第2話 天星羅(アストラ)
文字数 4,586文字
色街の朝は遅い。
とは言ってもそれは夜更かしを楽しんだ娼妓と客たちの話だ。下働きの者たちはまだ暗いうちから起き、水汲みと火起こしに始まって、掃除やら朝餉の支度に忙しい。
藍那 はたいてい、下女の由真 が廊下を拭くせわしない足音で目が覚めるのが常だった。なにしろ由真ときたら、バタバタと板を踏み抜きそうな勢いで床を蹴るのだ。
この帝都で贅をこらした建物がそうであるように、この金亀 楼も外壁は土地の石灰石、内装は高級材木である卡迪沙杉 を使っている。
南に広がる滑石海 。その向こうの地、嘉南 州より運ばせた木材は有り余る富の証しだ。色の違う板を組み合わせた寄木細工 の廊下は格式の高さをものがたり、それをつややかに清めるのは、下働きの者たちの大切な勤めであった。
「おはよう、今日も元気ね」
扉を開け、眠い目をこすった藍那に
「おはようございます、先生!」
と由真が元気いっぱいの声をかける。その朗らかさはまるで生まれたての小スズメだ。幼いころに奉公に出され、まだ十二歳。それでも苦労を苦労とも思わない性質なのか、明るくひねたところがないのがいい。
用心棒を先生と呼ぶのは習わしのようなものだが、藍那は由真に字や読み書きを教えているので、学業の先生でもある。
「顔を洗って来て下さいね。これから朝ご飯を用意しますから」
毎朝交わされる挨拶を、由真は律儀に繰り返す。あくびで返事をし、夜着のまま履物をひっかけて水場へ向かった。
金亀楼には立派な共同浴室があり、格上の娼妓はそこで湯あみして身を清める。もう少し下の娼妓なら部屋でたらいに張った湯を使う。
用心棒の藍那も湯を使うことを許されているのだが、面倒でいつも裏の水場ですませてしまう。化粧をするわけでもないし、顔などさっと洗っておしまいだ。
水場は娼館の裏手にある。近くの扉から外へ出るとまぶしい木漏れ陽に目をすがめた。夜中に雨が降ったらしく、地面がまだ濡れている。今は雨季、この帝都で最も雨が多い季節だが、風が涼しく過ごしやすい。
乾季に芽吹いた木々にとって、雨季に降る雨はまさに天の恵みだ。一日に数回雨が降るごとに、緑は目に見えて濃くなっていく。街中に清々しい風が通り抜けるこの時期が過ぎれば、暑さの厳しい暑季が待っていた。
「よし、今日も頑張るか」
そう言って伸びをし、水場へと足を向ける。中庭の大噴水同様、ここも常時水が流れており、獅子の口が惜しみない水流を吐き出していた。水は吹き出し口から近い順番に、水飲み、洗顔、洗濯に使われている。
この時間には珍しく先客がいた。ざばざばと水しぶきを上げて顔を洗っているのだが、身体つきから察するにまだ若い男らしい。
一目で下働きのものと分かる簡素な服を着ていたが、袖から伸びた腕はそれほど陽に焼けていない。藍那の視線を感じたのか、こちらを向いた顔と目があった。
赤味を帯びた栗色の髪だった。歳のころは同じくらいか。滴が流れ落ちる端正な顔立ち、涼しげな双眸は戸惑うように藍那を見つめている。
その目の色にはっと息をのんだ。さまざまな国や大陸のものが行き交う帝都のこと、青や緑など、それほど珍しいとは言えない。だが紫色の瞳など初めて見た。
大きな娼館だから働く男衆も多いが、そのほとんどの顔を藍那は見知っている。おそらく今朝から働き始めた新入りだろう。だから
「おはよう。あなた、新しくここに来た人?」
とにこやかに声をかけた。
しかし掛けられた方はとたんに脅えた表情になる。びくりと身体を震わせ、濡れた顔もそのままに、脱兎のごとく走り去っていった。
あとには地べたに手ぬぐいが一枚。わけのわからない藍那は釈然としない気分でそれを拾った。見ると向こうの景色が透けるくらいにくたびれて、ぼろ布といっても語弊 がない。
「わたし、そんなに怖い顔してたのかな」
あまりと言えばあまりの脅えよう。
いったい自分のなにが彼をそこまで怖がらせてしまったのか。考えてもさっぱり分からない。見ず知らずの他人にあのように怯えられるのは、あまり気持ちのいいものではなかった。
――いいですか、お嬢さま。身だしなみというものはご自分のためだけではなく、人のためでもあるのです。
ふと、ばあやの口癖が耳元で甦る。顔を洗い、手ぬぐいで滴を拭いながらため息をついた。
そういえば最近ろくに鏡で顔を見ることもない。男勝りな稼業で色気がないのは仕方ないが、少しは身だしなみに気を遣った方が良いのだろうか。
そう案じた末、朝餉の膳を運んできた由真へ真っ先に訊ねた。
「あのね、誰かに頼んで、鏡を貸してもらってきてくれない?」
由真はそれを聞くなり、取り落としそうになった膳を床に置いて
「どうしたのですか、先生? もしかしてお腹でも痛いのですか?」
とおそるおそる顔をのぞき込む。
無理もない。藍那ときたら顔は洗いっぱなしで剃刀を当てたこともなく、髪なども結わずに背中で一つに束ねただけ。鏡などせいぜい半月に一度見ればいい方だ。
藍那は苦笑し、水場であったことを話した。男が怯えて走り去ったことを聞くと由真は盛大に吹き出す。ひとしきり笑ってから
「それたぶん、紫園 さんだと思います。あの人、誰にもそうなんですよ。亜慈 さんなんて『借りてきた猫どころじゃねえ、まんず拾ってきた野良猫だ』なんて言ってますし。あの人、口がきけないみたいで、誰ともしゃべらないんですよね」
と言った。亜慈は楼の賄い方を勤めている。厳つい顔に似合わず面倒見が良い男なのだが、やはり藍那と同じような目に遭ったらしい。
「ふうん、いつここに来たの」
「昨日からですよ。ほら丹義 さんが腰痛でとうとうやめちゃったでしょ。人手が足りないからって、代わりの人をずっと探してたらしいんですけど」
「でも、あんなんで役に立つのかしら」
「水汲みとか掃除に厠のことなら、べつにしゃべれなくてもいいですから。でも意外ですね。先生が男の人のことを気にするなんて」
「べ、べつに、そういうわけじゃないけど」
くすくすと笑う由真に藍那は口を尖らせた。
娼館という男女の営みを生計 とする場にありながら、藍那はそれについてはとことん初心 ときている。
もちろん知識だけはあるが完全な耳年増であり、この歳まで男と同衾どころか手すらつないだことがないのだ。なにしろ男よりも剣の柄になじんでしまった手だ。すっかり皮が厚くかたくなってしまい、女らしさとは程遠い。
朝餉をすませてから、いつものように二刻ばかり由真の勉強をみてやる。
由真は賢い娘で、このような娼館の下働きをさせるにはもったいなかった。いずれ金を貯めたら、彼女を養女にして学校に入れてやれないかと考えているが、まだそれを口にしたことはない。
今日は書き取りで藍那が読み上げた文章を由真が書いていく。書き終わったと差し出した半紙に朱を入れて、採点と修正をしてやった。
採点の途中、由真が思い出したように
「あ、そういえば先生。愛紗 さまが、私の勉強が終わったら部屋まで来てほしいと仰ってたのです」
「ああ、そうなの」
「明後日はいよいよお嫁入りですね。愛紗さまのお部屋は足の踏み場もないほど、贈り物でいっぱいですよ」
「そりゃそうよ。なにしろ、金亀楼の魁花 が身請けされるんだからね」
魁花 とは、娼妓のなかでも最高位を示す称号だ。
上は上﨟 から、下は銅貨十枚の目堕落 と呼ばれる茣蓙 もち女郎まで。紅籠 街には二百を下らない娼妓 がいるとされる。魁花 はなかでも別格とされ、今は金亀楼の愛紗と、玉蘭 楼の紗羅 の二人だけだ。
その愛紗が染物組合の長、慈衛堵 の第二夫人となることがめでたく決まり、嫁入りを明後日に控えている。
「なんだか寂しくなりますね」
「ああ、そうだね」
藍那は由真とうなずき合った。
愛紗の身請けを惜しむ者は多く、藍那もその一人である。鷹揚な性質で、魁花という地位にありながら驕るところは少しもなく、そのために藍那とも気があった。まるで妹のように気にかけてくれ、なにかと部屋へ呼び出しては世間話の相手にする。
身請けされれば今までのように気軽に会うことも叶わないだろう。そのことに一抹の寂しさを覚えてしまう。
由真が朱を入れられた半紙を手に部屋を出ていったあと、藍那は着古した木綿の単衣を脱ぎ、張りのある麻の単衣に袖を通した。男物の白袴はそのままに、縞の男帯を単衣の上から締める。
(鏡……か……)
ふと思い立ち、床に置いた剣を取り上げた。
剣首と剣格(※刀で言えば鍔にあたる)は真鍮、柄と鞘は木で作られたそれは、剣としては小ぶりな作りである。剣首と剣格に繊細な草木模様が装飾されているのも女性的で、はじめから女物として作られたようだ。
眼前にかざして、ゆっくりと鞘から抜いた。
まるで水鏡のような白刃 が藍那の目元を映し出す。その剣身に刻まれているのは七つの星――北斗と、一匹の龍。
天星羅 。それがこの剣の銘だ。
師であった母から譲り受けた両刃剣。母亡きあと、十四で故郷を飛び出してから幾度とない窮地を切り抜け、ともに戦ってきた。
隊商や大道一座の警護、酒家の用心棒。街から街を渡り歩き、ようやく帝都阿耶 にたどり着いたのが一年半前のこと。
さてどうしようかという矢先に運良く金亀楼の用心棒に収まったが、最初の頃はやたらと喧嘩を売られたものだ。
剣客たちの世界は広いようで狭い。
紅籠街きっての上楼がまだ青臭さの抜けない小娘を雇ったとの評判は、瞬く間に広がっていた。それを聞いて面白くない連中が、やたらと藍那に絡んできたのである。
そんな輩をことごとく打ち返し、この帝都での戦績は七十二戦七十二勝。今ではその名を帝都にとどろかせ、金亀楼の藍那といえばちょっとした有名人だ。
歴戦をくぐり抜けてきた大切な相棒――その剣身に映った鳶色の瞳を藍那は見つめる。母は亜麻色の瞳であった。藍那はそれよりも茶が濃い。この色は父に似たのかと、幼い頃はときおりそんなことを考えたものだ。会ったこともない、顔も知らない父に――。
剣を鞘に収め、帯剣して部屋を出た。用心棒だけが楼内で帯剣を許され、非常時には抜くことを許される。
愛紗の部屋は三階の北、金亀楼で一番格上の場所にあった。足を踏み入れると、愛紗は嫁入り道具になかば埋もれるような格好で脇息にもたれている。
薄物の長単衣をゆったりとまとい、脇には孔雀の羽扇を使う侍女、上良 を従えていた。雨季はまだ始まったばかりだというのに、今日は暑季を先取りしたかのように暑い。
藍那を見るなり優雅な笑みを浮かべ、愛紗が身体を起こした。
とは言ってもそれは夜更かしを楽しんだ娼妓と客たちの話だ。下働きの者たちはまだ暗いうちから起き、水汲みと火起こしに始まって、掃除やら朝餉の支度に忙しい。
この帝都で贅をこらした建物がそうであるように、この
南に広がる
「おはよう、今日も元気ね」
扉を開け、眠い目をこすった藍那に
「おはようございます、先生!」
と由真が元気いっぱいの声をかける。その朗らかさはまるで生まれたての小スズメだ。幼いころに奉公に出され、まだ十二歳。それでも苦労を苦労とも思わない性質なのか、明るくひねたところがないのがいい。
用心棒を先生と呼ぶのは習わしのようなものだが、藍那は由真に字や読み書きを教えているので、学業の先生でもある。
「顔を洗って来て下さいね。これから朝ご飯を用意しますから」
毎朝交わされる挨拶を、由真は律儀に繰り返す。あくびで返事をし、夜着のまま履物をひっかけて水場へ向かった。
金亀楼には立派な共同浴室があり、格上の娼妓はそこで湯あみして身を清める。もう少し下の娼妓なら部屋でたらいに張った湯を使う。
用心棒の藍那も湯を使うことを許されているのだが、面倒でいつも裏の水場ですませてしまう。化粧をするわけでもないし、顔などさっと洗っておしまいだ。
水場は娼館の裏手にある。近くの扉から外へ出るとまぶしい木漏れ陽に目をすがめた。夜中に雨が降ったらしく、地面がまだ濡れている。今は雨季、この帝都で最も雨が多い季節だが、風が涼しく過ごしやすい。
乾季に芽吹いた木々にとって、雨季に降る雨はまさに天の恵みだ。一日に数回雨が降るごとに、緑は目に見えて濃くなっていく。街中に清々しい風が通り抜けるこの時期が過ぎれば、暑さの厳しい暑季が待っていた。
「よし、今日も頑張るか」
そう言って伸びをし、水場へと足を向ける。中庭の大噴水同様、ここも常時水が流れており、獅子の口が惜しみない水流を吐き出していた。水は吹き出し口から近い順番に、水飲み、洗顔、洗濯に使われている。
この時間には珍しく先客がいた。ざばざばと水しぶきを上げて顔を洗っているのだが、身体つきから察するにまだ若い男らしい。
一目で下働きのものと分かる簡素な服を着ていたが、袖から伸びた腕はそれほど陽に焼けていない。藍那の視線を感じたのか、こちらを向いた顔と目があった。
赤味を帯びた栗色の髪だった。歳のころは同じくらいか。滴が流れ落ちる端正な顔立ち、涼しげな双眸は戸惑うように藍那を見つめている。
その目の色にはっと息をのんだ。さまざまな国や大陸のものが行き交う帝都のこと、青や緑など、それほど珍しいとは言えない。だが紫色の瞳など初めて見た。
大きな娼館だから働く男衆も多いが、そのほとんどの顔を藍那は見知っている。おそらく今朝から働き始めた新入りだろう。だから
「おはよう。あなた、新しくここに来た人?」
とにこやかに声をかけた。
しかし掛けられた方はとたんに脅えた表情になる。びくりと身体を震わせ、濡れた顔もそのままに、脱兎のごとく走り去っていった。
あとには地べたに手ぬぐいが一枚。わけのわからない藍那は釈然としない気分でそれを拾った。見ると向こうの景色が透けるくらいにくたびれて、ぼろ布といっても
「わたし、そんなに怖い顔してたのかな」
あまりと言えばあまりの脅えよう。
いったい自分のなにが彼をそこまで怖がらせてしまったのか。考えてもさっぱり分からない。見ず知らずの他人にあのように怯えられるのは、あまり気持ちのいいものではなかった。
――いいですか、お嬢さま。身だしなみというものはご自分のためだけではなく、人のためでもあるのです。
ふと、ばあやの口癖が耳元で甦る。顔を洗い、手ぬぐいで滴を拭いながらため息をついた。
そういえば最近ろくに鏡で顔を見ることもない。男勝りな稼業で色気がないのは仕方ないが、少しは身だしなみに気を遣った方が良いのだろうか。
そう案じた末、朝餉の膳を運んできた由真へ真っ先に訊ねた。
「あのね、誰かに頼んで、鏡を貸してもらってきてくれない?」
由真はそれを聞くなり、取り落としそうになった膳を床に置いて
「どうしたのですか、先生? もしかしてお腹でも痛いのですか?」
とおそるおそる顔をのぞき込む。
無理もない。藍那ときたら顔は洗いっぱなしで剃刀を当てたこともなく、髪なども結わずに背中で一つに束ねただけ。鏡などせいぜい半月に一度見ればいい方だ。
藍那は苦笑し、水場であったことを話した。男が怯えて走り去ったことを聞くと由真は盛大に吹き出す。ひとしきり笑ってから
「それたぶん、
と言った。亜慈は楼の賄い方を勤めている。厳つい顔に似合わず面倒見が良い男なのだが、やはり藍那と同じような目に遭ったらしい。
「ふうん、いつここに来たの」
「昨日からですよ。ほら
「でも、あんなんで役に立つのかしら」
「水汲みとか掃除に厠のことなら、べつにしゃべれなくてもいいですから。でも意外ですね。先生が男の人のことを気にするなんて」
「べ、べつに、そういうわけじゃないけど」
くすくすと笑う由真に藍那は口を尖らせた。
娼館という男女の営みを
もちろん知識だけはあるが完全な耳年増であり、この歳まで男と同衾どころか手すらつないだことがないのだ。なにしろ男よりも剣の柄になじんでしまった手だ。すっかり皮が厚くかたくなってしまい、女らしさとは程遠い。
朝餉をすませてから、いつものように二刻ばかり由真の勉強をみてやる。
由真は賢い娘で、このような娼館の下働きをさせるにはもったいなかった。いずれ金を貯めたら、彼女を養女にして学校に入れてやれないかと考えているが、まだそれを口にしたことはない。
今日は書き取りで藍那が読み上げた文章を由真が書いていく。書き終わったと差し出した半紙に朱を入れて、採点と修正をしてやった。
採点の途中、由真が思い出したように
「あ、そういえば先生。
「ああ、そうなの」
「明後日はいよいよお嫁入りですね。愛紗さまのお部屋は足の踏み場もないほど、贈り物でいっぱいですよ」
「そりゃそうよ。なにしろ、金亀楼の
上は
その愛紗が染物組合の長、
「なんだか寂しくなりますね」
「ああ、そうだね」
藍那は由真とうなずき合った。
愛紗の身請けを惜しむ者は多く、藍那もその一人である。鷹揚な性質で、魁花という地位にありながら驕るところは少しもなく、そのために藍那とも気があった。まるで妹のように気にかけてくれ、なにかと部屋へ呼び出しては世間話の相手にする。
身請けされれば今までのように気軽に会うことも叶わないだろう。そのことに一抹の寂しさを覚えてしまう。
由真が朱を入れられた半紙を手に部屋を出ていったあと、藍那は着古した木綿の単衣を脱ぎ、張りのある麻の単衣に袖を通した。男物の白袴はそのままに、縞の男帯を単衣の上から締める。
(鏡……か……)
ふと思い立ち、床に置いた剣を取り上げた。
剣首と剣格(※刀で言えば鍔にあたる)は真鍮、柄と鞘は木で作られたそれは、剣としては小ぶりな作りである。剣首と剣格に繊細な草木模様が装飾されているのも女性的で、はじめから女物として作られたようだ。
眼前にかざして、ゆっくりと鞘から抜いた。
まるで水鏡のような
師であった母から譲り受けた両刃剣。母亡きあと、十四で故郷を飛び出してから幾度とない窮地を切り抜け、ともに戦ってきた。
隊商や大道一座の警護、酒家の用心棒。街から街を渡り歩き、ようやく帝都
さてどうしようかという矢先に運良く金亀楼の用心棒に収まったが、最初の頃はやたらと喧嘩を売られたものだ。
剣客たちの世界は広いようで狭い。
紅籠街きっての上楼がまだ青臭さの抜けない小娘を雇ったとの評判は、瞬く間に広がっていた。それを聞いて面白くない連中が、やたらと藍那に絡んできたのである。
そんな輩をことごとく打ち返し、この帝都での戦績は七十二戦七十二勝。今ではその名を帝都にとどろかせ、金亀楼の藍那といえばちょっとした有名人だ。
歴戦をくぐり抜けてきた大切な相棒――その剣身に映った鳶色の瞳を藍那は見つめる。母は亜麻色の瞳であった。藍那はそれよりも茶が濃い。この色は父に似たのかと、幼い頃はときおりそんなことを考えたものだ。会ったこともない、顔も知らない父に――。
剣を鞘に収め、帯剣して部屋を出た。用心棒だけが楼内で帯剣を許され、非常時には抜くことを許される。
愛紗の部屋は三階の北、金亀楼で一番格上の場所にあった。足を踏み入れると、愛紗は嫁入り道具になかば埋もれるような格好で脇息にもたれている。
薄物の長単衣をゆったりとまとい、脇には孔雀の羽扇を使う侍女、
藍那を見るなり優雅な笑みを浮かべ、愛紗が身体を起こした。