのうち野次馬も加わって、勝手口には人山が築かれていた。
屈強、かつ勇猛果敢で名高い警邏隊である。民の手前、ここで怯んではならぬと勇んで足を踏み入れた三人は、凄惨な殺戮の爪痕を目の当たりにすることとなった。
それについて杏奈はなにも語らない。警邏たちもおそらく、詳細なことは言わなかっただろう。慌てて応援を呼び、血眼で生存者を探して見つかったのは、たった二人だけだ。
表玄関に気を失い倒れていた藍那と、
知らせを聞いて飛んできた
一方、
秧真は慈衛堵が屋敷に引き取ることにし、藍那の方は、同じく診療所に駆けつけた杏奈が看護を申し出た。それから五日間、杏奈は不眠不休で藍那の世話をしたのだった。
杏奈が
杏奈はあえて口にしなかったが、藍那には分かっていた。杏奈が抱える激しい動揺と罪悪感に。藍那の世話をするのは、彼女なりの罪滅ぼしなのだということも。
分かりながら、藍那にはなにも言うことが出来なかった。
あの日から、声が出なくなってしまったからだ。
***
それからおよそ
うめき声をあげたくても、喉からはかすれた息しか出てこない。熱に浮かされたまま夢を見れば、必ずあの《影》が出てきた。夢のなかで
夢には時々、由真も出てきた。悲しそうな目でじっと藍那を見つめ、理不尽な自分の運命を嘆いている。炎も恐ろしいが、由真の沈黙のほうが藍那にはひどく堪えた。
なぜ自分が生き残ってしまったのかと、砂を噛むような思いが心を蝕んだ。自分がこうして生きていることはなにかの間違いなのだ。助かるべきは、由真と
いっそ気が狂ってしまえばよかったと、正気であることを呪う日々。寝たきりで食欲もわかず、身体の肉がごっそり落ちたのが自分でもわかる。このまま痩せ衰えて、飢えながら死んでしまおうとすら願った。
そんな思いとはうらはらに、ゆっくりであったが、確実に傷は癒えていく。
それなのに。
着実に回復しながら、寝台から起き上がることが出来なかった。一日の殆どを眠って過ごし、食事と排泄のためだけに起きた。呆けたように窓の外を降る雪を見上げ、そういえば
おそらく天星羅も鏡も、金亀楼に捨て置かれたままだろう。正直なところ、
時折、杏奈の口から
しかし憔悴がひどく、食事もほとんど取らず、このままでは死んでしまうのではないかと愛紗が危惧しているという。
そんな愛紗は、藍那を見舞いたくとも叶わないことを嘆いていた。
そのかわり、慈衛堵がときおり顔を見せた。
これまで慈衛堵とは数えるほどしか話をしたことがない。しかしその英傑ぶりは聞いていた。帝都でも老舗の染め物屋に生まれ、傾きかけていた家業を立て直したばかりか、若くして染め物組合の長となった。
そう聞くと、精力的で居丈高な人物を想像しがちだが、実際はとても親しみやすい、気取らない人柄である。年は四十であったが、見た目はずっと若い。妻を複数持てるにも関わらず、子に恵まれなかった五歳年上の第一夫人を長く大切にした。愛紗を第二夫人として迎えた今も、第一夫人に対する愛情は変わることがない。
そんな慈衛堵が藍那に語りかける口調は、まるで自分の妹に話すような親身さであった。治療代のことは気にしなくて良いこと。早く治って屋敷に住み、半年の喪が明けたら、愛紗の話し相手になってほしいこと。
金亀楼の事件は愛紗にも少なからぬ打撃を与え、一時期は早産の恐れさえあった。今は落ち着いたものの、秧真の憔悴ぶりに心を痛めている。
「先生が屋敷にいらしてくだされば、きっと彼女の心も晴れるでしょう。いえ、むしろ、ご自分の家に帰ると思っていただければ。妻の
しかしそんな慰めもどこか他人事で、全てを拒絶するように目を固く閉じ、寝台の毛布にくるまり続けた。
昼間の短い寒季は、眠りに逃げ込むには都合がいい。
あの炎の夢を見なくなったかわりに、昔の金亀楼の夢を度々見た。賄い方で由真が笑っていて、亜慈が微笑みながら肉切り包丁を奮っている。そばには紫園がいて、大鍋で羊肉を煮ていた。
杷萬や柴門に
あるべきはずだった金亀楼が、夢の水底にはあった。
明け方に目が覚め、懐かしさに枕を濡らし、再び眠りについて夢を貪る。たとえ幻だとしてもかまわない。笑っている由真に会えるなら、このまま死ぬまで眠り続けていたかった。
やがて厳しい寒さが緩み、日が少しずつ伸びていく。帝都に降り積もった雪が溶け、窓に差し込む日差しにも、どこか春めいた暖かさが感じられた。
愛紗が病室を訪れたのは、そんな寒季の終わり。晴れた日の午後である。
***
そもそも、上流の婦人が外出するということが珍しい土地柄だ。さらには身重の体で、病人が多い診療所に顔を出すということも、ある意味突飛な行動と言えた。
そのとき藍那はいつもどおり眠りを貪っていた。
慌てた杏奈に起こされ、扉を開いて姿を現した訪問客を、
慣習にならい、毛皮の外套を覆うように、頭から絹地の薄物をすっぽりと被っている。薄物の色は白であったが、これは杷萬や金亀楼の者たちへの弔意を
これはまだ夢の続きなのか――。
霞のかかった頭で考え、薄物の奥へと目を凝らすと、
「久しぶりね、藍那」
そう言って、愛紗が片手で薄物を引き上げた。
薄化粧を施した顔は、想像していたよりふっくらしていた。想像を絶する惨劇も、彼女の美貌を損なうことは出来なかったようだ。顔色もつややかで、健康そのものに見える。
だが、その一見健やかそうな
藍那が寝台からかろうじて上体を起こすと、杏奈が毛織の肩掛けを背に掛けてくれた。
姐さん――そう言いたくとも声が出てこない。
「痩せたわね、藍那」
そう言って杏奈の方へ向き直った。
「二人きりにしてくれる? 外に待っている警護たちに、なにか温かいものをいただけるかしら」
「承知いたしました。その前に、炭を足しておきましょうか?」
杏奈はそう言って、病室の片隅に置かれた炉炭へ視線をやった。寒さが緩んで炭を足すことも少なくなったが、なんと言っても身重である。体を冷やしてはとの心遣いであったが、愛紗は
「いいのよ、大丈夫。今日はずいぶんと暖かいもの」
とにこやかに笑う。杏奈が出ていくと、寝台脇に置かれた木椅子に座った。
「ずっと来られなくてごめんなさい」
藍那が差し出した右手を握りしめ、額に当てた。既婚を表す額の星は、今は安産を願う赤色の染料で印されている。
「本当はこの子のことを思うと、来ないほうがいいのかもしれない。でも、どうしても、あなたに伝えたいことがあるの。それから、これも……」
そのとき初めて愛紗が外套の下から左手を出した。いや、正確には、左手に抱えていた布包みを。
藍那の息が一瞬、止まる。見覚えのあるその形。寝台の上、藍那の足元にそれをおいた愛紗が、慎重な手付きで包みを開いていく。
ほどなく天星羅と、油紙に包まれたままの手鏡が姿を表した。